1.銀の盤面
レティシアが救出されてから、四時間後。
王都の中央に立つ塔、その最上階。
窓の外では、夜の運河を走る船灯りが、細い線になって揺れている。
リゼルの机へ、マルチェロ・ヴァレンティが二通の書類を置いた。
一通は、封を切られた辞表。
もう一通は、つい先ほど街道の伝令が届けた、泥のついた報告書だった。
「先に、現時点の調査結果をご報告します」
マルチェロは、泥のついた報告書をリゼルの前へ向けた。
「市場を煽った商人への金と、海霧迷宮へ運ばれた誘引薬草の荷は、同じ第七倉庫へつながりました。現場を動かすユリウスと、帰還魂へ仕事を仲介するカイという男まで確認しています。ただし、その上の命令者にはまだ届いていません」
「カイ?」
「名前だけは以前から現地の噂にありました。姿を確認したのは、今回が初めてです」
「初めて聞く名前ね」
リゼルは、もう一通の書類へ目を落とした。
「任務はまだ途中。それで、どうして辞表が一緒にあるの?」
「アクアポートへ送った監査官、セレス・アーデルのものです。高速連絡船の手配を最後に商会との線を切り、現在もカイを追っています」
リゼルは辞表を開いた。
末尾に、自筆の一文が添えられている。
『これより先の行動は、すべて私個人の責任とする』
「辞めたあとも調査を続けるよう、あなたが命じたの?」
「いいえ。セレス自身の判断です」
「監査官のまま、監査証や商会の金を使って非公式な尾行を続ければ、捕まった時に蒼海商会から経済操作局まで遡られます。それに、商会内に調査相手と通じる者がいれば、正式な報告を上げた時点で追跡先も漏れます」
「だから、監査官の権限が必要な高速船だけ手配して、蒼海商会を通る線を切った」
「はい。追跡に失敗しても、責任はセレス一人で止まります」
リゼルの指が、辞表の上で止まる。
「最初から聞かせて。市場から、どうやって第七倉庫へつながったの?」
マルチェロが、机に王都島の地図を広げた。
海側へ三つの黒い駒を置く。
薬屋。第七倉庫。薬学研究倉。
「市場を最初に煽った商人たちへ金を渡した仲買が、使われていないはずの第七倉庫の夜間荷役料も支払っていました」
「誘引薬草は?」
「薬材問屋の帳簿では、大量に買われた荷が第七倉庫へ入ったところで消えています」
市場の金と、迷宮へ運ばれた薬草。
二本の線が、同じ倉庫で重なった。
「セレスが第七倉庫を見張っていると、縛られた女性が幌馬車へ乗せられました。その時点では身元不明。後に、王都薬学研究所の研究者レティシアと判明します」
「研究者が、なぜ第七倉庫に?」
「船酔い止めを求めて入った薬屋で、加工中の誘引薬草を見抜いたため、口封じに拘束されたと証言しています。セレスは現地で雇った情報屋に、女性を乗せた馬車を追わせました」
マルチェロは、地図の外から病院着の男の駒を拾った。
「その直後、倉庫へ妙な白い服で棍棒を持った新人冒険者の一行が現れました。男の名は、ダイキ」
「ダイキ……。ハナという女の子と一緒にいた、あの変な格好の男かしら?」
マルチェロが、地図へ駒を置く手を止める。
「ご存じでしたか」
「ノースポートで少しね。白い蜘蛛を倒した報告にも、二人の名前があったわ」
「同じ二人です。ノースポートからレティシアを護衛し、アクアポートへ送り届けています。その直後に海霧迷宮へ入り、白い蜘蛛を討伐。翌日、レティシアが王都へ着いていないと知り、そのまま捜索を始めました」
「蜘蛛を倒した翌日に?」
「はい」
リゼルは、地図の外に転がっていた病院着の男の駒へ目を落とした。
「本当に、よく走る子ね」
「セレスはレティシアの知人だと偽り、倉庫と馬車の情報だけを渡しました」
「それで?」
黒い駒が、薬屋から第七倉庫へ進む。
その後ろへ、病院着の男の駒が置かれた。
「ダイキたちを追跡の圧力に使ったのね」
「はい。その結果、ユリウスたちは旧関門で追手を待ち受けました。そこへカイも現れ、雇った帰還魂の一団について、自分から話しています」
「ユリウスと、噂にしかいなかった仲介役が同じ場所へ出た」
「セレスは、二人が同じ商人のために動いていると見ました」
マルチェロが、地図の左の街道へ銀色の駒を進める。
「カイが一人で逃げると、セレスはレティシアの救出をダイキたちへ任せ、情報屋と追跡へ移りました」
「捕らえずに、その先を追ったのね」
リゼルは初めて、泥のついた報告書へ手を伸ばした。
目で文章を追ううちに、口元がゆっくりと上がっていく。
「初めて会った人たちを、自分から走るように仕向けた。噂だけだった男を表へ出して、商会を辞めたあとも追っている」
報告書を机へ戻し、銀色の駒を指先で立て直す。
「へえ。面白い人じゃない。気に入ったわ」
「本人が聞けば、光栄に思うでしょう」
「一緒にいる情報屋は?」
「追跡には慣れています。カイを見失わず、街道の伝令から報告だけを戻しました」
「なら、そのまま使わせなさい」
マルチェロが、左の街道にある古い馬継ぎ場を指した。
「カイはここで馬を替えました。代金を払ったのは、メリディアン商会の使用人です」
「メリディアン商会……」
水王国でも指折りの大商会だ。
けれど、使用人が馬代を払っただけでは、誰の命令かまでは分からない。
「商会の上までつながっている証拠は?」
「まだありません」
「なら、カイは捕らえないで。次に誰と会い、誰から命令を受けるのか。セレスにそこまで見させなさい」
「承知しました」
カイへ仕事を渡した者の名は、まだ地図にはない。
だからこそ、ここで銀色の駒を止める理由もなかった。
マルチェロが、海側の黒い駒へ視線を戻す。
「レティシアは救出されました。薬屋、第七倉庫、薬学研究倉は封鎖。港湾管理は、輸送に使われた《海燕号》の帳簿を押さえています」
「ユリウスは?」
「逃走。ガレスとギルも姿を消しました。港湾管理が港と船便を、こちらが商人街道を調べています」
実働の三人は逃げた。
だが、今回使った拠点と、船に残った記録はすべて押さえた。
リゼルは黒い駒を一つずつ、地図の外へ退けた。
「予定になかった情報が、もう一つあります」
マルチェロは関門での会話を書き留めた書類を差し出す。
「ダイキがユリウスへ、青い花には不老長寿の噂があると話しました」
「あら」
今度は、声に笑いが混じった。
「あの子たちへ聞かせた噂を、そのまま向こうへ運んだのね」
「やはり、あれは偽りですか」
「青い花に、寿命を延ばす薬効なんてないわ。不老長寿と聞けば、金を持つ人ほど目の色を変えるでしょう?」
リゼルは、病院着の駒を指で回す。
「花そのものは必要よ。狙いどおりの作用を持つ薬が作れるか、試したいもの」
リゼルは病院着の駒を置き、その隣で黒い駒を転がした。
「不老長寿の噂は、それとは別。伯爵が花へ報酬を出せば、横から奪う者も姿を見せる。誰が動くかを見るための餌よ」
「ダイキがユリウスへ話し、ユリウスがその上へ持ち帰る」
「ええ。思っていたより早く、餌が奥まで届きそうね」
マルチェロが書類をそろえる。
「ダイキたちへ、今度は人を付けますか?」
「いらないわ」
リゼルは最後の黒い駒を退け、そのまま病院着の駒へ指を置いた。
「気づかれずに追える者も、遠くから居場所を拾える術者もいる。でも、毎日の行動まで先に知ってしまったら、次に何をするのか楽しみにできないでしょう?」
リゼルは、病院着の駒から指を離した。
「今までどおり、大きな事件や戦闘記録に名前が出た時だけ教えて。誰を助け、誰を敵に回したのかは、その時まとめて聞くわ」
「承知しました」
マルチェロが一礼し、執務室を出ていく。
扉が閉まると、リゼルは窓際に立っていたエリオンへ顔を向けた。
「アクアポートギルドから届いた、あの子の戦闘記録も見せて」
エリオンが、黒縁の記録板を机へ置く。
職業候補なし。
レベル二十。上限も二十のまま。
取得技能、《打撃》《剛・打撃》。
エリオンが記録板の縁へ指を置いた。
ギルドから届いた記録の下に、新しい文字が浮かび上がる。
《瞬・打撃》新規獲得。
「レベルは止まっているのに、技は増えたのね」
「職業による補助ではありません。本人が繰り返した動作を、技能として獲得しています」
リゼルは自分の右手を開き、ゆっくりと握った。
「レベルが上がらなくても、自分で新しい技を作る」
病院着の駒を、黒い駒の消えた地図から持ち上げる。
「次に会う時は、私の前で何を選ぶのか見せてもらいましょう」
リゼルが記録板で見ていたのは、SEEDの中で増えた一つの技だけだった。
けれど、変化はSEEDの中だけでは終わっていなかった。
同じ夜。現実世界の病院では、白いベッドで眠り続けるダイキの右瞼が、ほんのわずかに震えた。




