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2.もう一度、向こうへ

暗闇の底から、朝の光が差し込んだ。

最初に見えたのは、空いた椅子やった。

半分だけ片づけられた机。窓から入る白い光。七日前に夕食を食べた、王都薬学研究所の客室や。


視界の端へ、白い文字が浮かぶ。

《前回接続から七日経過》


足の裏へ、硬い床の感触が戻った。

右手を開く。五本の指が、考えた通りに離れる。

握る。肘を曲げる。首を回す。


現実では右目しか動かなかったのに、こっちでは全部動く。


「ダイキ」

振り向くより先に、ハナが俺の右手を両手で掴んだ。

「触ってるの、分かる?」


「分かる。手も動くし、声も――」

声が出た。

自分の喉から、いつもの俺の声が出ている。

確かめるために手を握り返すと、ハナの指もすぐに握り返してきた。


「よかった」

ハナが息を吐く。


その肩越しに、机のそばに立つナオユキとミラが見えた。

ナオユキが近づいてきて、俺の肩を一度叩く。

「遅い」


「七日待って最初の一言がそれかい」


ナオユキはミラを見た。

「お前がいない間、ミラがボケても拾うやつがいなかった」


「私、そんなにボケてない!」

ミラがすぐに言い返す。


ナオユキは俺に向き直った。

「この反応を七日間、俺一人で受けてた」


「七日で老けたな」

俺はナオユキの顔を見た。


「だから遅いと言ってる」

ナオユキがもう一度、俺の肩を叩いた。

今度は、手をすぐに離さなかった。


「本当に戻ったんだな」


「おう」


「現実の身体は?」


「まだ右目だけや。手も足も首も動かへん。声も出えへん」


ミラの顔から、言い返しかけた勢いが消えた。


「でも、動かそうとした信号は分かれ始めてるらしい。まだ入口やけど、前には進んでる」


「そっか」

ミラは一度鼻をすすり、それを誤魔化すみたいに俺の顔を覗き込んだ。

「目は? 右だけでも、ちゃんと見えてる?」


「見えてる」


「記憶は?」


「お前がボケ担当やったことも覚えてる」


「担当じゃない!」


「大丈夫そうだな」

ナオユキが頷いた。


「今ので何を確認したん!?」

ミラが俺たちを交互に見た。


窓際にいたノクティスが、白い布包みを抱えて近づいてきた。

俺の前で布を開く。

中には、丸いパンが半分だけ入っていた。


「七日分」


「どう見ても半分しかないで」


「毎朝、半分残した」


「残りは?」


「夜になったら食べた。次の朝、また半分残した」


「それ、毎日パン食うてただけちゃう?」


ノクティスは少し考えた。

「待ちながら食べた」


「待ち方が食欲に負けとんねん」


「負けてない。半分は残した」

布の上のパンを、俺へ差し出す。

「今日は、まだ朝」


今度は夜まで待たせずに済んだらしい。

パンを受け取り、一口かじる。

指で持てる。顎を動かせる。噛んで、飲み込める。


ノクティスは俺の口元をじっと見てから、頷いた。

「動く。喋る。食べる」


「何の確認や」


「ダイキ」


「判定基準が飯に寄りすぎやろ」


ノクティスは自分の分を一口かじった。

「帰れた?」


「帰れた」


「また帰る?」


「今日は二時間で一回帰る。そのあと検査して、戻ってもええってなったら、また来る」


ノクティスは小さく頷いた。

「じゃあ、次も朝に半分残す」


「昼に戻ってきたら?」


「昼の分を食べる」


「ただの食事予定やないか」


視界の端に、白い文字が浮かんだ。

《初回接続 残り一時間五十分》


メニューの下には、《ログアウト》と《医療帰還》が白く光っている。

帰ろうと思えば、自分で帰れる。

危ない時は、現実側からも戻してもらえる。


「七日間、ずっとこの部屋におったん?」


「いるわけないだろ」

ナオユキが答えた。

「ギルドと研究所への報告、報酬の整理、装備の修理と新しい装備選び。あとは王都の道を見て回ってた」


「俺抜きで王都観光か」


「お前が戻った時、全員で迷わないためだ」


「全員?」


ナオユキがミラを指した。

「ミラは三回迷った」


「王都の道が似すぎてるの!」


俺はミラを見た。

「やっぱりボケ担当やん」


「迷子とボケは違うから!」

ミラが言い返したところで、客室の扉が二度鳴った。


「入ってもよろしいですか」


聞き覚えのある声やった。

ハナが扉を開ける。

白衣へ着替えたレティシアさんが、片腕に治療布を巻いたまま立っていた。両手には、赤茶色の布包みを抱えている。


「もう歩いて大丈夫なんですか」


「はい、おかげさまで。実は、皆さんが出発する前に、お渡ししたいものがあります」


「俺が今日戻るって、聞いてたんですか?」


「ハナさんから、予定だけは」


レティシアさんは俺の顔を見て、安心したように微笑んだ。

「おかえりなさい、ダイキさん」


「ただいまです。護衛、だいぶ途中で寄り道しましたけど、これで終わりですかね」


「はい。ここが、最初から目指していた王都本部ですから」


レティシアさんは、自分の白衣へ一度目を落とした。

「私はこのまま本部に残ります。まだ治療もあります。それに、呼び出された理由も聞けていませんから」


「え、着いてからも教えてもらってないんですか」


「治療と聞き取りが先になってしまって。落ち着いたら説明があるそうです」


それから、レティシアさんは俺たち全員を見た。

「でも、護衛依頼はここまでです。途中で攫われた時は、もう辿り着けないと思いました。皆さんがあの薬材倉まで来てくれたから、こうして本部の白衣を着られました」


レティシアさんの視線が、俺の顔から右手へ落ちた。

治療布を巻いていない方の指が、結び目の上でわずかに動く。けど、その手は俺へ伸びず、布包みを握り直した。

「本当に、ありがとうございました」


「俺も、ちゃんと顔見て終わらせたかったんです。無事に送り届けられてよかったです」


レティシアさんは一度だけ目を伏せ、もう一度笑った。

「同行はここまでですが、誘引葉について分かったことは、星巡りにもお伝えします。まずは、これを持っていってください」

レティシアさんは布包みを机へ置き、結び目を解いた。

中から出てきたのは、三つの品やった。


赤茶色の粉が入った小瓶。

黒に近い粉が入った、もう一つの小瓶。

それから、手のひらほどの青黒い布。


ノクティスが黒い粉へ顔を近づける。


「食べ物ではありません」

レティシアさんが先に言った。


「まだ聞いてない」

ノクティスが顔を上げる。


「七日間で、少し分かるようになりました」


「学習させる方向そこなん?」


レティシアさんが、赤茶色の小瓶を指した。

「こちらは、海霧迷宮で回収された誘引葉を、比較用に乾燥させて砕いたものです。黒い方が、薬屋の地下で加工されていた濃縮品です」


次に、青黒い布を持ち上げる。

「これは《海燕号》の荷から回収された防水布です。粉を包んで運ぶと、雨や海水を防ぐだけでなく、臭いもほとんど外へ漏らしません」


「見た目だけやと、ただの荷物と区別つかへんな」


「乾いている間は、です」

レティシアさんが布の端をこちらへ向けた。

青黒い切り口には、髪の毛ほどの赤い筋が見えた。


「内側に粉が残ったまま水を吸うと、この赤が表まで滲んで、閉じ込めていた臭いが一気に広がります。同じ荷を見つけても、その場では濡らさないでください」


「水に強い布やのに、濡れたら危ないんか」


「外からの水は防ぎます。ですが、破れた内側まで水が入れば逆効果です」


三つの品を見比べる。

迷宮に山ほど積まれていた、赤い葉。

それを煮詰めて、少ない量でも強くした黒い粉。

誰にも気づかれず運ぶための布。


レティシアさんの誘拐は終わった。

けど、作られた粉が全部見つかったわけやない。


廊下を走る足音が近づいてきた。

今度は、三度続けて扉が鳴る。


「カゲマルでござる。ダイキ殿が戻ったと聞いた。急ぎ、見てもらいたいものがある」


扉を開けると、カゲマルが細長い革箱を抱えて立っていた。

挨拶もそこそこに部屋へ入り、机の空いた場所へ四枚の写しを置く。

一枚を手前に、その向かいへ残る三枚を並べた。


「七日間、各地の星巡り支部へ照会を出したでござる。最後の三冊が、今朝ようやく届いた」

カゲマルは、手前の一枚にある数字を指で叩いた。

「王都へ入ったのは、第七倉庫で消えた荷とは別口でござる。されど、荷印と包み方は同じ。ゆえに、同じ流通網を疑っている」

「王都に入った時は、荷車一台に十二包。ここまでは以前の記録どおりでござる」


指が、向かいの三枚へ移る。

「こちらは半日後の受取記録でござる。同じ印の荷が、別々の三か所へ届いている」


「一台の荷を、三つに分けたんちゃう?」


「それなら、三か所合わせて十二包のはずでござる」

カゲマルが、受取記録の数字を順に指した。

「ところが、三か所とも十二包ずつ。元の一台分と同じ数でござる」


記録の上では、十二包が三十六包になっている。


レティシアさんが、黒い粉の小瓶を握った。

「これだけの濃縮品が三か所へ運ばれたなら、海霧迷宮と同じ規模では済みません」


幌馬車で聞いた、逃げ道まで魔物の通り道になる光景が頭をよぎる。


ナオユキが四枚の写しへ身を寄せた。


俺は視界の端を見る。

《初回接続 残り一時間三十六分》

「あと一時間半くらいや。全部の記録、どこで見られる?」


カゲマルが答えた。

「星巡りの王都拠点でござる。地図と照らす準備も進めている」


「ほな、行こ」

俺は机から離れた。


ハナが隣に来た。

「五分前には絶対戻るよ」


「分かってる。続きは歩きながら聞こか」


カゲマルが四枚の写しを革箱へ戻した。

「誤記か、途中で別の荷が混ざったか。まだ断定はできぬ」

蓋を閉じ、革箱を抱えて扉へ向かう。


レティシアさんが、三つの見本を布で包み直してくれた。


俺はその包みを受け取り、カゲマルの後を追った。

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