168.空蝉25 きみに夢中
沙貴は最近よく考える。
足りないことはたくさんあるが、その中でも圧倒的に足りないのはおそらく時間。そして話すこと。「話し合え」と言った恒彦の慧眼には心底感服してしまう。
自分を抱き締める大きな体のはるか後方に、オレンジ色の灯りがあった。
それはゆっくりと近づいて来る。
車のライトかと思った瞬間、視界が横揺れした。
灯りは功成の背中のすぐ後ろまで来て止まる。
目を凝らさなくてもわかるほど眩しい塊は、発光する人間の顔だった。
「……」
若い男の顔に見える。
頭部分が潰れているから輪郭は歪んでいるが、それ以外はすっきりとした顔立ちの同じ年ほどの男だった。
体はない。首もない、顔だけだ。よく見ると耳もない。ついでに髪の毛もない。
オレンジ色に輝く顔はぐるりと眼球を上下させると、功成の背後斜め上に浮かぶ。そして肩越しに沙貴と目が合い、大きな口をぱかりと開けて笑った。
「ふ」
その笑顔があまりにも無邪気で思わず声を漏らすと、腰に回る腕がぐっと強くなった。
苦しいほどきつく抱き寄せられる。そして沙貴の髪に顔を埋めたまま体勢を変えず、功成は右腕だけ宙に浮かせた。
右の拳を、何も言わずに上へと突き上げる。
「あ」
拳はオレンジ色の顔に当たり、顔は瞬時に消えた。
無音だった。が、発光する顔は感電したようにも見えたし、何かにバチッと弾かれたようにも見えた。消える瞬間、痛そうに歯を剥いて頬を歪めるのもちゃんと見えた。
「……んんっ」
気になって拘束をよいしょよいしょと抜け出す。動きやすい片腕を一生懸命上げて宙に浮いたままの拳を掴もうとするが、到底届かず、仕方なく袖を引っ張ってみる。
くいくいと何度も袖を引くと、静かに拳が下りて来た。
「……」
下ろされた功成の右腕の袖をめくると、現れたのは思った通りの黒い布だった。
「なつかし。手首に巻いてるのね」
ふたつに別れ細くなった、古ぼけた黒い布。
かつて幼い子どもの首にあったネクタイで、その後は沙貴の手首に常にあったものだ。それは色褪せて黒というよりは銀色に見えた。
「……」
「じゃあ、あのベッドに巻いてあったのはなに?病院のベッドの脚の、あの真っ黒の布」
「……お母様にもらったタオル」
「ああ、母さんの会社の販促用のやつ。昔からあの人あれ愛用してるもんね」
「…………」
ゆっくりと、功成の鼻が沙貴の髪から離れた。
そしておもむろに、掴まれていない方の手、左手を沙貴の顎に当てる。
がぶり。
「……いっ」
頬を強く噛まれてめまいがする。
大きな拳と手首から目を上げると、きらめく黒目と視線が交わった。
「なんでがぶってするの」
「……」
「小さい子どもみたいにうえーんって自分が泣いちゃったからって、噛むことないでしょ」
「……違うし」
「恥ずかしいからって当たらないでよ」
「…………あー……もー……」
功成は、自分の前髪をくしゃっと掴む。
そしてそのまま、沙貴の耳を両手で挟んだ。
あーん、と大きく口を開けた彼は、さっきは強く噛んだ頬を、今度はごく優しく、かぷりと噛んだ。
「また噛んだ」
「……」
「ごめんねは?」
「……痛いことしてごめん」
「歯形ついてない?」
「ついてない」
沙貴はじっとこちらを見下ろしてくる黒目を見上げる。大きな両の手のひらで頭ごと囲まれているようだ。
「前々から疑問だったんだけど、コウ。あんた小さい頃から、何か見えた時に私にそのことをペラペラ話して教えてくれる時と、まったく何も言わない時あるよね。あれ、どういう違いなの?」
「……」
「要らない説明までしてくる時あるじゃない、血まみれだとか。でも別の見えざる者の時は無視したり黙ったまま追い出すこともあるし」
クローゼットの中の紙人間のことは教えてくれたのに、蜘蛛……のような黒い手の時は何も言わず、さらには見てないふりをして潰していた。さっきの発光するオレンジの顔もそうだ。
どうして?と尋ねる。自分の手の中で首を傾げる沙貴を、功成はひたすら見つめながら短く言った。
「沙貴ちゃんに影響ないのはしゃべる。沙貴ちゃんにちょっとでも害がありそうなのはしゃべらない」
「え、そういう基準?」
「小さい頃からずっとこの基準」
「へえ!そうなの?知らなかった」
言いながら今度は反対側に首を傾げる。合わせて沙貴の顔を包んでいる功成の両手も傾いだ。
「ん?じゃあさっきのオレンジに光る顔だけ男も害を為そうとしてたの?飛んでるだけでとてもそんな風には見えなかったけど」
「…………害がありそうなやつと、あと、沙貴ちゃんが興味を持ちそうな感じのやつは、しゃべらない」
無表情に見下ろしてくる功成は、さりげなく基準を訂正した。
「しゃべらず、私に気づかれないうちに追い払うの?」
「そう」
「今まで、たくさんの怖い見えざる者たちから守ってくれてたの?」
「そう」
「そして今まで、私の知らないうちに多くのイケ顔な見えざる者たちが追い払われていたのね」
「……」
無言のまま、功成はまた手の中の頬を軽く噛んだ。
そして長い親指で、そっと噛んだ跡を拭う。
されるがままの沙貴は、まっすぐ見ると彼のシャツの襟しか視界に入らない。
喉が出っ張ってる、と呟くと、その喉が上下に動いた。
「ねえ。そんなコウの幼いころからの基準ですら、私は知らなかった」
無表情の黒目を見返す。少し笑ってしまった。
なんて顔してんの。
泣いたせいで赤い目尻に、ぴくりとも動かない口の端。
沙貴が何を言うか、何を言われるか、怖がって全身で緊張してうかがっている。
「よくよく考えたらね、私とコウは、あまり話し合ったことがないのよ。長い間一緒にいたからと言って、じっくりお互いのことを話したことがないの」
功成が無表情の時、周りの人の多くは、その物事に無関心だったり呆れているのだと思っているだろう。でも沙貴は知っている。この顔をする時は、極度に緊張していたり、怖がる気持ちを隠していることが多い。
でもこれも、話して知ったことではない。長い時間見てきて、そうだろうなと検討をつけただけだ。
私たちは、同じ時間を過ごしていたのに、お互いのことをあまりにも知らずに来たのかもしれない。
見えざる者の悪意に翻弄される日々の中で、いつもお互い横に並んでいた。
今、この時のように、お互いの息がかかる距離で向かい合ったことはあるだろうか。




