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167.空蝉24 きみに夢中




 苦しかった、とぽつりと漏らすと、背の高い影がびくりと揺れた。



「本当に時々、瞬間だけ細い線が繋がる。そのコンマ数秒の中だけ見える。コウにも誰にも話せない。……あの時は苦しかった。ただの見間違いだって思うことが多くなって、それがとても苦しかった」


「さ、」

 功成は息を止める。

 声が震えてうまく出せないらしく、ぶるっと大きく痙攣した。

 黒目が大きく伸びて青く濁り、恐怖と悲痛に固まっているような表情だった。


「あの頃苦しかったのに、とても苦しかったのに」

「さ、きちゃ」

「ヘビを巻いてそのまま意識なくなって……六年たって目覚めた後、いつだったかな。病院で、まだリハビリも始まってない時。まだ自分で半身を起こすことができなかった時だったと思う」


 

 寝てるベッドの脚に、何かがいた。


 小さな小さな手だった。



「さきちゃん」

 目を見開いて功成が見つめてくる。


「小さな真っ黒な手で、それがひょいってこちらに伸びて。あ、と思ったらバチッって弾かれたみたいに黒い指が仰け反って」


「沙貴ちゃん」


「ベッドの脚に巻かれた黒い布に弾かれて、消えたの。黒い手、細く短い三本の指がついた骨だけの手が」



 動物のような、不気味な手だった。

 しわしわの細い三本の指も真っ黒で、それぞれがバラバラに動いていた。

 ベッドの脚に巻かれた黒い布に近づき、そこを登ろうとしたのかもしれない。

 が、電気に触れたように突然仰け反って、そして黒い手は消えた。


「見間違いかなって思ったの。そして次の瞬間、あ、これ知ってる。この感覚、覚えてるって思った」


 あ、これ、あの頃のままだ。見間違いかと思うこの感覚。

 あの、見えなくなった時の、六年前の。

 

 あの、苦しくて仕方なかった頃の。


「さ」


「見間違い。思い込み。……ああ、そうじゃないって思った。そうじゃない、これは現実だ、この視界は、あの世界とつながっているんだと」



 ベッドに寝転び、見上げる病室の天井。その隅。視界がカシャっとぶれる。

 

 電灯の陰に隠れた蜘蛛がいる。

 

 いや蜘蛛じゃない、小さなあの手だ。


 ……手だけだったんだな。手の先は何もなくて、手だけが動いていたんだな、と思いながら、見つめ続ける。

 ベッドの脚を登るのを諦めたのか。黒い布が巻かれているから弾かれてしまう、困った。

 ならばと、手は、床を這って音もたてずに壁を伝ったのか。

 辿り着いた天井に吊り下がっている。電灯に隠れてこちらを窺っている。

 三本の指を広げ逆さになって、じっとこちらを見ている。


 瞬きをすると消えた。


 パズルだ。

 チャンネルだ。

 カチッと合う、その瞬間だ。



 私、覚えてる。



 カシャリとまた視界が変わる。ぶれる視線に蜘蛛、いや手。

 スイッチをつけたり消したり、何度も視界が切り替わる。それに合わせて黒い手も見えたり見えなくなったりする。見えた瞬間はにらめっこだ。

 仰向けに寝たまま、黒い手とひたすら見つめ合っていたその時、引き扉が音もなく静かに開いた。「沙貴ちゃん、来たよ」とにこにこ笑う功成だった。

 沙貴が首を傾けて彼を見る。ここにいる時いつも上機嫌の功成は、やっぱり鼻歌まじりの笑顔で、しかし一瞬だけ天井を見上げた。

 鈴子さんおすすめのフルーツゼリー、食べる?と嬉しそうに紙袋を見せられて、沙貴は「うん」と言った。「でも、食べさせるのは無しで。自分で食べるから」とも答えた。功成はわざとらしく頬を膨らませて、「ええ?」と片眉を上げる。「私の右手はとてもスムーズに動きます」「じゃあ僕背中を支えます」「結構です」「ケチ」文句を言いながら功成はごく自然に病室の窓を開けた。心地よい風がびゅっと吹いて、天井隅の蜘蛛、いや黒い小さな手が、ひらりと傾いた。

 風に乗った手はそのまま舞うように床に落ちた。


 それを、功成は滑らかな動作で踏み潰した。


 鈴子さんの一押しはオレンジだって。哲也さんはマスカットが大好きっていう要らない情報も教えられたんだ、と紙袋の中を探りながらこちらへ来る功成。

そういえば私、哲也くんとまだ直接話してない。あと十年はその必要はないと思うよ沙貴ちゃん。え、なんで?


 彼の靴の裏で平らになった手は、会話しながら沙貴が瞬きをしたら消えた。






「ああ、まだおこぼれがくすぶっているのかって思ったの。私のどこか奥深くにある、コウのおこぼれがまだ燃え残りの煙を上げているのかと」


 夜の帰り道は街灯に照らされて滲んで見える。立ち止まったまま沙貴は両目をゆっくり擦った。


「鱗が残っていたんだ。考えもしなかった。無理に巻き付けたヘビの、鱗のせいだったのね」



「……沙貴ちゃん!」

 功成が叫び、肩を掴まれる。

 溺れる人のような必死さだった。


「ごめん!ごめん、ごめん、一生謝り続けるから、絶対もう間違わないから!苦しめてごめん、こんな、こんな風になってしまって、なんでもする、なんでもする、何もかもすべて!ごめん、ごめんね沙貴ちゃんごめん、だから!だからお願い沙貴ちゃん、」


「コウ」


「お願い沙貴ちゃん、お願いだから」

 視界がシャツで塞がれた。




「もう一緒にいるのは嫌だ離れたいって言わないで」




 言わないでえ、と幼い子どものように功成は泣いた。




「沙貴ちゃん、言わないで、言わないで……」

 頭ごとぎゅっと抱きしめられる。

 頭頂部に押し付けられた唇は、「言わないで」と繰り返しながら喘いでいた。


 苦しいよね、ごめん。苦しめたくないのに苦しめているのは僕なんておかしい。

 ごめん沙貴ちゃん、でも、離れられないんだ。


「僕はおかしい人間なんだ、やっぱりどこか狂ってるんだ。こんなに苦しめてこんな、こんな、一番大事な人がこんな、それなのに僕は離れられない」


 逃がしてあげられない。


 見える人は狂ってしまうんだ。どこかで必ず。



「沙貴ちゃん……沙貴ちゃああああん……」



 夜は深海のようで溺れてしまう。

 光の射さない深い海の底で、溺れた功成の息だけが音を立てているようだった。







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