2. 消えない死体(ナオユキ視点)
盾を持つ左手に、ひんやりした感触が伝わる。
ダンジョンに入った瞬間、空気が変わった。
湿った冷気。薄暗い通路。壁を伝う水音。
何度潜っても、
この湿った空気だけは好きになれない。
……けれど、
今日は別の違和感があった。
何度か分岐を抜け、
階段を下りる。
「……少ないな」
思わず口から漏れる。
本来なら、この辺りまで来れば何度か魔物と遭遇する。
だが今日は、明らかに数が少なかった。
前を歩くハナちゃんが、静かに目を閉じる。
少し間。
「前方、二体」
小さい声で続ける。
「右通路」
「……こっちは見てない」
ゆっくり目を開く。
「左から抜ければ、気づかれないと思う」
「了解」
短く返す。
俺たちは足音を抑えながら、
左側の通路へ入った。
しばらく進む。
「……抜けた」
ハナちゃんが小さく呟く。
どうやら、気づかれずに通り過ぎられたらしい。
相変わらず、おかしなスキルだと思う。
地形が見えてるわけじゃないし、壁の向こうまで透視してるわけでもない。
ハナちゃんが感じているのは、“生き物”だけだ。
位置。数。向いてる意識。警戒。敵意。
そこまで分かる。
しかも最近、精度が明らかに上がっていた。
ミラが小声で言う。
「なんか、前よりハナやばくなってない?」
「……前からやろ」
ダイキが普通に返す。
ハナちゃんは無反応。
敵そのものが少ない。
その少ない敵も、ハナちゃんが先に見つけてくれる。
だから、避けられる場面が多い。
戦闘はないし、止まることもない。
俺たちは驚くくらいスムーズに、下へ進んでいた。
――本来なら、
ありえないくらいに。
通路を曲がった瞬間、視界の端に違和感が引っかかった。
通路の端に、何かが転がっている。
……魔物の死体だった。
四足の獣型で、腹の辺りが大きく裂け、黒い血が床に広がっている。
ミラが顔をしかめた。
「うわ……」
俺は思わず足を止める。
「……おい、ダイキ」
声をかける。
「これ、見てみろ」
ダイキが近づいて、
死体を見る。
「戦闘跡、か」
「そこじゃない」
俺は死体を指す。
「……まだ残ってる」
ミラが視線を向ける。
「え?」
「普通は消える」
モンスターは、倒されると粒子みたいに崩れて消える。
だから、死体そのものが残ることはほとんどない。
けれど、目の前の死体は違った。
まだ、そこにある。
肉も血も匂いも、そのまま残っている。
まるで、現実の生き物みたいに。
ミラが小さく息を呑む。
「……なんか、気持ち悪いね」
しゃがみ込みかけて、途中で止まる。
その反応で、少し前のことを思い出した。
ミラは、セリアさんの傷口を押さえながら戦っていた。
止血。固定。応急処置。
そんなことが、このゲームで意味を持つこと自体、最初は驚いた。
けれど、実際にセリアさんは助かっている。
それに、ミラの手つきは妙に慣れていた。
現実でも、似たことをしているんだろうか。
ハナちゃんは黙ったまま、通路の奥を見ている。
警戒を解いていない。
「……行こう」
俺が言う。
こんな場所で、長く止まるべきじゃない。
嫌だったのは、死体じゃない。
このダンジョンの
“当たり前”が崩れていることだった。
第五層を抜け、第六層へ入ってしばらくした頃だった。
奥から低い咆哮が響いた。
俺は反射的に盾を構える。
「来るか?」
ダイキも棍を握り直す。
だが、ハナちゃんが小さく首を振った。
「……違う」
その直後、何かが壁に叩きつけられる音が響く。
重い衝突音と石が砕ける音。
続いて、獣の唸り声。
ミラが声を潜める。
「こっちに来てる?」
「ううん」
ハナちゃんが目を閉じたまま言う。
「こっちは見てない」
俺は少しだけ息を吐く。
「確認する」
前方の角まで、ゆっくり近づく。
通路の壁に身を寄せ、盾を少しだけ下げて奥を覗いた。
そこにいたのは、
二種類の魔物だった。
一体は、
灰色の毛に覆われた大型の狼型魔物。
第一層や二層で見た犬型魔物に似ている。
けれど、大きさが違った。
肩の高さだけで、俺の腰を軽く超えている。
剥き出しの牙は短剣みたいに鋭く、前脚が床を踏むたび、石が小さく砕けていた。
もう一体は、白い蜘蛛。
犬ほどの大きさの胴体に、異様に長い脚。
白い外殻には、ところどころ黒い筋みたいな模様が走っている。
狼型が低く唸る。
白い蜘蛛は、壁と天井を滑るみたいに移動していた。
距離を取りながら、少しずつ狼型の周囲を回っている。
隙を探しているみたいだった。
狼型が吠えながら突っ込む。
前脚が振り下ろされ、
壁際の石が砕け散った。
だが、白い蜘蛛には当たらない。
横壁を蹴り、天井へ逃げる。
動きが妙に立体的だった。
ミラが小さく声を漏らす。
「え、なにこれ……」
ダイキも目を細める。
「……縄張り争い、って感じでもないな」
俺も同感だった。
普通、ダンジョンの魔物同士はこんな戦い方をしない。
同種同士の争いはある。
けれど、ここまで露骨に殺し合うのは見たことがない。
次の瞬間、白い蜘蛛の腹が小さく震える。
白い糸が放たれた。
狼型が横へ跳ぶ。
糸は床へ張り付き、石畳に白く貼りついた。
「っ……糸!?」
思わず声が漏れる。
前に浅層で戦った時、こんな攻撃は使っていなかった。
ダイキが低く言う。
「予想、
当たってそうやな」
蜘蛛の糸。
拘束。
安全地帯まで戻れない。
行方不明になったパーティについて、さっきまで話していた仮説が頭をよぎる。
よく見ると、白い外殻には細かい亀裂が入っていた。
脚の一本は動きが鈍い。
狼型の爪痕らしき傷もある。
かなり長く戦っていたんだろう。
ギルド職員が言っていた
“未確認種”。
その言葉を、今になって実感する。
白い蜘蛛だけが異物なんじゃない。
こいつが入り込んだことで、このダンジョンそのものがおかしくなっている。
ハナちゃんは黙ったまま、戦闘を見ている。
目だけが、蜘蛛の動きを追っていた。
狼型が再び飛びかかる。
その瞬間、白い蜘蛛が糸を吐いた。
今度は避けきれない。
白い糸が狼型の前脚へ絡みつく。
体勢が崩れる。
そこへ、白い蜘蛛が飛びかかった。
鈍い音。
狼型が床へ倒れ込む。
少し遅れて、低い唸り声が止まった。
静かになる。
白い蜘蛛だけが、ゆっくり脚を動かしていた。
その脚が止まり、白い頭部がこちらを向く。
「っ」
ミラが息を呑む。
次の瞬間、
ダイキが踏み込んでいた。
速い。
棍が横薙ぎに振られる。
ただ、それだけだった。
白い蜘蛛の体が、横壁へ叩きつけられる。
砕ける音。
そのまま、動かなくなった。
俺は思わず目を見開く。
……まただ。
今の、ただの基礎スキルだよな。
前から思っていた。
ダイキの一撃は、どう考えても威力がおかしい。
基礎スキルの威力じゃない。
……いや、威力だけじゃない。
踏み込みも、
間合いも、
一撃の重さも、
全部がおかしい。
白い蜘蛛の死体が、ゆっくり粒子になって崩れていく。
光の粒になって消え、あとには何も残らなかった。
床に貼りついていた白い糸も、一緒に薄れて消えていく。
少し離れた場所では、狼型の死体がまだ床に転がっている。
血も傷も、そのまま残ったまま。
その様子を見ながら、俺たちは再び通路を歩き始める。
誰もしばらく喋らなかった。
響くのは足音と水音だけ。
けれど、
頭の中は妙に騒がしかった。
白い蜘蛛。
消えない死体。
魔物同士の戦闘。
しかも、蜘蛛は糸を使っていた。
行方不明になったパーティ。
全部が少しずつ、
繋がり始めている。
ダイキが前を向いたまま言う。
「……七層、
だいぶヤバそうやな」
「ああ」
短く返す。
モヒカン連合とオセル隊が、最後に連絡を入れたのは第七層。
さっきの蜘蛛の糸。
あれを見た今、嫌な想像しか浮かばない。
ミラが小さく肩をさする。
「なんかさ……」
「普通に怖くなってきたんだけど」
軽く笑おうとしてるけど、
声は少し硬かった。
「今さらやろ」
ダイキが返す。
「んー、それもそっか!」
ミラが軽く笑う。
そんなやり取りを聞きながら、少しだけ考える。
ハナちゃんの共感感知。
索敵範囲も精度もおかしい。
しかも、
相手の意識の向きまで読んでいる。
あれがなければ、
ここまでほとんど戦闘なしで進めていない。
ミラの応急処置もそうだ。
止血。
固定。
状況判断。
あの混戦の中で、迷わず動けるのは普通じゃない。
そして、ダイキ。
基礎スキルのはずなのに、威力が明らかにおかしい。
さっきの蜘蛛だって、
大型魔物を倒した直後で消耗してたとはいえ、一撃で倒すなんて普通じゃない。
前から違和感はあった。
けれど、
下へ行くほど、
それがはっきり見えてくる。
……変なのは、
ダンジョンだけじゃないのかもしれない。
前方に、下層へ続く階段が見えた。
第七層。
空気がさらに冷たく感じる。
俺は盾を持ち直した。
この先から、本番だ。




