1.赤い葉の正体(レティシア視点)
「誘引薬草です」
青い幌馬車の車輪が石を踏み、荷台が跳ねた。
赤く擦れた手首に痛みが走る。縄はもうないのに、身体だけがまだ椅子へ縛られているようだった。
「私が薬屋で見たのは、青い花ではありません。魔物を呼び寄せる、赤い葉の薬草です」
向かいで、ミラさんの輪郭が前へ傾く。
眼鏡を失くしたせいで、誰の顔もぼやけていた。それでも、すぐ近くにいるダイキさんの声だけは間違えなかった。
「それ、俺らが迷宮で見つけた草や」
「あの山みたいに積まれてたやつ!?」
「うん。一本抜いただけで、魔物が五匹も来た草」
一本で、五匹。
迷宮には山ほどあり、薬屋ではそれを煮詰めていた。
今は休んでください、と言われたばかりだった。けれど、この馬車が研究所へ着くまで黙っていることはできない。
「薬屋の奥に、使い終えた濾し布がありました。赤い葉脈と細かな葉の粉が、織り目に残っていたんです」
「それで分かるん?」
「最後に使った布が粗すぎます。飲み薬なら、あれでは細かな粉が液へ残ります。その代わり、鍋の横には浅い乾燥皿が並び、一枚には黒い粉がこびりついていました」
地下で見た大鍋を思い出す。縁にこびりついた黒い膜。乾燥皿を削った跡。鼻の奥へ残る、甘く腐った臭い。
「飲ませる薬を作っていたのではありません。粗い葉だけを取り除き、煮詰めた液を乾かして、黒い粉にしていたんです」
荷台の奥で、ナオユキさんが扉から手を離す。
「運ぶ量を減らして、効果を強くしたのか」
「はい。乾いたまま包んで運び、使う場所で撒くか、水を含ませるだけで――」
そこまで言った時、御者台からカゲマルさんの声が飛んできた。
「拙者が第七倉庫まで追っていた荷も、誘引薬草でござる」
「先に言えや!」
幌の前を仕切る布が揺れ、灰色の頭巾が一瞬だけ見えた。
「星巡りは、迷宮周辺へ大量の誘引薬草を運んだ荷を追っていた。されど、記録は第七倉庫へ入ったところで消えたのでござる」
「船では、不審な荷としか言ってへんかったやろ」
「薬屋の件と同じだと決める証拠がなかった。今、加工跡を見た本人が同じ名を口にした」
第七倉庫で消えた、一台分の荷。
薬屋で作られていた、撒くための黒い粉。
馬車の外から、別の馬車がすれ違う音がした。遠くで子供が笑い、店先から客を呼ぶ声が聞こえる。
もし、この道の先で撒かれたら。
誘引薬草が、魔物を生み出すわけではない。
街道で一株を抜いた時に来たのは、近くにいた五匹だけだった。
けれど、量と濃度が増せば、臭いはもっと遠くまで届く。
門の外にいる魔物が頭を上げる。畑を踏み、荷馬車を倒し、この声の多い場所へ走ってくる。
さらに遠くの、大きな魔物まで臭いを拾うかもしれない。
一か所なら、反対へ逃げられる。
二か所、三か所に撒かれたら、それぞれ別の範囲にいた群れが動く。逃げた先からも魔物が来て、狭い門と街道が通り道になる。
無限に湧くわけではない。引き寄せられた群れを倒せば、その場所の襲撃はいったん終わる。
それでも、一台分の粉がどこへ置かれたか分からないままでは、何匹来るのか、どれほど強い魔物まで届くのかも分からない。
「……レティシアさん?」
ハナさんの手が肩へ触れた。
自分が息を止めていたことに気づく。
「第七倉庫から先を、すぐに調べてください」
掠れた声しか出なかった。息を吸い直し、今度はカゲマルさんへ届くように言う。
「加工した者を捕まえるだけでは足りません。濃縮した粉が残っていれば、町のどこでも同じことが起こせます」
「王都へ着き次第、星巡りへ回すでござる」
返事を聞いて、ようやく指の震えが少し収まった。
「でも、レティシアさんはどうして、その薬屋へ?」
ミラさんに尋ねられ、膝の上で手を重ねる。
「船酔い止めを買うためです。店主が、もっと効く薬を奥から出すと言って、扉を開けました」
開いた扉から、あの臭いが流れてきた。
知らないふりをして帰ればよかったのかもしれない。
それでも私は、桶からはみ出した濾し布を見て、尋ねてしまった。
――誘引薬草を、これほど濃くして何に使うのですか。
「背後で鍵が掛かりました。逃げようとしたところを押さえられ、眠り薬を含ませた布を口元へ……次に目を覚ました時には、地下の椅子へ縛られていました」
重ねた指に力が入る。
ハナさんが、私の袖をそっと握った。
「最初から、レティシアさんを狙ってたわけじゃなかったんだ」
「はい。研究所の者だと知ったのも、捕まえたあとです」
最初に聞かれたのは、薬屋で何を見たか。誰かへ話したか。
何度、誰にも話していないと答えても、帰してはくれなかった。
「研究所の人間を捕まえた。帰せば加工が露見する。殺せば捜査が始まる」
ナオユキさんの声が低くなる。
「自分たちで決められず、上の指示を待ったのか」
「その上が、黒書商会か」
ダイキさんの声が、さらに近くなる。
「あの草のせいで、迷宮中の魔物が奥へ集まってた。白い蜘蛛まで来たんかもしれん」
「そこまでは、まだ断定できぬ」
カゲマルさんがすぐに止めた。
「されど、迷宮へ運ばれた草と、薬屋で煮詰められた草が、第七倉庫でつながった。偶然ではござらぬ」
ダイキさんの手が、長椅子の縁を強く掴む。
「何人死にかけたと思ってんねん」
掠れた声だった。
「そんなもん作って、見つけた人は攫うんか」
慰める言葉は浮かばなかった。
代わりに手を伸ばす。右手首へ痛みが走り、指から力が抜けた。
落ちる前に、ダイキさんの手が下から支えてくれる。
薬材倉でも、倒れかけた身体をこの手が受け止めてくれた。
眼鏡がなくても、掌の硬さと温かさははっきり分かる。
指を閉じかけた。
隣で、ハナさんの袖が動く。
薬材倉で力を使い果たしながら、それでもダイキさんを守っていた人。今も私の肩を支えてくれている。
私は指を開き、膝へ戻そうとした。
ダイキさんの手が離れる。
ほんの一瞬だけ、指先がその温もりを追った。
ハナさんが何も言わず、私の右手首を両手で包む。
その優しさが、痛みより苦しかった。
「だから、今のうちに話しておきたかったんです」
私は二人の手から目を逸らし、顔を上げた。
「私が休んでいる間に、また誰かが巻き込まれる方が怖いです」
「分かりました。でも、もう無理はせんといてください」
港へ向かう馬車でも聞いた、少し呆れたような声だった。
思わず、口元が緩む。
けれど、まだ話は終わっていない。
「それから、途中で質問が変わりました」
「変わった?」
「薬屋で見たものではなく、青い花について聞かれたんです。どんな薬効があるのか。なぜ高い値をつけて集める者がいるのか、と」
「現物は見せられたん?」
「いいえ。花弁の数も、葉の形も、何も知りませんでした。青い花というだけでは種類を絞れません」
向こうも、花が何なのかを知らなかった。
だから、捕まえた研究者から答えを得ようとした。
「不老長寿について聞かれたんは?」
「あの薬材倉が初めてです」
「それ、俺が旧関門でユリウスに話した噂や」
ダイキさんが短く息を吐く。
「ほな、少なくとも青い花の答えは渡してへんな」
頷く。
答えられなかったことが、初めて役に立った。
「蒼海商会にも、無事やって連絡せな」
「セレスさん、レティシアさんをずっと心配してたもんね」
聞き覚えのない名前だった。
「セレスさん、ですか?」
「セレス・アーデルさん。蒼海商会王都本部の監査官やって。レティシアさんとは、何度か会ったことがあるって」
車輪と蹄の音だけが、幌馬車の中に続いた。
何度考えても、その名前へ結びつく人はいない。
「少なくとも、私の知り合いではないと思います」




