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175.空蝉32 ずっと夢中



 とてもいい夢を見た。

 目が覚めると真っ暗な闇の中だった。

 シーツにこめかみを擦りつけて目を凝らす。しかし闇だ。何も見えない。

「……」

 ならば、まだ眠りの世界なのだ。覚醒したと思っていたが、いまだ夢の途中にいるのだろう。よくある、夢の中で目が覚めた気がしたけれどまだ夢、という状態なのだと功成はぼうっと考えた。


 本来なら目が覚めた途端、視界は目まぐるしく様々なものを映す。功成の目は普通の人に比べて異様なほど『いい』ので、見たくないものも見てはいけないものも、見えないはずのものさえ映し込む。すべてだ。

 暗いも明るいも、朝も夜も関係ない。漆黒の夜景の中でも蠢く奴らの姿ははっきりと確認できる。夕暮れの霞の中でも立ち昇る悪意の蒸気はしっかり見える。すべて見えてしまう。


 だから真っ暗で『何も見えない』今は、覚醒している状態ではないのだろう。

 まだ夢の中、しかしさっきの幸せな夢からはすっかり離れてしまった。




 ほんと、いい夢だったのにな。



 少し惜しい気がして再び目を閉じる。

 続きが見られないかと試すが、脳は覚醒直前の浅い眠りの淵を漂っているらしく、その甘美な夢の尻尾すら掴めなかった。


「ふあ」

 小さくあくびをしてシーツの匂いを嗅ぎ、夢に出て来た人を繰り返し想う。シーツは鼻をくすぐる柔軟剤の香りがして、なんだか心地よい。

「……ふふ」


 ただひとりの愛しい人は、勘違いをよくするし、非常にうかつだ。

 そこまで想ってちいさく笑う。


 勘違いをいろいろ、本当にいろいろしているが、すべてを指摘することはない。指摘してじゃあって直されても困るので、勘違いのままいてもらおうと思っているけど。


 まず、わずかに見えていることを、自分に黙っていた。

 理由は、それを知ったら功成が寂しくて悲しむからだと言う。勘違いだ。

 彼女が見えようが見えまいが、関係ない。昔のように自分と同じものを見ていようが見えなくなろうが、もうそんなことは些細な事象だ。


 そんなもの、とうの昔に越えてしまった。

 痣だらけで色の失せた、眠っている顔をずっと見ていた六年の間に、そんなものははるか遠くの境界線に捨ててしまったのだ。

 自分の気持ちをちょっと舐めてるな、とも思う。

 言わないけど。自分の気持ちすべて包み隠さず見せたら、きっとドン引きするだろうから。


 まあ、実際には、時々見えていることには……驚いたが、……正直、とても驚いたが、それ以上に焦燥感と絶望でいっぱいでそれどころではなかった。

 見えてる?あんなに、あんなに昔怖がって真っ青になっていた人が?また見えてるだと?

 やばい。

 やばい、これはまずい。



 沙貴ちゃん、逃げちゃう。


 僕から。



 頭の中が「やばい、どうしよう」「逃がさないようにするには、もう閉じ込めるしかない?」「また歩けなくするには、いやそんな可哀そうなこと、でも、でも」というほの暗い思考でぐるぐるとかき混ぜられて、どうしようもなくなって、よし、ここはこれしかないと焦りのまま心を決めて。


 そうして泣いた。大声で。


 彼女は、自分の泣く顔と泣く声にとてもとても弱いのだ。

 小さい頃からそうだった。功成が泣くと、まるで心臓を絞られたかのように苦しそうな顔をする。眉を下げて唇をすぼめて、どうにかして泣き止まそうと頭を悩ませる。あれこれ話しかけながら涙を拭ってくれて、最後は功成の頭をぎゅっと抱き込んで「わかった、もう言わないからね」と泣いた原因を無かったことにしてくれる。

 

 今回もそうだった。

 大泣きしたことで沙貴から慰めと笑顔をもらい、さらに告白まで受け取ることができた。

 やった。この手は本当によく効く。

 だからこれからもたまに泣こうかと思っている。

 もちろん、彼女の気を引くためだ。そう、わざとだ。


 これは間違いなく嘘泣きだ。嘘泣きなのだ。



「あー……」

 だらだらと思考を流してぼんやりしていたら、わずかな眠気がさらに薄れてきてしまった。まだ真っ暗な闇の中だから、朝は遠いはずなのに。

 肌寒さを感じて毛布を探る。

 


 それからもうひとつ、沙貴ちゃんは、「要らなくなったらいつでも言ってね」と言う。僕がいつか彼女を必要としなくなって、さらにはその存在が邪魔になるかもしれないなんて考えているらしい。しかも本気で。年齢のことか、昏睡状態が長期間にわたることか、とにかくたくさん要因を挙げて勝手に決めつけている。

 なんて愚かな勘違いだと笑ってしまう。笑ってしまうけど、でも、「要らないと言われるまではそばにいる」という非常に彼女らしい言葉があまりにもくすぐったく眩しく、心が溢れて抱き締めてしまった。

 結局その勘違いも訂正はしていない。


 強く真っ直ぐで自己の誠意を疑わない輝く精神力。

 与えて分け合いすり減って、でも相手にはそれを欠片も求めない堅牢な意思。


 小さな手を乱雑に掴んで引っ張り、明滅する光の先へと連れ出してくれた人。

 あちらの明るく美しい世界には僕は行けないけれども、行けない僕の目の前で常にあちらの美しい世界とこちらの真っ黒で静謐な世界の境界線を示してくれる人。


 僕の光明。僕の唯一の星。


 どうして僕が、彼女を不要とするのだろう。

 僕が彼女を手放すなんてあり得ないのにな。


 おかしな人。









重い人の重めの語りです。


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