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2.満ち潮の桟橋

船と桟橋の隙間は、もう二メートル近く開いていた。


飛び乗るなら、今しかない。

助走のために一歩下がる。


「待て。船縁まで届かない!」


ナオユキの声が飛ぶ。

桟橋の板から見ても、船縁は俺の肩より高い。跳べても、掴めなければ船と桟橋の間へ落ちる。


迷っている間にも、白い帆が風を孕んだ。

このまま離されたら、レティシアさんを乗せた船が王都のどこへ入るか分からなくなる。


ノクティスが、桟橋に落ちた綱の束を指した。

「あれ、長いよ」


荷を吊り上げるための細い綱や。

あれなら、人一人の重さには耐えられる。


「ミラ。その綱、矢に結べる?」

「結んで、どうするの?」

「船尾の太い杭を、綱の輪に入れる。矢で輪を向こうへ運ぶんや」


ミラが俺と海を交互に見る。

「泳いで追う気!?」

「他に船がない。今しかないんや」


綱の先へ、係船杭より大きく、引けば締まる輪を作る。

ミラはすぐに膝をつき、広げた輪の先を矢尻の根元へ結んだ。


ナオユキが綱の途中で輪を作り、俺の腰へ回した。

残った端を、自分の手へ巻きつける。

「船側を切られたら、この輪ごと引き戻す。綱は手放すな」

「頼む」


ミラが弓を引き絞る。

綱の束が絡まないよう、ハナとノクティスが桟橋の上へ広げた。


「船尾の杭の向こうへ! 矢は刺さらなくてええ!」

「そこなら見える!」


弦が鳴る。

矢が綱の輪を引いて、海の上を飛ぶ。

船尾の係船杭を越え、向こう側の甲板へ落ちた。


引かれた輪が杭の上から被さる。

綱を手前へ引くと、輪は太い杭の根元で締まった。



船へ伸びた綱を、両手で握る。

船はもう、桟橋から三メートル以上離れていた。


「行くで!」


桟橋を蹴った。


身体が海へ落ちる。

冷たい水が頭まで覆い、次の瞬間、綱が両腕を前へ引いた。


肩が抜けそうになる。

それでも、係船杭へ掛けた輪は外れてへん。


綱を右手で引く。

左手を前へ送る。

波に身体を横へ振られ、両足で水を蹴る。

胸を船尾へ戻し、また綱を引く。


船に引かれながら、水の中を進む。

ナオユキが桟橋側で綱を送り出し、余った束が絡まないよう腕で捌いている。


「レティシアさん!」


海水が口へ入り、声が掠れた。

返事はない。


代わりに、船尾から大きな槌の頭が出てきた。


「兄貴! あいつ、泳いで追ってきたぞ!」


やっぱり乗ってたか、ギル!

その後ろへ、黒髪の男が現れる。


ガレス。


「見れば分かる。綱を外せ」


ギルが係船杭へ手を伸ばす。

根元まで締まった輪を持ち上げようとするが、綱は動かない。


「くそ、締まりすぎだろ!」


俺はもう一度、綱を手繰る。


船尾まで、あと三メートル。


「蒼海商会監査室です!」

桟橋から、セレスの声が飛ぶ。

「《海燕号》、直ちに帆を下ろしてください!」


ガレスは振り返らない。

腰から短剣を抜き、係船杭の根元で張る綱へ刃を当てた。


「撃てない! ダイキと重なる!」

ミラが弓を引いたまま叫ぶ。


「ハナ!」

「《ウォーターボール》!」


桟橋から水球が飛ぶ。

ガレスへ届く直前、ギルの大槌が横から振られた。


水球が槌の平たい面で弾ける。

ギルの上半身が水に濡れたが、足は止まらない。


「また水かよ!」


ギルが大槌を盾にして、ガレスの前へ立つ。

二発目の水球が、ギルの右を回り込む。

ギルは一歩右へ踏み込み、槌の柄で水球を叩き落とした。


その後ろで、短剣が綱を削っていく。


急げ。


右手。

左手。


船尾まで、あと一メートル。


波に持ち上げられた瞬間、木枠へ手を伸ばす。

指先が、船尾の端を擦った。


ガレスと目が合う。


「諦めろ」

「誰がや!」


ガレスが短剣を引いた。


綱が切れる。


掴みかけた船尾が、指先から離れた。

身体が海へ沈み、白い泡が視界を埋める。


腰の輪と、桟橋へ続く綱は残っている。


強く引かれた。


水面へ顔が出る。

桟橋では、ナオユキが綱を両手で引いている。

ミラとハナも、その後ろで同じ綱を掴んでいた。


「ダイキ、右!」


ノクティスが桟橋の下を指す。

古い鉄梯子が、水面まで伸びていた。


引かれる勢いに合わせて右腕を伸ばす。

指が、錆びた横棒を掴んだ。


梯子を上り、桟橋へ這い上がる。

振り返った時には、《海燕号》の船尾が水球の射程を外れていた。


白い帆が、少しずつ小さくなっていく。


あと一歩やった。

レティシアさんを乗せた船へ、指は届いていた。

それでも、船縁を掴む前に綱を切られた。


「裏の船小屋も空です」


廃塩倉の陰からノアが戻ってきた。

「残っているのは、底板の抜けた小舟だけです」


追う船はない。

《海燕号》は、満ち潮に乗って沖へ出ていく。


杭へ拳を打ちつけかけて、止めた。


まだ、終わってへん。

船を逃したなら、次にどこへ入るかを追う。


「探すんは、王都のどこへ入るかや」


セレスが沖の白い帆を見た。

「波越商会が王都で使う桟橋は、複数あります。ただ、船名まで分かっていれば、係留記録から候補を絞れます」


セレスは書類の裏へ数行を書き、署名して御者へ渡した。


「西港の支店へ。高速連絡船を出す準備をさせてください」

「行き先は?」

「王都です。私たちが着き次第、出航します」


続けて、セレスは小さな便箋へ何かを書いた。

四つ折りにして封蝋を垂らし、銀色の監査証を押し当てる。


「こちらは、本部行きの封書便へ。監査室長以外には開けさせないでください」

「監査の報告書ですか?」

「ええ。急ぎの報告です」


二通目の封書も受け取ると、御者が馬へ飛び乗った。


海沿いの坂を駆け上がっていく。


俺たちも桟橋を戻る。


桟橋の板には、粗塩が白く散っていた。

荷馬車の轍は廃塩倉の脇で止まり、そこから二人分の靴跡が桟橋へ続いている。


その間に、細い靴底を引きずった跡があった。

何度も踏ん張ったのか、板の上で左右へぶれている。


跡は、船を渡した板が置かれていた場所で途切れていた。


ハナが、その脇へしゃがむ。


「ダイキ」


板の隙間から拾い上げたのは、折れた銀縁眼鏡の片側だった。

細い縁に、小さな透明の欠片が残っている。


何度も見た。

レティシアさんが考え込むたび、指で押し上げていた眼鏡や。


「ここにいたんだ」


ハナが折れた眼鏡を両手で包む。

俯いたまま、もう一度言った。


「レティシアさん、やっぱりあの船に乗せられたんだ」


レティシアさんは、この桟橋で何度も踏ん張った。

それでも、《海燕号》へ無理やり乗せられた。


「高速連絡船は、《海燕号》より速いんやな?」


セレスが、沖の白い帆を見たまま頷く。


「ええ。先に出られても、距離は縮められます」


折れた眼鏡を、ハナから受け取る。


「追おう。今度は、海の上で」

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