172.空蝉29 きみに夢中
ゆっくりとゆっくりと、涙は一筋流れて行く。
「沙貴ちゃんがまた見えてるってさっき知って、沙貴ちゃんがその見えることで苦しんでると思ったから、僕は怖くて悲しくて仕方なかった。パニックになるくらい。……でも、沙貴ちゃんの『苦しい』は、そうじゃなかった。僕を、僕を助けることができないから『苦しい』なんて。……それを僕は聞いたからもう大丈夫。大丈夫なんだ、沙貴ちゃん」
沙貴ちゃんが見えるか見えないかなんて、もう僕には関係ないんだよ。沙貴ちゃん。
濡れた目を拭うこともせずに笑う。
「沙貴ちゃんがまた見えなくなっても全然平気だよ。大丈夫。なんにも心配いらないし、僕は悲しみも寂しさも感じない。でも、沙貴ちゃんがそばにいなくなるならそれは無理だ。それだけは絶対に譲れない」
前半は嘘、後半は
「……ふふ。沙貴ちゃんは勘違いしている。自分が見えなくなると僕が寂しくなるって思い込んでる。それは勘違いだよ。確かに以前は、子どもだった時は、……確かにそう、少し寂しくて悲しかったけど、でも」
成長したから、功成は笑いながら嘘を吐く。嘘を吐けるようになったのだと沙貴は思った。
「でも、もう今は大丈夫だよ。沙貴ちゃんが見えなくなっても平気だし、誰も見えない聞こえない世界でひとり見聞きできる存在だとしても気にしない」
だけどね、と長い腕で囲った沙貴の体を揺らされた。
「それは沙貴ちゃんがそばにいて、いつも大丈夫よって言ってくれることが前提。それがないと無理だなーやっぱり」
また軽く持ち上げられてくるりと一回転。
「……僕がいらないと言うまでは、いてくれるって?はは。面白いこと言うね。僕がいらないって言う日がくると思ってるの?」
「え、いや、それは」
次々と感情を揺さぶられてわずかに混乱して言葉が出ない。軽く目も回ったのか、たどたどしい声になってしまった。
「コウ、あんただって、いつかきっと、私が邪魔になる時が、来る、こんな年上の口うるさいのがいたらコウが近い将来ほんとに大事にするひとが」
「あははは」
下ろされると同時に大笑いされる。
「あー笑える」
そしてまた頭ごと胸に押し付けられ、ぎゅっと抱き締められた。
頭頂部にかかる息が濡れている。
相手が、抱き締めてくる顔は笑っているのに、同時に泣いているからだ。
自分は、伸び上がっても袖で顔を拭ってやることはできない。届かないからだ。
そう思ったら、体のどこかが氷を当てられたようにひやりとする。何かに追い立てられるように頭がざわりとする。
そうだ、私は昔から、彼の泣き声と泣く顔がとても苦手だったのだ。
心臓が痛くて鼓動が早くなり、窒息しそうになる。
沙貴は振り払うように小さく頷いた。
「……わ、かった。じゃあ、大丈夫よって何度も言う。コウに。必要とされている間は、ずっと」
「……ふふ」
鼻先が当たるシャツが揺れて、腕がさらに強くなる。
「今までの話は、沙貴ちゃんが勘違いしてるって話ね。でももうひとつ、沙貴ちゃんはうかつっていう話もあるけど、それは言わないでおくよ。うかつだよねえ本当に」
「うぐっ。くるし」
ぷはっと息を吐いてようやく顔を上げる。
「な、何がうかつ?」
「ないしょー」
「ええ?」
見上げると、白い頬に上がった口の両端、そしてたわんで細くなったきらめく黒目。
昔とまったく同じの、懐かしい笑顔だった。
運命は樹形図だ。
枝葉は絡まり離れ、また絡まって天へと伸びる。
根元はひとつなのに、枝分かれした最初の点から、それは無数に伸びてそれぞれの運命を刻む。
首桃果の木は、どんな形をしているのだろうか。ひとつの枝先に生まれ枝を辿り、新しい分岐点を探す旅を続ける功成に、自分は何ができるのだろうか。
何もできない自分ができると言われ、どう生きて行けばいいのだろうか。
私はまだ、ひとり楽になってはいけないのだろうか。
それを自分が望んでいないから、もう楽になる道の枝先は途絶えているのだろうか。
空蝉だ。空蝉、これは空蝉の人生。
進んでいた枝の先に、空っぽの蝉の抜け殻がぶら下がっていた。
変わり続ける自分に変わらない大切な人、その人が、変わり果ててもそこにあり続けてと言う。空蝉の魂が空に解き放たれるのを許さず枝へと、……枝へと戻れと言う。
「約束だよ。ずっと隣で言ってね。大丈夫だって」
「……」
沙貴は黙る。
そして、長く果てなく続く道の先を思った。
世の中は、仕方のないことで溢れている。
それを耐えろと言うならば、私はたったひとりの相手と手をつなぐ。
「……言うことしかできないなんて、とんだ役立たずね」
運命という名の手を。
「いや」
功成が上げた沙貴の頭を再び大切そうに腕に抱え込んで、「そうでもないよ」と消え入りそうな声で答えた。
笑っているのに、泣いている声で。




