170.空蝉27 きみに夢中
「苦しい。とても」
功成の目が眇められる。
沙貴は舌の根に全神経を集中した。
「……私は、コウに出会って、黒い布を結んで、隣にいたあの日々とはずいぶん変わってしまった」
世界は変わり続ける。いつもだ。
いつも残酷なほどの素っ気なさで世界は変わってしまう。
「聞くことはできず、見るのはごくたまにチャンネルが合った時だけ。地を這う声がどんなだったか、今は思い出すことすらできないの」
どんな声だったろうか。
低く響いて、恐ろしかったのは覚えている。でも、それはどんな声音で、どんな色だった?
「海で溺れているみたい、私。記憶を探して苦しくて、ずっと溺れてる」
出会ってからの長い時間、あの日々が薄紅色の夢だったように思えてしまう。
沙貴に与えられた限定の力と限定の期間は辛いことばかりだったはずなのに、振り返るほどにそれは深海で鈍く光る真珠のような輝きを帯びる。
「今の私のこの目。おこぼれだとずっと思ってた。六年前、眠りにつく前の時のように、コウのおこぼれが今も残っていて。だから時々視界が切り替わって、一瞬だけ見えるんだと思ってた。だから私は、目覚めてからずっと、退院しても今までもずっと、泣くこともできなかった」
右手で片目を覆う。それからゆっくりと、左手が後を追った。
「だって泣いたら……コウのおこぼれが、私の眼球に貼りつくコンタクトみたいだったら?泣いてそれが剥がれ落ちてしまったら?涙で曇って、そして完全に見えなくなってしまったら?バカみたいにそんなことを考えたら、泣くこともできなかった」
両手で顔を隠す。
「たまに僕を遠ざけてるよね、て言ってたよね。あれ、私がちらりと見えている時。何かがさっと見えて、それを目で必死に追っているのを知られたくなくて、コウを避けてたの。ごめん。ごめんね」
顔を伏せたまま謝ると、声がくぐもってしまった。
「ごめんね。ごめん。コウに、バレたらどうしようって。おこぼれがまだ残ってくすぶっているのがわかってしまったらどうしようって。そればかり考えて逃げて、コウを傷つけてた。こんなに毎日私のこと助けてくれるのに、ごめん」
「なんで、」
声が震えたのは功成だった。
沙貴の喉は正常に動き、毅然とした声が出る。
「だって。私が一瞬でも見えてるってわかったら、コウ。コウは、コウは、……コウは。嬉しくなるでしょう」
「……」
泣いてしまうかと思うのに、やっぱり涙は出なかった。
「嬉しいでしょう。期待してしまうよね、どうしても。例え望んでいなくても、心の底では期待してしまう。当然だもの、そんなの」
でも。
「でも、これはおこぼれ。……いつ無くなるか、いつまで続く力なのか。明日おこぼれが無くなるかもしれない。一時間後、一年後?いつ、いつこのくすぶるおこぼれの煙が消えるのかわからない。……鱗だってそう」
は、と功成の小さな息がかかる。
「鱗だって教えてもらって、じゃあおこぼれよりはいいのかなって思って。でも、鱗だもの。……ヘビ、昔一緒に見たよね、透けて剥がれかけたヘビの抜け殻。本体が砕けて無くなるなら、鱗だっていつ剥がれて落ちるかわからない。今この時も、落ちかかっているのかもしれない」
それを想像すると足がすくむほど怖い。
「……おこぼれが消えたら?鱗が、剥がれて落ちてしまったら?コウ、コウが……コウが、どれだけ悲しむのか。それを想像すると、立ってられないほど怖い」
功成は長くひとりで歩いて来た。
隣にともに歩く人がいなくなって、それでもひとりで旅を続ける彼は、長い時間をかけてようやく慣れたのだ。ひとりでいることを。
それなのに、また見えると言う。かつて隣にいた人間が。
そして、その力は、いつなくなるのかわからない。
「一度諦めて、また期待して、そして……また見えないとなったら。コウにどれだけ辛い思いをさせるのか」
それは絶望に近い。
一度奈落の底に落ちているからこその絶望だ。
「一瞬だけ見える。聞こえない。いつ見えなくなるかもわからない。私は変わってしまった。昔のようにコウを守ってあげることができない。一緒に同じものを見て同じものを聞くことができない」
溺れる今思う。あの日々は深海の真珠だった。
「コウ。あんたを、ひとりで旅を続けるあんたを、助けてあげることができない。ずっとふたりで来たのに。私には、コウしかいなかったのに」
友達はいい。
人生をともにできる。
見えなくても聞こえなくても、旅の足を止める休息場になって寄り添い続ける。旅立つ背に声をかけ見送ることができる。
でも私は、友達じゃない。
「私は友達じゃないもの。助けてあげたいのに、抱き締めて守ってあげたいのに」
「沙貴ちゃん」
「助けてくれなくていいと言われたとしても、『私が』それを許さない」
空蝉だ。
ずっと変わらずにいたいと願っていたのに、
私は変わり果てた。
そばでただ見ているのが辛い。自分が我慢できない。
沙貴はまぶたに両手を押し付ける。涙の代わりに出たのは、夜を裂く掠れ声だけだった。
「愛する人を守れないなんて、私は、自分を許さない」
風が吹いた。
闇の迫る空気が重く、髪の乱れた功成の表情がよく見えない。
手を外して顔を上げた沙貴は、乾いた目で瞬いて、ほんの少し笑った。
「……これが、私が話したかったこと。まとめると、だから少しだけ見えてるの。鱗だったのね。そして、これはいつまで見え続けていられるかわからない、ということ」
そして誠意を込めて伝える。
「こんなに短い言葉なのに、なかなか言えなくてごめん。わずかでも見えること、黙っててごめん。たまにコウを避けてごめん。あと、いつもありがとう。本当にありがとう。……でも、私に付き合い過ぎだからちゃんと自分の勉強して。学校行きなさいよ、あんないいところ入って。あと人付き合いもね。友達にはもうちょっと優しくね。収入があるって言うけどそれはほんとに大丈夫なの。変な人に騙されてない?それから、わっ」
一気に言ったら腰をぐっと持たれた。
そのまま持ち上げられて足が浮く。向かい合わせで抱き上げられた格好になり、久々にきらめく黒目を見下ろした。
「……それから?」
「……それから……色々言ったけど、でも結局、私からは離れて行ったりはしないから、大丈夫。コウがもういらないと言うまではちゃんといるから。だから寂しくて泣いたりしなくてもいいのよ、コウ」
「ふふ」
街灯だけの暗闇なのに、功成はまぶしそうに沙貴を見上げて笑った。
「……僕がいらないと言うまではそばにいてくれるの?」
「うん、まあ」
真下にある薄い唇が吹き出す。
「苦しいって思っているのにそばにいてくれるんだ」
「……うん。苦しいのは私自身の問題で、私自身の勝手だしね。コウには関係ないから」
「はは。沙貴ちゃんは、本当に変わらないね」
変わらないと言いながら心底嬉しそうに笑う顔に首を傾げる。
「……今の話、笑うところあった?」
「そりゃあたくさん」
「さっきまで辛そうにしてたのに、どうしてそんな急に楽しそうになるの」
「ふふ」
右腕をたくましい肩に置くと、ぐいっとさらに持ち上げられて、功成の顔は沙貴の腹のあたりで笑う。
「変わらない。変わらないなあ。僕が泣くのは寂しいから、そう思ってるところまで変わらない」
「違うの?」
違うよ、と笑い含みに見上げてくる。
「沙貴ちゃん、僕の光明。僕の星。僕のすべて」
そして功成は夜空に映える黒目をたわませて、嬉しそうに笑った。
「やった。泣いたかいがあった」
もうちょっといちゃこら続きます
メリークリスマス




