166.空蝉23 きみに夢中
鱗が残っていたのだとは思ってもみなかった。だからあの人に言われて、とても驚いた。
引っ越し準備の初日、功成とともに新しいアパートの玄関に入った。六畳一間に小さなキッチン、前住んでいた部屋と似たような間取りで、新しい場所のはずなのにすでに馴染んだような錯覚がある。窓を開けようとする沙貴の後ろで、功成が「……クローゼット」と言った。言われて、ごく自然にそこへ目が向かった。
開けっ放しのクローゼットはごく狭い。
その壁に、べたっと貼られた人間型の紙があった。
真っ赤な絵具で塗りつぶしたようなペラペラの紙で、とっさに思ったのは「なんでこんな奇抜な絵が、クローゼットの中に貼られているの?」だった。
前の住人の趣味かなにかだろうか。不動産屋さんは何も言ってなかったし。強力に貼りつけられていて、無理に剥がすのも障りがあるのかな。問い合わせてみるか。
「クローゼットの壁に貼りついた血まみれの男性がいる」
キッチンに換気扇がある、と同じような温度で言う功成の声にはっとした。
瞬く。
何も見えなくなった。
「あ、心配しないで。大丈夫。目が合ったら、向こうも驚いたみたい。いま、貼りついた自分の体を剥がしてるよ。……あ、べろって上半身が剥がれて二つ折りになってる」
黙っている沙貴に気を遣ったのか、それとも単に実況がしたかったのか、功成は解説し続ける。
見えていない自分に、きちんと安心して欲しかったのか。
かなり端折って適当にぼかして話しているのであろうが、詳細でないからこそ逆に現実味があった。
紙のように薄っぺらい人間が、血まみれでクローゼットの壁に潜んでいる。
彼は人と目が合い、慌てて逃げようとする。貼りついた体を必死に剥がそうとして、べりっと勢いよく半分だけ壁から離れる。
血の滴りも気にせず、残りの下半身も剥がそうと、よいしょよいしょと壁を押す。
「無理に剥がすから、壁に右足首だけ残してしまったみたい。いま、しゃがんでそれを手で剥がしている」
大きなシールの糊が、思いのほか強固だったように。
剥がし残した足首部分を、一生懸命かつ丁寧に爪でこそぎ落とす。
「うん、よかった、全部剥がれた」
剥がした右足首を持って、紙人間は血だらけのまま居間を抜けて玄関へと向かう。
「玄関から出て行く。……よし、もう大丈夫だよ。クローゼットの中には体のどこの部分も残っていないし、血もそのうち消えると思う。特に問題なさそうでよかった」
あのまま残られたら、僕も嫌だし。
呟いて、功成はこっちを向いた。沙貴はうん、と頷いて少しぼんやりする。
何も見えない。
さっきは見えた。
カシャ、カシャと映像が切り替わるように視界がぶれる。
入院中から時々こういうことが繰り返されている。
「ごめん、沙貴ちゃん、怖かった?大丈夫だよってこと言いたかっただけなんだけど」
慌てる功成に首を振った。
「ううん。平気」
「そう」
ほっと息を吐いて、沙貴の代わりに窓を開けてくれる。その背を見上げて、それから沙貴は玄関の方角をそっと眺めた。
居間から玄関へ、点々と赤い足形が続いている。
右足首がないから片方分だけ。血の足形は小さな水たまりのように光を反射して、赤い水面に床が透ける。玄関までまっすぐ続く水たまりは、しかし瞬いたらふっと消えた。
剥がして持って行った右足首は、どうするのだろうか。
カシャカシャと素早く切り替わる視界にまだ慣れず、沙貴はそんなことを考えていた。
その血の水たまりを思い出して、ゆっくり息を吐く。
夜の空気に溶けて行く。
「鱗が」
沙貴の声は乾いていた。
「鱗が残っていたとは思わなかった。ただの、コウのおこぼれが、まだくすぶっているのだと思ってたの」
沙貴が話し始めると、背後からゆっくりとオレンジ色の灯りが近づいて来た。
車のライトは沙貴を照らし、そして功成を照らしてそのまま通り過ぎる。
功成の顔色は、真っ白だった。
「コウには話したこと無かったね。六年前、私、見聞きができなくなったでしょう」
手首に巻いた黒い布は破れ、見ることができなくなった。地の底からの声もいつのまにか聞こえなくなっていた。
あの終わりの日から続いた日々だ。
「でも、その時もね、完全に無くなったわけじゃないの。……パズルがパチンとはまるように。たまに、ごくごくたまに、カチッと、チャンネルが合うように」
うまく説明ができず、いつもの癖で両手を前に出そうとする。左腕が遅れた。
「……コウのおこぼれの力が、最後の煙を……火が消えて最後に煙がくゆるように、少しだけ残ってくすぶっているように。時々、ちらりと見えてしまうことがあったの」
パズルが偶然にもパチリと合うように。
消えた線香の匂いがふっと香るように。
「ふと目の前を横切る影。視界の隅で動く肉の塊。カーテンが揺れた一瞬、その隙間に見える眼球」
右から左へ、ぱっと走り抜ける何かがいる。
追って視線を流すけれど、その後ろ姿を見ることができない。
すれ違った大きな靄も、気になって振り返ると何もない。
見逃すまいと目を凝らしても何も見えない。凝らせば凝らすだけ、見たいものは遠ざかって行く感覚だった。
「誰にも話せなかった。もちろんコウにも。……あの頃、コウと私、話すことができなくなってたもんね。部屋からあまり出てこないコウと、見えなくなった私と」
見間違いだと思うことが多くなった。
勘違いだと自分を慰めることが日々増えて行く。
そうでもしないと、大声で泣き出してしまいそうだったから。
「幼かった鞘子にも、あの時体調を崩していた栄美子さんにも、そして母さんにも。このことは誰にも言ってない。だからコウも知らなかったでしょう」
「……そんな」
色の失せた功成の唇が痙攣している。
「コウのおこぼれが、もうすぐ無くなるんだって思ってたの。あの頃」
沙貴の言う終わりの日→45~47話「終わりの日」あたりです
ちゃんとイチャイチャしますここらあたりから
もう大人ですのでね




