163.空蝉20 きみに夢中
前話「空蝉19」をだいぶ直しました。申し訳ないです。
改めて始める一人暮らしの新居は、以前住んでいた場所とほぼ同じ住所に決めた。通学先は少し遠いが安いアパートの多い土地でもあり、そのせいで学生も多い。なにより、土地勘があり慣れた場所であることが、身体機能が落ちた今の自分にはもっとも安心できる要因だった。
杖はもう手放す。やはり一度に引っ越しは無理なので、徐々に荷物を運び込むことにした。大量の本、少しの服、そして真咲が保管してくれていた、以前の一人暮らし時に使用していた少しの家具。それらをリハビリ感覚で可能なかぎり持ち運び、杖無しで歩くことにした。無理なものは業者を頼み、亀の歩みよりもゆっくりと準備して行くつもりだった。引っ越し完了までには三か月はかかってしまうだろうと予想するが、それでもいい、リハビリだし。一人暮らしのための体力向上にちょうどいい。再編入は半期後、論文提出もあるしのんびり行こう。
なんて、のん気に思っていた。その時は。
すぐに功成にばれた。
彼は激怒した。
相 談もなく勝手に部屋を決めたと青筋を立てて文句を言い、なぜひとりで生活しようとするのかとまくし立て、
「ていうか、一緒に住むから」
と真顔で宣言した。
「……は?なんで?」
「なんでってそれこそ何がなんでなんだよ」
「どんな横暴よ一人暮らし用の部屋なのに」
「いやどっちが横暴だよ分からず屋」
「ええ!?分からず屋ってどう見てもあんたじゃない!」
「はあ?どう考えてもそっちだろ!」
額がぶつかるほどの距離で言い合う。
「いやいやいや!冷静に考えておかしいから!」
「僕はいつだって冷静だ!」
「どこが!?」
本気の大喧嘩だった。
真咲や沙貴の叔母で功成の祖母である史子、住職まで巻き込んでたいそう派手な騒ぎになり、「お兄ちゃまと沙貴ちゃん、こんなにガチ喧嘩したのって初めてじゃない?」と鞘子が舞台鑑賞をしているように目を輝かせてひとり楽しんでいた。「どっちも折れないよねこれ」とも言っていた。
結局疲れ果てて喧嘩は終わった。もちろんふたりとも折れてはいない。
黒目を吊り上げて憤っていた功成は、しかし引っ越し準備初日にはピッタリついて来て、沙貴の背負っていた荷物をすべて持ってくれた。本が四冊、小さなポットとマグカップひとつ。
「見慣れ過ぎた景色で新鮮味がない」とは、最寄り駅を降りた功成の第一声だった。沙貴も激しく同意した。
以前住んでいた街はまったく変わっていなかった。
「引っ越しのわくわく感はないわねこれ」「同感」と言葉を交わして、地図も見ずに歩き出す。
「あんたを駅まで迎えにきて、あそこのコロッケ買って、一緒に食べながらうちに帰ったよね。口も手もべたべたにして」
「懐かしいな、沙貴ちゃんよく口回り汚してた」
「あんたがね。私はべたべたのお口を拭く役。記憶の改ざんがすごい」
「あ、沙貴ちゃんがよく売れ残りの固い肉を半額で買ってた肉屋」
「あんたがよく立ち止まって中を覗いていた理容店もそのまま。ほら」
「剃刀持つ老店主の手がいつも震えていてさ、見るたびドキドキするんだ。一種のエンタメだよねこの理容店の窓。……え」
「店主も代替わりせずにまさかの現役……」
「嘘だろ」
顔を見合わせて吹き出す。
大喧嘩以来の笑顔だった。
幼い功成と、手をつないで沙貴の部屋まで歩いた道。
栄美子の迎えの電話が鳴り、帰りたくないとぐずる功成をなだめながら駅まで歩いた道。
その道を、新居へ向かってゆっくり、とてもゆっくりと歩く。
背が伸びた功成と、沙貴で。
そして、沙貴の決めた新しいアパートの部屋に入った瞬間、
「クローゼットの壁に貼りついてる男がいる。血まみれだ」
と功成は言った。
そこから日々繰り返し繰り返し、沙貴のリハビリのはずが功成の散歩のような荷運びの期間が続いた。本数冊。台に置く小さな鏡。フライパンひとつ。追加のマグカップと、小皿。史子がなぜか持たせてくれた二組の茶碗。真咲が珍しく新品で買ってくれたドライヤー。そんな、沙貴にとっては重いが功成にとっては小さな荷物を、毎回丁寧に沙貴から取り上げて一緒に歩いた。
恒彦が「俺の車で運んでやれば一発じゃね?」というのを断ったのは功成だ。哲也と鈴子の手伝いの申し出も断った。物見遊山でやって来たちづるなど一瞬で追い返した。
「病的なまでの独占欲だなマジで」
「普段は物わかり良い人間を演じているけど素はこういう男なのよ。わたしは見抜いてたわ」
「お、オレ、小さい頃の功成くん知ってるけど、ここまでじゃなかったような……オレ、さ、沙貴さんが目覚めて以降まだ向かい合って五分も言葉を交わしていない……」
「あ、あたし沙貴さんの手伝いしたいって言っただけなのに!功成くんが邪魔して沙貴さんとゆっくり話できない!功成くんの意地悪!」
恒彦、ちづる、哲也に鈴子がわいわい訴えるのを無視して、功成は沙貴の隣にいる。
沙貴の実家と新居、沙貴が行き来するのに合わせて、隣に必ず荷を持つ功成がいる。
ひとりではやらない。
沙貴が運ぼうとする時だけ来て、沙貴の荷物を持ち、隣を歩く。
沙貴の歩く速度に合わせて。ひとりで運んだ方が、よほど早く終わっただろうに。
結局、持てる荷物をすべて運び終えるまで、やはり目測通りの三か月が過ぎていた。
その後最後の検査入院が決まり、沙貴はなんとなく新居の鍵を功成に預けた。
「リハビリの進捗状況と最後の全身機能の検査、脳波と内臓も。あと今後の通院計画も出るし。数日かかるから、コウ持ってて」
その瞬間の功成の表情を、沙貴は今後生きている限り忘れないと思う。
黒目がきゅっと細まった直後、一気に見開く。
狭い額と白い頬が緩んでほころび、薄い唇が溶けた。
「沙貴ちゃん」
遠い夏の夜や遠い秋の昼、遠い春の肌寒い朝や遠い冬の痺れるような寒さ迫る夕焼けの中で、もっと小さな背丈で自分を見上げて、小さな足で必死に背伸びして、「沙貴ちゃん」と笑っていたあの顔を思い出した。
沙貴の体の奥に、嵐が起こったようだった。
「預けただけです」
「沙貴ちゃん、いっしょに」
「暮らさないです」
「でもこれコピーしてもいいってことじゃ」
「犯罪です」
「でも嬉しい。めちゃくちゃ嬉しい」
「そりゃよかった」
「だからコピー」
「犯罪です」
喧嘩した後わずかに残っていたわだかまりも完全に消えた瞬間だったと思う、沙貴としては。
鈴子からは、「沙貴さんが引っ越し決めて以来長い間むっつり不機嫌だった功成くんが、この世の春が来たような穏やかな顔してます。変わり身すごいです。おかげで、哲也さんが頼みを聞いてもらえそうだと喜んでます。変化の理由はわかりませんが原因は沙貴さんでしょうね、ありがとうございます!」とメッセージが来た。笑ってしまう。
いい友達だ。
鈴子に恒彦。功成に会うべくして会ったのだろうと思う。哲也もちづるも。
結局、哲也の頼み事を、穏やか人間に変身した功成は聞いたようだ。
沙貴が検査入院をしている間に、功成は哲也や恒彦とともに哲也の取り組んでいる「異能探し」に関わる人物と会った。鈴子もそれに加わり、しかし一体何があったのか、後日沙貴に「功成くんには内緒で」と極秘の依頼が来た。
「功成くんには絶対に秘密で、外に出て来てもらえませんか」と鈴子に哲也、そして送迎まで恒彦がすると頼まれては断る理由もない。
あの古い喫茶店がおしゃれなカフェに変わっているという情報だけでもうきうきするのだ。病院に許可を取り、恒彦に迎えに来てもらって、沙貴はカフェに向かった。
そこで、あの女性に会ったのだ。
空蝉の人に。




