1.銀の幕裏
最上階へ続く長い廊下を、ゆっくりと歩く。
長い銀髪が、背中で静かに揺れる。
黒のメイド服は、戦闘で裂けたものではなく、すでに替えられていた。
足音が、静かに石床へ響いた。
この屋敷で、誰もその足音を止める者はいない。
廊下の先。
重厚な扉の前で足を止める。
内側から漏れる気配は、三つ。
……相変わらず律儀ね。
小さく息を吐いて、扉に手をかけた。
重たい音を立てて、扉が静かに開く。
部屋の中央には、男が二人。
その奥。
本来、この部屋の主人であるはずの伯爵が、
直立不動のまま頭を垂れていた。
その瞬間。
片側に控えていた男が、恭しく頭を下げた。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
低く整った声。
……またそれ。
リゼルの眉が、わずかに動く。
「……だから、お嬢様と呼ぶなって、いつも言ってるでしょ」
小さくため息をつく。
男――エリオンは、微笑みすら崩さない。
「失礼いたしました」
その横で、もう一人の男が鼻で笑った。
大柄な身体を壁にもたれさせたまま、
腕を組んでいる。
短く刈った灰色の髪。
浅黒い肌。
厚い胸板と、古傷の残る首筋。
上等な服を着てはいるが、
どう見ても礼服より戦場の方が似合う男だった。
ガイオだ。
「毎回言ってんな、それ」
「うるさいわね」
リゼルはそのまま部屋の奥へ歩く。
伯爵の脇を通り過ぎる。
当然のように。
迷いなく。
部屋の最奥。
主人の席へ。
黒いメイド服の裾を乱さず、
リゼルは静かに腰を下ろした。
その動きは、借り物の椅子に座るものではなかった。
最初からそこが自分の席だったとでも言うように。
その瞬間。
部屋の空気が、完全に変わった。
伯爵はなおも頭を下げたまま、動かない。
リゼルは足を組み、静かに目を細める。
「留守の間に、何か変化は?」
エリオンが一歩前へ出る。
「はい」
淡々とした声。
「水王国より報告です」
「アクアポートの商人連合で、流通経路を巡る軽度の摩擦が発生しています」
「聖樹連邦では、調和派が再び聖女マリエルの公開を要求」
「連邦内の一部宗教勢力が騒ぎ始めています」
一拍置く。
「また、風都市連合については、学術評議会との接触に成功しました」
「内部協力者の確保が可能です」
リゼルは頬杖をついた。
ふむ。
どれも想定内。
「アクアポートは経済操作局へ」
「商人同士で少し競わせて、勝手に落ち着かせなさい」
「かしこまりました」
エリオンが即答する。
「マリエルの件は宗教干渉局」
「調和派の中にこちら側の神託を流して」
「熱が上がりすぎない程度に抑えておいて」
「承知しました」
そこで、リゼルの目が少し細くなる。
「風都市連合は……」
ほんの少し、口元に笑みが浮かぶ。
「私が行くわ」
ガイオが片眉を上げた。
「自分でか?」
「面白そうだもの」
小さく言い切る。
その一言で、部屋の空気が少し変わる。
エリオンは静かに一礼した。
「準備を進めます」
そこで、リゼルは視線をゆっくりと伯爵へ向ける。
まだいる。
頭を下げたまま。
……なんでまだいるのかしら、この人。
少しだけ沈黙。
それから、リゼルは冷たく言い放った。
「……それで、あなたはどうしてまだこの部屋にいるの?」
伯爵の肩がびくりと震える。
「も、申し訳ございません……!」
伯爵は顔を青ざめさせたまま、
ほとんど足をもつれさせるように扉へ向かった。
扉が閉まる音だけが、
やけに情けなく響いた。
その音が響き終わった瞬間。
部屋の空気が、ふっと軽くなった。
ようやく、息がしやすい。
リゼルは背もたれに深く身体を預けた。
「……やっと静かになったわね」
ガイオが口元を吊り上げる。
「で?」
「面白いことはあったのか?」
ガイオが腕を組んだまま、首を傾げた。
「というか結局、何しに行ってたんだ?」
エリオンが小さくため息をつく。
「……あなたはいつも肝心な部分を聞いていませんね」
淡々とした声。
「本件の主目的は二つ」
「青い花の追加回収」
「そして、敵対勢力の洗い出しです」
ガイオが片眉を上げる。
「追加?」
エリオンが頷く。
「採取依頼そのものは、すでに伯爵経由でギルドへ出されていました」
「ですが、依頼条件に採取地点の報告が含まれていませんでした」
一拍。
「結果、回収されたのは一輪のみ」
ガイオが鼻で笑う。
「馬鹿だな」
「ほんとにね」
リゼルが肩をすくめる。
「せっかく場所まで辿り着いたのに、肝心の情報を持ち帰らせてないんだもの」
エリオンが続ける。
「さらに伯爵は独断で尾行部隊を雇っています」
「ですが……」
ほんの少し間。
「費用を抑えるため、街の三流のチンピラを使ったようです」
ガイオが思わず吹き出す。
「そりゃ戻ってこねえわ」
リゼルも小さく笑った。
「ええ」
「森に入った時点で消えたみたい」
その時の伯爵の顔を思い出して、
少しだけ口元が上がる。
呆れるやら、面白いやら。
ガイオが聞く。
「で、なんで自分で行った?」
リゼルは背もたれに身体を預けた。
銀髪が椅子の背にさらりと流れる。
表情は穏やかなまま。
「退屈だったから」
少しだけ間を置く。
「……それに」
視線がわずかに細くなる。
「受注者の情報を見た時に、少し気になったのよ」
ガイオが片眉を上げる。
「気になった?」
「属性なし」
短く言い切る。
「そんな人間が、場所も分からない危険依頼を受けて」
「しかも、一輪とはいえ、ちゃんと持ち帰った」
口元に笑みが浮かぶ。
「面白そうだと思わない?」
リゼルは小さく笑った。
「だから、少し様子を見に行ったの」
視線が少し遠くなる。
___
昨日の昼過ぎ。
ノースポートの街は、いつも通り賑わっていた。
石畳を行き交う人々。
港から運ばれてくる荷。
喧騒の中を、侍女姿のまま歩く。
ダイキたちにどう接触するか。
それだけを考えていた。
こちらから声をかけるか。
偶然を装って近づくか。
まあ、どちらでもよかった。
受注者情報にあった、属性なしの男。
その人物が、どうやって青い花の場所まで辿り着いたのか。
それを、この目で確かめたかった。
その時だった。
「あんた伯爵家の女だよな?」
軽い声。
振り返る。
男が二人。
片方は黒い短髪の痩せ型。
地味な革鎧に、目つきの鋭い男。
もう片方は、短く逆立てた金髪のがっしりした男。
口元に軽い笑みを浮かべている。
「ええ、そうですが」
相手の出方を見るように、静かに返す。
「実は少し聞きたいことがあってさ」
男は薄く笑う。
「最近、伯爵様の面白い話を聞いてね」
……なるほど。
こいつらは、向こうの手駒ね。
この二人を辿れば、背後まで届く。
それに、伯爵を頂点だと見ている。
ええ、目論み通りだわ。
こちらとしては、むしろ好都合だった。
「だからさ、少し話を聞かせてくんねーかな?」
「申し訳ありません」
「そのようなお話は、私の口からは」
少しだけ話を引き出そうとした、その時。
「昨夜はえらい早う帰ったな」
空気が止まる。
「……てめぇ、ダイキ!」
痩せ型の男が吐き捨てるように言った。
――え?
一瞬、思考が止まる。
まさか。
思わず、視線を向ける。
あの男が、ダイキ。
その隣の少女。
報告書にあった受注者。
……ハナ。
報告書の文字だけだった存在が、
目の前に立っていた。
そこで、ようやく口元が緩んだ。
……本当に面白い流れになるじゃない。
___
ガイオが口元を吊り上げる。
「で、そこに乗ったのか?」
リゼルは頷いた。
「ええ」
「これ幸い、ってね」
「あの場で助けに入った時点で」
「この人たちなら、最後まで面白くしてくれそうだと思ったの」
リゼルの口元に、静かな笑みが浮かぶ。
「……まさか、あそこまでとは思わなかったけれど」




