4.口の軽い大槌
荷台には、誰もいない。
床板を蹴ってみる。
鈍い音が返るだけで、隠し扉もない。
「レティシアさん!」
もう一度呼んでも、返事はなかった。
ここまで追ってきた青い幌馬車は、空やった。
青い幌を握る指に、力が入る。
石橋で止められている間に、また別の場所へ運ばれた。
次の行き先が分からなければ、今度こそ追えなくなる。
「床を見て」
荷台へ上がったハナが、俺の足元を指した。
板の隙間に、白い粒がいくつも残っている。
塩みたいに見える。
その横には、太い樽を引きずったような二本の傷。
荷台の隅には、濡れた麻縄が丸めて捨てられていた。
「薬の道具は?」
ミラが幌の反対側をめくる。
「瓶も、薬草もない。人が寝てた跡も分かんない」
レティシアさんにつながる物はない。
あるのは、塩と樽と縄だけや。
「残念ですが、私が追ったのもこの馬車です」
声に振り返る。
傾いた木柵の外から、ノアが入ってきた。
灰色の外套には、街道の土が膝まで跳ねている。
「中に誰が乗っているかまでは分かりません。途中で別の馬車へ移されても、私に見える道は、この青い幌馬車を追い続けます」
「空やったって、いつ分かったん?」
「私がここへ着いた時には、もう空でした」
ノアが、青い幌馬車の後輪を指す。
「ここで轍が終わっています。馬だけ外されて、南の細道へ連れていかれました」
ノアが木柵の外へ目を向ける。
「皆さんの馬車が見えたので、その蹄跡を追う前に戻ったところです」
追った馬車そのものを、囮にされた。
「じゃあ、乗り換えたのはどこ?」
ハナが聞く。
「石橋から、ここまでのどこかです」
「広すぎるで、それ」
「ええ。ですから、私も困っています」
困っていると言いながら、いつもの軽い笑みは崩れない。
けど、右目に浮かんでいた灰色の輪は、もう消えていた。
この馬車から先は追えない。
なら、荷台に残った物から、次の荷を探すしかない。
床の白い粒へ手を伸ばしかけた時、ハナが俺の腕を掴んだ。
「待って。あの小屋に二人いる」
荷捌き場の南端。
屋根の半分が落ちた、小さな道具小屋がある。
「一人は焦ってる。もう一人は、すごくイライラしてる」
棍棒を持ち直し、小屋へ身体を向ける。
割れた戸の隙間で、大きな金属の頭が動いた。
見覚えのある大槌や。
「隠れるなら、その槌も隠した方がええで。ギル」
戸が内側から開く。
大槌を背負った大男と、黒い短髪の男が出てきた。
ギルとガレス。
ギルの右手には、しぼんだ油の革袋。
ガレスは、火のついた松明を持っている。
鼻を刺す油の臭いがした。
青い幌の裾が濡れて光っている。
先に燃やせば、立ち上る煙で、遠くからでも囮だと分かる。
俺たちが荷台へ集まってから火をつけ、消火している間に逃げるつもりやったんか。
「兄貴。こいつら、早すぎねえか」
「喋るな。退くぞ」
ガレスは俺たちと戦う気がない。
ギルの肩を押し、道具小屋の裏へ下がる。
その先には、二頭の馬がつながれていた。
一歩踏み出すと、ガレスが松明を青い幌へ向けた。
「一歩でも来れば、これを幌へ落とす」
今飛び込めば、二人を止める前に証拠を燃やされる。
なら、動かずに口を開かせる。
「黒書商会のユリウス。今回も、あいつの命令か?」
ギルの足が止まった。
ガレスは振り返らない。
「答える必要はない」
「兄貴には聞いてへん。……あ、でも、ギルはまた何も教えてもらってへんか。お前、アホやもんな」
「はあ?」
ギルが振り返る。
ガレスの手が、弟の肩を強く掴んだ。
「乗れ」
「待てよ。こいつ――」
荷台に残った白い粒を見る。
「塩をこぼしてくれたおかげで、次の荷もすぐ分かりそうや」
「分かるわけねえだろ。塩荷が何台走ってると思ってんだ」
ガレスの目が、初めてギルへ動いた。
「ギル」
やっぱり、塩荷へ移した。
「何台あっても、北街道を一台ずつ追えばええ」
「追いついたって遅えよ。もう潮には間に合って――」
ガレスの拳が、ギルの脇腹へ入った。
「ぐっ……兄貴、何すんだよ!」
「黙れと言った」
ガレスが松明を、青い幌へ投げた。
「《ウォーターボール》!」
ハナの水球が横から松明を叩く。
火が水に包まれ、濡れた地面へ落ちた。
その間に、ガレスがギルを馬へ押し上げる。
自分ももう一頭へ飛び乗り、二頭で細道へ駆け込んだ。
小屋の裏へ回った時には、木々の間でギルの大槌が一度光っただけやった。
二頭は、馬一頭が通れるだけの細道を南へ駆けていく。
黒い馬車では入れへん。
ノアの栗毛も、柵の外で首を下げ、口元を白く泡立たせている。
ここまで走り続けた馬で、二頭の後を追うのは無理や。
なら、漏らした言葉から、レティシアさんを乗せた荷を探す。
塩荷。
潮。
青い幌馬車へ戻る。
ノクティスが、床の白い粒を指先で転がしていた。
「雪みたい。でも冷たくない」
「舐めたらあかんで」
「まだ舐めてない」
「まだって何」
ハナが慌ててノクティスの手を布で拭く。
その横で、セレスが白い粒を紙の上へ集めた。
「粗塩です。樽の外側からこぼれたのでしょう」
セレスは濡れた麻縄を布越しに持ち上げ、匂いを確かめる。
「海水と、古い魚油の臭いがあります。港から運び出す塩ではなく、海岸側から集めた荷に使う縄です」
「潮に間に合ったって、船のこと?」
ミラが聞く。
「おそらく」
セレスが頷く。
「アクアポートの北西岸には、満ち潮の間だけ小型船を寄せられる古い荷揚げ場がいくつかあります」
「王都行きの定期船は?」
「乗船者も積荷も記録されます。捜索依頼が出ている女性を、堂々と乗せることはできません」
だから、人目の少ない海岸から小型船へ乗せる。
樽を積んだ塩荷なら、女一人を隠しても外からは分からない。
ノアが荷台の二本の傷へ指を沿わせた。
「途中で、塩荷から樽を一つ、この青い幌馬車へ移した。塩荷に空いた樽一つ分の場所へ、レティシアさんを乗せたのでしょう」
青い幌馬車が王都へ向かっていたんやない。
本当に探すべきなのは、レティシアさんを王都へ渡る船まで運んでいる塩荷や。
「探すのは、北西岸へ向かった塩荷や」
これなら、まだ追える。
セレスが紙に包んだ粗塩を胸元へしまう。
「塩荷を扱う商会、使われていない荷揚げ場、今日の満ち潮。この三つを照合します」
「どれくらいかかる?」
「帳簿さえ開ければ、照合はすぐに。ですが――」
セレスが、西の空へ目を向けた。
「満ち潮は、もう始まっています」
潮が引けば、小型船は岸を離れる。
その前に、使われる荷揚げ場を突き止めなあかん。
「戻ろう。帳簿を見て、船着き場へ先回りする」
次に見失ったら、レティシアさんはもう海の上や。




