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1.目覚めても、身体は動かない

「右目の随意反応を確認しました」

ベッドの左側から、聞き覚えのない男の声がした。

白衣の当直医が俺の目を小さな灯りで照らし、すぐに光を外す。右目は開いている。白い天井も、医師の顔も、その向こうで俺の手を握っているハナも見えた。


けど、見える範囲は細い。

左目は閉じたままやった。


「ダイキさん。もう無理に瞬きしなくて大丈夫です。今から、右を見ると『はい』、左を見ると『いいえ』にしましょう」

医師が右手を上げた。

「ご自分の名前は、ダイキさんですか」


右を見る。


「ここが病院だと分かりますか」


もう一度、右。


「痛みはありますか」


左。


短い電子音が鳴り、医師が手にした端末へ青い丸が増えていく。


三回とも届いた。

俺が起きてるってことは、もう伝わった。

次は、身体や。


「右手を握ってください」


さっきからハナが包んでいる手へ、力を送る。

握れ。

指一本でええ。

SEEDでは、棍棒を振り下ろせた。縄を掴めた。倒れかけたレティシアさんを支えることもできた。


その右手が、シーツの上で動かない。


ハナの親指だけが、俺の手の甲をゆっくり撫でた。


「次は左手です」


左手へ命令を切り替える。

何も動かへん。

右足。左足。最後に首。

どこへ力を入れても、視界の中の天井は同じ場所にあった。

機械の音だけが速くなる。


「ダイキ」

ハナが俺の手を強く握った。

「大丈夫。聞こえてるから」


大丈夫ちゃう。

目は開いた。せやのに、ただいまの一言も言われへん。指さえ返せへん。


もう一度、右手を動かそうとしたところで、医師が俺の肩へ手を置いた。

「力み続けなくて大丈夫です。いま確認したいのは、動くかどうかだけではありません」


医師がベッド脇の画面をこちらへ傾けた。

細い線が、四本並んでいる。


「右手、左手、右足、左足。外から見える動きはありません。ただ、動かそうとした時の信号は、別々に記録できています」

四本の線は、少しずつ違う形で山を作っていた。

「一本の命令に、全部が巻き込まれていた時とは違います。通り道が分かれ始めています」


ハナが画面を見たまま、唇を結ぶ。

「じゃあ、回復してるんですか」


「回復の入口には立っています。ただし、意識が戻ることと、手足や声が戻ることは別です。今日はまだ、動かない身体を無理に動かそうとしないでください」


入口。

ゴールどころか、まだ扉の前らしい。


四本の線は、医師が画面を伏せるまで残っていた。

医師は画面を戻すと、俺の右目を見た。

「もう一つ、先にお伝えします。SEEDへの再接続は、今日すぐには許可できません」


心拍を刻む音が、一つ速くなった。

まだ、戻りたいとも言えてへん。


「七日間、覚醒を保てる時間と神経の反応を調べます。その間に、視線だけでダイキさんの希望を伝えられる方法も用意します」

「戻るかどうかを、こちらで決めるためではありません。二択だけでは理由まで聞けませんから、ご自分で選べるところまで待つためです」

医師は俺が右を見るのを待ってから、続けた。

「再接続する場合は、ゲーム内のログアウトとは別に、医療側から接続を終える方法も用意します。その手順と身体の状態を確かめてから、改めて相談しましょう」


ハナの指から、ほんの少しだけ力が抜けた。

「それまでは、右が『はい』で、左が『いいえ』ね」

ハナが俺の顔を正面から覗き込む。

「じゃあ、真ん中は『なんでやねん』にしよっか」


俺は、目の前のハナを見た。


「ほら。さっそく言ってる」


違う。お前が正面におるから見てるだけや。

このツッコミを返せるまで七日待ちか。長すぎるやろ。


___


ベッドの上に、文字を表示する透明な医療用ディスプレイが設置された。

最初に画面へ表示されたのは、二つだけやった。


『はい』

『いいえ』


右目を向けた方へ青い輪が出る。視線を止めると輪が満ちて、選んだ言葉を読み上げる。


名前。場所。痛み。眠気。

聞かれたことには答えられる。

けど、俺から言えることはない。


次に画面が四つへ区切られた。

『痛い』『休む』『続ける』『呼ぶ』


検査の途中で右目が乾き、文字が二重に見えた。俺が『続ける』を選ぶと、横にいたハナがすぐに首を振った。

「続けるが選べることと、続けていいことは別だから」

看護師から受け取った湿った綿で、ハナが目尻をそっと拭く。


冷たさに右目を閉じると、白い病室が消えた。


次に開いた時、ハナはまだ同じ椅子にいた。

「休んだら、またできるよ」


せやけど、俺が言いたいことは四つのどれにも入ってへん。


窓から入る光が朝の白から夕方の橙へ変わり、また白へ戻る。

手足へ貼られた端子の場所が変わる。右手を動かそうとした時と左足を動かそうとした時で、画面には別の線が出た。


首も、声も、まだ動かない。

それでも画面に表示される選択肢だけは増えていった。


その日の朝、画面の表示が全部入れ替わった。

上には、選んだ文字を並べる細長い枠。下には五十音と、『一字消す』『読み上げる』の二つが並んでいる。


男性の医療スタッフが、画面の『あ』を指した。

「見たい文字へ右目を向け、そのまま一秒止めてください。青い輪が閉じると、上の枠へ一文字入ります」


試しに『あ』を見る。

文字の周りへ青い輪が現れ、ゆっくり閉じた。

電子音が鳴る。

上の枠へ、『あ』が入った。


目だけで、文字を打てるんか。


「すごい……。これなら、聞かれたこと以外も話せるね」

ハナが椅子から身を乗り出した。


その通りや。

これで、あの時のツッコミをやっと返せる。


『一字消す』で『あ』を消し、別の文字へ視線を動かす。

『ま』『ん』『な』『か』。

一文字ずつ、上の枠へ増えていく。


『まんなかは ハナ』


最後に『読み上げる』を選ぶ。

『真ん中は、ハナ』

機械の平らな声が読み上げた。


ハナが首を傾げる。

「真ん中は、私?」


右を見る。

『はい』


ハナの目が、少しだけ大きくなった。

「……あ。あの時、私を見てただけ?」


もう一度、右を見る。

『はい』


「なんでやねんじゃなかったんだ」


待たされたツッコミが、ようやく届いた。


ハナが口元を押さえる。肩が揺れ、とうとう小さな笑い声が漏れた。


俺も笑い返したかったけど、動いたのは右目だけやった。


休憩のあと、もう一度、五十音を開く。

今度は、ツッコミより先に伝えなあかんことがある。

最初の一文字へ目を向けた。


『ま』

青い輪が、ゆっくり満ちる。

次は『た』。


一文字選ぶたび、右目の奥が熱くなる。途中で何度も目を閉じ、乾きが引くのを待った。


ハナは、完成前の文字を声に出さなかった。

俺がどこで間違えても、先を当てずに待っている。


やっと最後の文字を選ぶ。

視線入力画面へ、今いちばん伝えたい文章が並んだ。


『また もどりたい』


機械の読み上げる平らな声が、病室へ響いた。


ハナの手が、膝の上で止まる。


俺は右目を閉じた。

一文作るだけで、棍棒を百回振るより疲れた。


しばらくして目を開けると、ハナは画面やなく、俺を見ていた。


「私、怖いよ」

声は小さかった。


「また帰れなくなったらって考える。あのボタンが、もう一回消えたらって」

ハナの指が、シーツの端をつまむ。


「だから、戻ってって簡単には言えない。でも、危ないからやめてって、私が決めるのも違う」

一度、言葉を切る。

「リハビリのため?」


それもある。

SEEDで身体を動かしたから、ここまで戻ってこられた。まだ動かへん手も、足も、取り戻したい。

けど、それだけやない。


俺は五十音へ目を戻した。

『か』

『え』

右目を閉じて休み、また開く。


ハナが綿を持ち上げても、先に一文字だけ選んだ。

「無茶しない。休んでからでいい」


言いたいことを途中で諦める方が、今はしんどい。

数文字ずつ進み、二つ目の文章ができた。


『かえれるから もどる』


ハナが、ゆっくり読み上げる。

「帰れるから、戻る」


前は、SEEDから出る方法がなかった。

今は、先生が現実側から接続を終える手順を用意してくれている。

それを確かめてから、向こうへ行く。


それでも、ハナの指はシーツをつまんだままやった。

俺が帰れるかどうかを、この病室で待っていたんや。

もう一度、一人で待ってくれとは言いたくない。


もう一度、文字を選ぶ。

『やくそくした』


ノクティスに、絶対戻ると言った。

ナオユキとミラには、こっちは任せろと言われた。

レティシアさんを研究所へ送り届ける旅も、まだ本人の顔を見て終わってへん。


機械の声が三つ目の文章を読み上げると、ハナは小さく頷いた。

「ノクティスたち、待ってるもんね」


俺は入力欄を消し、もう一度、文字を選んだ。

右目が乾いて、一文字を選び損ねる。目を閉じると、冷たい綿が目尻へ触れた。

ハナの手が離れるのを待って、続きを打つ。


『いっしょに かえろう』


読み上げる声が止まっても、ハナはしばらく画面を見ていた。

それから、俺の顔へ目を戻す。

「この病室へ、二人で?」


俺は右を見た。

『はい』


ハナが目元を手の甲で拭った。

「……うん」

俺の右手を、両手で包む。

「じゃあ、一緒に戻ろう。向こうへ行って、ここへ帰ってこよう」


握り返せへん手を、ハナが両手で温めていた。

俺はその顔を見て、もう一度、右へ目を向けた。


___


七日目。

視線入力画面には、五十音の代わりに再接続の条件が並んでいた。


ベッド脇には、覚醒を確認した夜とは別の男性医師が立っていた。

「主治医を含む医療チームで、七日分の記録を確認しました」

男性医師が、条件を上から一つずつ指で示す。

「初回は連続二時間までです。接続中は、医療スタッフと監督AIが常に脳波、呼吸、心拍、運動信号を確認します」


その隣には、三十分前と五分前に通知が出ると書かれている。

「二時間以内に、必ず一度、ご自分の操作でログアウトしてください。現実へ戻ったあと、意識と右目の反応が確認できるところまでが今回の試験です」


男性医師が次の欄へ指を移した。

《医療帰還》


「神経の過剰な興奮、呼吸や心拍の異常、仮想身体と現実側の信号が続けて噛み合わない場合。それから、こちらの呼びかけに十秒以上返答がない場合は、監督AIが接続を終了します」


俺が使うためのボタンも、メニューへ追加されるらしい。


「三秒かけて感覚入力を落とし、現実へ戻します。SEEDの中で戦闘中でも、拘束されていても止められません。私たち現実側からも実行できます」


逃げ道が、今度は最初からある。


男性医師が最後に尋ねた。

「この条件で、再接続を希望しますか」


右を見る。

青い輪が満ちる。

『はい』


ハナが椅子をベッドへ寄せた。

「じゃあ、私たちも決めておこう。残り五分の通知が出たら、何をしてても戻る。医療警告が一回でも出た日は、もう入らない」


医師が画面を五十音へ戻してくれた。

俺は一文字ずつ選び、『まもる』と入力する。

そのまま読み上げずに、あと四文字足した。

最後に『読み上げる』を選ぶ。


『まもる ハナもな』


ハナが目を丸くした。

「私まで念押しされるんだ」


俺が寄り道を言い出して、お前が乗ったら、止めるやつおらへんからな。

俺は右を見る。

『はい』


ハナが笑って、頷いた。

「分かった。私も守る。二人とも、五分前」


そのあと、ハナが隣の接続台へ横たわった。

医療スタッフが頭の周りに端子を並べている間に、俺も目を閉じて休む。


「ダイキ。さっきの約束、守れる?」


呼ばれて目を開けると、ハナがこちらを見ていた。

俺は右を見た。

『はい』


ハナも頷く。

「向こうで待ってるね」

その目が閉じた。


隣の装置に青い灯りが走り、少し遅れて俺の視界にも白いメニューが開いた。


《接続開始》


視線を合わせる。

青い輪が、ゆっくりと文字を囲む。


手足は、まだ動かへん。

声も出えへん。


せやけど、どこへ行くかは俺が決められる。


輪が閉じた。

白い病室が遠ざかる。

機械の音が消え、シーツの感触が薄くなる。


暗闇の中で、白い文字が浮かんだ。

《初回接続 残り二時間》

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