169.空蝉26 きみに夢中
私たちは、お互いのことを知らないままにここまで来た。
「結構な時間を重ねて来たのにね。長い時間ともにしたのに、ちゃんと話し合ったことはあまりない。理由は明確で、まず最初は……コウ。あんたはとても幼かった」
話し合いどころか、子どもの言っていることを飲み込むだけでも必死だった。
「それから、私がようやくコウの見聞きしている世界に理解が及ぶと、次はお互いの感覚の差が顕著で……話し合うというよりは無理やりのすり合わせだったね」
思い出したらやっぱり笑ってしまう。功成の言うことに驚き、功成はこちらの言うことがなかなか理解できない。こちらが脅えても功成は怖くないと言い、功成が泣き喚いてもこちらは理由すら不明。手探りでお互いの存在を確かめていた。
「そうしてようやくじっくり話せるかなあという年齢になったら、コウ。あんた思春期に突入して私を避けたもんね?」
「……いや、あれは……」
「思春期でしょ」
「……」
沙貴が見聞きできなくなって功成は閉じこもった。話し合うことも心を通わせることもなく、距離が遠かった。が、思春期ということで押し通す。
「六年眠ってたからその間はもちろん割愛。で、目覚めた後は今の通り。まずリハビリ、退院、新居、編入、私には話し合う時間がなかったし、何よりコウ。コウは」
自分の顔を挟む手に、右手だけ添える。
筋張って大きい手は冷えていた。
「コウは、とてもとても怖がりになったね」
黒目がわずかに揺れる。
沙貴は宣言するように告げた。
「……と、いうようにね。私たちは実は、ゆっくり自分たちのことを話し合ったことがないの。だから話し合いに慣れていない。そして怖がりになっちゃったコウは、私が話そうとしているのに最後まで聞いてくれない」
添えた右手で冷えた手の甲をつねった。
「たくさん噛まれたお返し」
つねったのに、両手は離れて行かなかった。
「さっき、私、もっと話そうとしたの。まだ続きがあるの。なのに、なのにコウがうえーんて泣き出すから」
「……」
「沙貴ちゃん、言わないで言わないでってかんしゃく起こして泣くから」
「……違うけど……もうそれ以上は……」
口の中でもごもごとつぶやいて、また頭ごと腕に囲われる。
沙貴の頭のてっぺんに降りた唇が、「……でも、聞くのが怖いんだ」と小さく独白した。
怖い。
何もかもが怖い。
他は何も怖くないのに。
あなたを、失うかもしれないことだけが、ただ怖い。
「でも、話そう。怖くても。ちゃんと、話そう、コウ」
「……沙貴ちゃん」
「私はコウが、内緒で追い払ってくれていたのを知らなかった。コウは、私が今、時々見えていることを……眠りにつく直前も時々見えていたことを、知らなかった。そんな、すごく大事なことですら私たちはお互い知らない」
それから、と眉を下げる。
「……私もとても怖い。話すことが怖い。でも、ちゃんと話そう、コウ」
ちゃんと話そう。
その言葉に、功成の吐息が重なる。
「……話して、じゃあ、そういうことで私はコウから離れるね、ばいばーいって言わないなら聞く」
子どもじみた言い方に思わず吹き出す。
「私、言いそう?」
「すごく」
答えてぎゅっと鼻筋を押し付けてくる功成は、ようやく溺れたような呼吸を抑えたようだ。音もなく、大きなため息が頭上で響き、そして腕の力が弱まった。
明るい夜の静かな風が吹く。
「……取り乱してごめん」
「うん」
「いつも……ありがとう」
いつも外れそうになる僕を、
「戻してくれて」
「……うん」
なんとなく歩き出すと、功成はやはり左側に立った。
沙貴の薄いコートの裾が翻って、彼の腰を叩く。シャツ姿で寒くないのかなとその横顔を見て思う。
沙貴が見上げると、すぐに気づいて功成が見下ろす。
視線が交わると鼓動が飛ぶ。この心臓の痛みはもういつからのものだろうか。
長い時間が経った。季節がいくつも変わった。
功成は変わった。世界は変わった。変わらないものなどない。
だからもちろん、沙貴も変わった。
空蝉だ。
「六年前、眠りにつく前ね。コウのおこぼれで、ごくたまに見えざる者が見える時があったの」
「……うん」
「目を凝らして、耳を澄ましてね。毎日毎日、見えないか、聞こえないか、何度も何度も確認してね。苦しかった」
「……う、ん」
掠れた声で頷く功成に体ごと少しぶつかる。
「違う違う。苦しいっていうのは、見えて苦しいじゃなくて。しっかり見えないから苦しいの。逆ね、逆」
「……見えないのが苦しい?」
雑にぶつかって来た沙貴をさっと受け止めて聞き返してくる。
その白い額を、腕を伸ばして少しだけ撫でた。「このことをさっき、続きで言おうと思ったのに。コウが泣いて邪魔するから言えなかったの」と笑うと、撫でた体温がわずかに上がった。
「……懐かしいね。あれだけ怖がって嫌がってたのにね。見えたら怯えて、聞こえたら半泣きで、毎日逃げたい気持ちと戦ってたのに」
怖くてたまらなくて、見聞きするたびに後退る体を叱咤しては、それでも幼いコウの横にいた。
「それなのに、見えなくなって……黒い布が千切れて、いつのまにか地の底のような声も聞こえなくなって、コウと距離ができて……あの時、自分が思う怖いものが、大きく変わっていることに気づいたの。見えざる者が怖いのではなく、見えざる者を見えなくなってしまった事実が怖かった。怖いものが見えないから苦しかった。自分が変わってしまったことがとても怖かった」
そして今も。
「今も怖い」
今も同じなのだ。
沙貴、もうちょっとしゃべります




