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1.鏡野美空の観察記録

間章.鏡野美空の観察記録


前夜。

迷宮攻略の宴会を終え、私がSEEDからログアウトした直後――。


「勝ったぁぁぁぁ!!」

接続用ベッドの上で飛び起き、両手を突き上げる。


誰もいない。

でも、もう一度やる。


「やったぁぁぁぁ!!」

そのままベッドへ倒れ込むと、白い天井が目に入った。


巨大蜘蛛。降り注ぐ酸。天井を埋め尽くした白蜘蛛の群れ。

思い出すだけで、まだ心臓が速くなる。


怖かった。

何度も叫んだし、あんな巨大蜘蛛は二度と見たくない。


「めっちゃ面白かった……」

口元が勝手に緩んだ。


初めてのゲームで、初めてのダンジョンへ入って、初めてのボスを倒した。

しかも、全員で帰ってきた。


次はどこへ行くんだろう。

そう考えたところで、私は勢いよく起き上がった。


「違う。研究だから」

誰もいない部屋で、真顔になって言い直す。


三秒後。


「……研究だから」

二度言うと、余計に怪しく聞こえた。


今回のSEED参加は、遊びではない。

VRMMOを利用した脳梗塞リハビリ研究と、和泉大輝さんの経過観察。それが本来の目的だ。


私はベッドを降り、更衣室でラフな服から白衣へ着替えた。

鏡の前で名札を胸につける。


《脳神経外科 鏡野美空》


三十二歳。脳神経外科医。

白衣を着たのに、鏡の中の私はまだミラみたいな顔で笑っていた。


「……よし。ちゃんと常識人」

白衣の裾を整え、更衣室を出る。


「廊下まで聞こえてましたよ」


待ち構えていた声に、肩が跳ねた。


廊下で、後輩医師がカルテを抱えている。

まったく笑っていない。


「研究です」

私は即答した。


「勝った、って聞こえましたけど」


「研究が上手くいった喜びです」


「ゲームですよね」


「七割研究」


「三割は?」


少しだけ考える。

ここで嘘をついても、たぶん顔でバレる。


「楽しい」


後輩は深いため息をついた。

「ですよね」


実に失礼だと思う。

でも、否定はできなかった。


本当は、もっと上手く始める予定だったのだ。


初心者向けの説明を確認する。

街の構造を把握する。それから和泉さんたちへ自然に接触し、経過を観察する。


完璧な計画だった。


実際は説明を飛ばし、迷子になり、港で叫び、モヒカンに囲まれた。

そして、観察する予定だった人たちに助けられた。


「なんでああなったんだろう……」


理由は分かっている。

説明を飛ばしたからだ。


でも、あれは長すぎると思う。

たぶん、普通は飛ばす。


「先生、顔」


「え?」


「またゲームのこと考えてますよね」


「研究のことです」

言い切ってから、私は後輩の横をすり抜けた。


自分のデスクへ戻り、端末を開く。

宴会の余韻を楽しむ前に、確認しなければならないものがあった。


観察記録。

和泉大輝。


画面の左側へ、SEEDへ入ったばかりの頃の戦闘映像を呼び出す。

狼が飛びかかった瞬間、和泉さんの腕も足も動かなくなっていた。


右側には、今日の迷宮で記録された映像を並べる。


蜘蛛の脚を避けきれず、身体が傾く。

次の瞬間には足が出ている。踏みとどまり、棍棒を握り直して、傷ついた脚へ狙いまで変えた。


私は何度も二つの映像を見比べた。

偶然ではない。反応の速さも、動作のつながりも、はっきり変わっている。


運動反応:改善あり


入力した文字を見て、頬が緩んだ。


今度は、現実側の観測記録を開く。

神経活動、呼吸、循環。接続中に取得された数値を一つずつ確認していく。


隣には、同時刻の病室映像がある。

病衣姿の和泉さんはベッドへ横たわり、シーツの上に置かれた右手は動いていない。


最後の欄で、指が止まった。


覚醒反応:なし


笑っていた口元が、少しだけ下がる。

そこだけは、まだ変わっていなかった。


SEEDの中で動けたことと、現実の身体が目覚めることは同じではない。

都合よく線を結べば、研究者として失格だ。


それでも、最初は止まっていた足が、今日は倒れないために前へ出た。

棍棒を振るだけだった腕が、仲間の作った隙へ狙いを変えた。


変化は起きている。

ただ、今はまだ、現実へ届いたとは書けない。


映像の中で、ハナちゃんの声がする。


和泉さんがその声へ応え、もう一度踏み込んだ。


その姿を見ているうちに、宴会の終わりにあったことを思い出した。


騒いでいた人たちが帰り始めた頃、ハナちゃんが私の隣へ来た。

周りに誰もいないことを確かめてから、声を落とす。


「先生」


心臓が止まりそうになった。

病室で会っているのだから、気づかれて当然だ。


「しーっ」

慌てて口元へ指を当てると、ハナちゃんは小さく笑った。


「大丈夫です。誰にも言いませんから」


「……いつから分かってたの?」


「最初からです」


即答だった。

私は両手で顔を覆った。


「そんなに分かりやすかった?」


「先生、病室と全然違いますもん」


「そんな違う?」


「全然違います」


また即答された。

ちょっとショックだった。


それでも、ハナちゃんは迷宮の中で一度も私の正体を口にしなかった。

私が自分から話すまで、和泉さんにも聞かせないつもりなのだろう。


端末へ視線を戻す。


和泉さんが動いた時、いつも近くに誰かがいた。

ハナちゃんの声が進む場所を教え、ノクティスちゃんの強化が動く身体を支え、ナオユキさんの盾が失敗できる余地を作っていた。


画面の外から数値だけを見ていたら、きっと分からなかった。

人と関わることまで含めて、SEEDの中の和泉さんは動き方を覚え始めている。


私は観察記録へ追記した。


挑戦意欲:極めて良好

社会性:良好

適応能力:良好

危険認知:やや問題あり


最後の一行を見て、思わず笑う。

大蜘蛛へ棍棒一本で向かっていった人だ。やや、で済ませていいかは少し迷う。


正式な記録を保存し、その隣にある個人用の同行者メモを開いた。


ハナ:適応能力が高い。秘密を守れる。

ノクティス:要観察。


そして、ナオユキ。


保護者、と打ちかけて消した。

本人に見つかったら、きっと困った顔で笑う。


宝箱の罠が作動した時は、飛び出した矢より先に盾が私の目の前へ滑り込んだ。

白き女王が衝撃を放った時は、全員を自分の盾の後ろへ入れた。


それでも、助けたことを大げさには言わない。

次に誰が困っているかを、もう見ている。


しばらく考えてから、一行だけ入力する。


信頼性:極めて高い


保存ボタンを押す。

画面が暗くなり、白衣姿の自分が薄く映った。


名札は鏡野美空なのに、やっぱり少しミラみたいな顔で笑っている。


「……まだ、途中だもんね」


覚醒反応は、まだない。

けれど、SEEDの中で止まっていた身体は、確かに次の一歩を出した。


私はもう一度画面を点け、次回の観察予定を入力した。


七割は、研究のために。

残り三割については、観察記録には書かないでおいた。


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