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187.表裏の言霊7




 立ち尽くして見送っていると、入れ替わりのように影が境内に入って来た。


「栄美子さん?」


 もう必要のなくなった杖が、日差しを受けて輝いている。沙貴はゆっくりと歩み寄り、「どうしたの、狐につままれたような顔してる」と笑った。

 反応がなくても視線が合わなくても、自分のことを一切忘れてしまっていても、彼女はいつもこうやって話しかけて来る。ひたすら、独り言のようになっても。


「杖、おじい様が欲しいって。……と言ってた、って聞いたけど……本当かな。私、この前ちらっとだけ、数秒だけおじい様お会いできたけど、杖欲しいなんて仕草ちっともしてなかったけど。うーん、怪しいよね?最近私ちょっと忙しくて、会えない会えないってうるさく文句言われてたの。私をここに呼び出す罠かも……あいつ……」



「沙貴ちゃん」


「っ」


 雷に打たれたかのように、沙貴がびくりとした。


「沙貴ちゃん」


「……え」


「沙貴ちゃん」


「……栄美子さん?」



「沙貴ちゃん。沙貴ちゃんでしょう」



 見つめたまま言うと、見開かれた目がくしゃりと歪んだ。


「……うん。沙貴。…………栄美子さあん……」


 風が下から吹き上がり、境内の砂が舞う。まとめられた黒髪が旋律のように揺れて、ああ、彼女のこういう顔を見たのは、二回目だわと栄美子は思った。


 おじいちゃまの葬儀で初めて声をかけた時、こんな不安げな顔してたわねえ。わたしが助けようと思ったのよ。誰にも何も言わせないわ、わたしがいるからね、って。


「……栄美子さん、栄美子さん、目が、目が合うね、何年振りだろうね、私たち、こうして……っ、向き合って、目を見て、話すの……っ。私のこと思い出してくれたの、栄美子さん、思い出して、くれた、んだね」

 沙貴のきりりと吊り上がった目尻が限界まで下がって、涙が溢れた。


「栄美子さん、ごめんね本当にごめんね。私、私、ずっと眠りこけてて……栄美子さんがこんなことになってるなんて全然知らなくて……っ。目が覚めてみたら、栄美子さん、すごく痩せて、言葉も、感情も……っ、大変だったでしょう、辛かったでしょう、一番大変な時に助けてあげられなくてごめんねえええ」




 小さい子みたい。わんわん泣いてるわ。




「栄美子さああん」



 



 沙貴ちゃん。



 言いたいことが何千万語もあるの。でも、たくさんありすぎて一気に取り出すには、詰まってしまって出てこないの。


 わたしね、沙貴ちゃん。


 一度命が果てたの。

 だからいま、二度目の生を過ごそうとしているの。

 前の生は、子のために生きた生だったわ。子のためだけに生きて、子以外のものをすべて握り潰し踏みにじって生きたわ。

 そうして罪深い生が終わって、いまここにいるのよ。


 だからね沙貴ちゃん。


 今度はわたし、あなたのために生きるわ。こういう生き方しかできないのよ、ごめんなさいね。

 これからのあなたの悲しみも苦しみも、すべて、わたしがすべて受け取りましょう。あなたはただ、健やかに生きてくれればいいのよ。わたしはもう、あなたのためだけに生きるから。あなたの苦しみはわたしのもの。わたしの命は、あなたのもの。

 何も怖いことも恐れることもないのよ。あなたを苦しめるありとあらゆるものは、わたしがすべて持って行くわ。


 どこへ?


 もちろん地獄へ。



 地獄なんて、慣れているもの。





 ……ああ、なにから話せばいいかしら。




「沙貴ちゃん、あのね」


「なあに、なに、栄美子さんっ。なんでも話して!栄美子さん!」


 涙を雑に拭いて、沙貴が乗り出してくる。勢いよく肩を掴まれて、栄美子の細い首がぐらりと傾いだ。



 どうしましょう。本当に言葉が出てこないわ。そうだわ、一番聞きたいこと、



「沙貴ちゃん、ねえ、沙貴ちゃんなら」


「うんうんっ」



「沙貴ちゃんなら、あおっていう子どもがいたら、その名前はどんな漢字だと思う?」



「……ん?」


「あお。どういう字かしら」


「……ええ」


 意味不明すぎて脱力したのだろう。肩にかかる、意気込んでいた彼女の手がわずかに軽くなった。

 わずかに観察するような目で見られる。ようやくの会話で、口から出たしょっぱながこの質問だものねえ。その気持ちよくわかるわ。


「……あお?」

「そう。あお」


「ええ……っと。うーん……あお……アオ……」


 それでも考えてくれるらしい。

 沙貴は宙を睨んで、もごもごと口を動かした。


「アオ……やっぱり、一文字で碧かなあ。紺碧の碧。爽やかでいいよね」


「……え?一文字?」


「え?え、だ、だめ?一文字は駄目なの?」


 栄美子が首を傾げると、沙貴は慌てたように早口になった。


「じゃ、じゃあ二文字で考えるね、えーと」


 やだ、すごく気を遣わせてるわ。


「……えっと、今は当て字もいろいろだよね、ええと……ええ?子どもの名前なんて考えたこともない……ああ」


 謎解きしている気分にもなってきたらしい。寄せていた眉を開いて、沙貴はぽんと両手を合わせた。


「彩りに生きるで、彩生、あお!どう、当たり?素敵じゃない?栄美子さん!」


「……」


「え……これも違う?」



「じゃあこっちにしましょう。沙貴ちゃん、なるっていう子どもなら」



「え、あおは諦めたの?……なる?」


「そう。沙貴ちゃん、なるっていう子どもなら、字は当然、コ」


 はっと顔を明るくして沙貴がまた乗り出す。


「昔みやこちゃんっていう幼馴染がいてね、そのママがルナ、瑠奈っていう名前で、アイドルみたいで可愛いってずっとあこがれてたの。だから『なる』なら、逆にして奈瑠!どう、今度こそ正解でしょ、栄美子さん!」



「……」



「…………ごめん……なんかわかんないけど、期待に沿えなくて……」



 しょんぼりする沙貴の様子がおかしくて、思わず吹き出す。それを見た沙貴が、嬉しそうに、心底嬉しそうに笑った。


次回は金曜日、少しだけとびとびで申し訳ないです。

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