第14話 パジャマとお礼の弁当
翌日の朝。
今日は昨日よりもさらに早く起きた。
昨夜、夕食の席で、小森さんが今日の朝ごはんもご馳走してくれると言い出したからだ。
(いやぁ、めちゃくちゃ美味かったな)
小森さん、本気でシェフを目指してもいいレベルだ。
他のことはともかく、料理の腕前においてだけは、学校中で彼女の右に出る者はいないだろう。
下手な店よりよっぽど美味かった。
(それにしても、今日は昨日みたいにラインが来ないな)
俺を歩きスマホに駆り立てた、あのメッセージ爆弾。
反省でもしたのだろうか。
それとも、あの壁ドンのように、また一つ黒歴史が積み重なったことを後悔しているのかもしれない。
そうして今朝は平和に道を歩いた。
もちろん、問題のあの三叉路も無事に通り過ぎた。
(ん? 今日はいないな)
昨日は玄関の前で待っていたのに。
すでに一度家に入ったことがあるんだから、インターホンを鳴らせってことか。
電話にしようか、インターホンを押そうか。
そう迷いかけた、その時だった。
「おじさん……」
突然、玄関のドアが少し開き、その隙間から杏奈ちゃんが顔を出した。
「おはよう」
「おはようございます」
「お姉ちゃんは?」
「それが……。まだ起きてないんです」
「え? まだ起きてないの?」
「はい……。私がいくら起こしても起きなくて」
ああ、どういうことか察しがついた。
昨日俺がラインで勧めたアニメを、夜通し見ていたのだろう。
心の中でため息をつきながら言った。
「ごめんね、杏奈ちゃん。たぶん半分は俺の責任だと思う」
「そ、そうなんですか……? なら、おじさんが代わりに起こしてきてください」
「え? 俺が?」
「はい。私、声が小さくて起こすの苦手なんです。おじさんは男だから声大きいですよね?お姉ちゃんの部屋は2階の奥です」
いくらなんでも、勝手に年頃の女の子の部屋に入るのはどうかと思うが……。
かといって、このまま放っておくわけにもいかない。
念のため電話を入れてみたが、やはり繋がらなかった。
杏奈ちゃんに教えられた小森さんの部屋へ、そっと足を踏み入れた。
小森さんは枕に涎を垂らしながら、ぐっすりと眠っていた。
「小森さん、起きろ。起きないとイタズラするぞ」
「んんっ……。あと30分だけ」
「長っ!」
そういうのは普通、5分か10分だろ。
「早く起きろ!」
俺は小森さんの鼻を指でつまみ、耳元で大声を張り上げた。
これならすぐに起きるはずだ。
「んんーっ! やだ!」
だが、彼女は子どものように駄々をこねた。
腕をバタバタと振り回したかと思うと、不意にガバッと抱きついてきた。
「お、おい? こ、小森さん!?」
慌てる間もなく、俺の体は横たわる小森さんの隣へと引きずり込まれた。
気づけば、彼女と至近距離で顔を突き合わせる形になっていた。
透き通るような肌に、行儀よく伏せられた睫毛が寝息に合わせて微かに震えていた。
ほんのり赤らんだ頬を枕に預け、無防備に薄く開いた唇。
俺は思わず唾を飲み込んだ。
「杏奈も一緒に寝よ!」
ああ、寝ぼけて勘違いしてるんだな。
というか、普段から自分の妹を抱き枕代わりにしてるのか。
(……これ、どうしよう)
一歩間違えれば、ビンタされるどころか警察沙汰になりかねない。
俺の人生最大の危機かもしれなかった。
心臓が嫌な意味でバクバクと跳ね上がっていると――
「……え?」
「あ」
小森さんが目を覚ましてしまった。
「きゃあああっ——!!」
鼓膜が破れんばかりの悲鳴が、狭い部屋に反響した。
隣の家まで筒抜けになりそうなほどの大音量だ。
「なんであんたがここにいるのよ!?」
小森さんが枕を掴み、大きく振りかぶった。
俺に投げつける気満々で。
「涎まみれの枕投げんな!」
「よ、涎まみれじゃないわよ!?」
俺の言葉に動きを止めた彼女は、枕をそっとベッドに戻した。
さて、この状況をどうするか。
彼女の立場からすれば、驚くのも無理はない。
俺だって、寝起きに女友達の顔が目の前にあったら恐怖すら覚えるだろうから。
「その……。お姉ちゃん、ごめん」
部屋の外から様子をうかがっていた杏奈ちゃんが、ようやく助け舟を出してくれた。
「実は私がおじさんに頼んだの。お姉ちゃんがどうしても起きないから、助けてって……」
「え? そ、そうなの?」
小森さんが俺の顔と杏奈ちゃんの顔を交互に見た。
そして、すぐに目を逸らしてぽつりと言った。
「……ごめん、深川。迷惑かけたわね」
「気にするな。まあ、その涎まみれの枕を食らってたら、ちょっとキレてたかもしれないけど」
「だから涎まみれじゃないってば!」
まあ、ぶっちゃけ小森さんの寝顔は可愛かったから、俺の方が得した気もするし。
「それより、パジャマ可愛いな」
「え?」
彼女は俺の言葉に視線を落とし、自分の服を確認した。
そこには、うさぎの耳がちょこんと付いた淡いピンクのコットンパジャマが。
「ひゃあああっ——!!」
小森さんの悲鳴が再び響き渡った。
顔を真っ赤にしてウサギの耳を掴み、部屋の隅にうずくまってしまった。
まるで肉食動物に怯えて隠れる本物のウサギのようだった。
「私、もうお嫁に行けない……」
「いや、たかがパジャマくらいで……」
「だって、ギャルはクールじゃなきゃいけないのに……」
「お前がエセギャルだってのはバレバレなのに、今さら何言ってんだよ」
「エセギャルって言わないで!25%はギャル成分入ってるんだから!」
出たよ、25%ギャル論。
「小森さんは、ギャルのこと、分かってないんじゃないか?」
「え? どういうこと?」
「ギャルのクールさってのは、我が道を行くマインドのことだろ。 他人の目なんか気にしない、それこそがギャルじゃないか」
「そ、そうなの?」
「だから、そのパジャマだって本人が可愛いと思えば、十分にギャルらしいってことさ」
「た、確かにそうかも!」
小森さんの表情がパッと明るくなった。
そして今度は見せつけるかのように背筋を伸ばし、堂々とウサギのパジャマを披露した。
横で一部始終を見ていた杏奈ちゃんが、ぼそりとつぶやいた。
「うわあ、お姉ちゃんチョロい……」
◇
その後、小森さんが作ってくれた朝食を三人で食べてから登校した。
問題の三叉路も無事に通過した。
二日連続で一緒に登校した俺と小森さんの関係を疑うクラスメイトたちの声もあったが、高木がうまく誤魔化してくれた。
(このまま何事もなく過ぎ去るのか?)
考えてみれば、小森さんが交通事故に遭う『悪夢』は一度しか見ていない。
もし因果律が強く、『運命』に近い未来であれば、結月の時みたいに何度も見ているはずだ。
もしかすると、俺が気づいていないだけで、オレンジ色のマニキュアの一件とは関係なく、すでに回避できているのかもしれない。
(それでも、まだ油断はできないな)
今日は5月の最終日。
明日からは夏服に変わる。
うちの学校は移行期間なしで一斉に衣替えするから、もし事故が起きるとすれば今日の下校中だけだ。
一方、当の本人である小森さんは——
「今日、和花、なんだか疲れてるみたいだけど?」
「ん? あ、昨日ちょっと夜遅くまで見てたものがあって」
「何見てたの? あ、AVとか?」
「ち、違うわよ!ふ、普通の、その……。映画! ちょっとエッチだったけど」
「えっ、ほんとに? ちょっとでもエロい話題が出ると顔真っ赤にする和花が?」
結月と呑気に会話を楽しんでいた。
……こちらは本人の命がかかっているというのに。
「他の友達に面白いって勧められたの」
「へえ、和花に他の友達、ね……」
「うん!最近できたの」
「もしかして、蓮じゃないよね?」
結月の目が鋭くなった。
すると小森さんは少し慌てたように「え?」と言葉を詰まらせた。
「ふ、深川だけど、ゆ、結月が心配するような関係じゃないから! 本当にただの友達!」
「ほんとだよね? 私、和花を信じていいんだよね?」
「も、もちろん!考えてもみてよ、深川ってガチのオタクじゃない? 私と合うわけないでしょ!」
いや、俺は隠れオタクだって言ったはずだぞ。
後で徹底的に抗議してやる。
「蓮がオタクってことまで知ってるんだね。蓮って、よっぽど親しくないとそういうことまで教えないのに……」
「え? そ、そうなの?」
結月が小森さんを睨みつけながら言った。
「和花、私信じてるからね?」
「う、うん!」
実にあからさまな牽制だった。
自分は俺を裏切って長澤先輩のところへ行くくせに。
結月の言動の一つ一つに苛立ちを覚え、小森さんがひどく可哀想に思えた。
(無駄に結月のことを気にするのはやめよう)
今集中すべきは小森さんだ。
そう考えながら午前の授業を受けた。
お昼になり、学食へ向かおうと席を立ちかけたその時——
「深川」
小森さんが俺の席に近づいてきて声をかけた。
「どうした?」
「一緒にお昼食べよ」
「ん? 北山さんは?」
結月と別れてからは、いつも二人で教室で弁当を食べていたはずだが。
教室を見回してみると、結月の姿はどこにもなかった。
「それが……。今日、結月が弁当を忘れてきたらしくて」
「ああ、北山さんは学食か」
「うん。本当はこれを渡して結月と食べようと思ってたんだけど……」
これって?
俺が首を傾げると、小森さんが弁当箱を一つ差し出した。
「これ、深川の」
「え? 俺の弁当作ってくれたのか?」
「う、うん。お礼に」
昨夜のうちに用意してくれたらしい。
彼女の料理を絶賛したのが効いたのか、お礼の手料理が定番になりつつあるようだ。
「だから、一緒に食べない?もしかして、誰かと食べる約束でもしてる?」
「あ、いや、そういうわけじゃないけど……」
困った。
別に小森さんと一緒に食べたくないわけじゃない。
むしろ、俺のために作ってくれたこの弁当を前にして、すでに生唾を飲み込んでいるくらいだ。
ただ——
「え、何?小森さん、深川くんのために弁当作ってきたって!」
「付き合ってないとか言いながら、もうそんな関係なの?」
「友達以上恋人未満ってやつじゃない?しかも小森さんからアプローチしてるし!」
教室のざわめきが、じわじわと広がり始めた。




