164.空蝉21 きみに夢中
空蝉の人は、あっさりと去って行った。じゃあねえ、とひとこと残して至極あっさりと。
現れた時も突然カフェの入り口に立っていて、「どうもー」と哲也に向かって手を振ったらしい。
孫のためのいい男探しと言いつつ、孫の顔とスタイルを自慢するだけ自慢して、そしてその孫を褒められるとにっこりと上機嫌になって、好き放題しゃべり尽くして去った。
氷で薄くなったアイスティーよりもあっさりしていた。
愛情深く情深く、娘を愛し孫に甘くおしゃべりで気が強くて、そして勇敢で豪胆な人だった。
じゃあねえ、と病院で眠る体に帰って行ったのだろう。
そのまま永遠の眠りに…………とわかってはいるが、どうしても、天の境か地の底かどこかわからない場所で、ヘビを掴んでぎゃんぎゃんと騒ぎ笑う姿しか想像できなかった。
まさしく、あくがる体は蝉の抜け殻のように儚い。
しかしその魂の中身は蝉の鳴き声のような、生命力に満ちた人だった。
そして彼女のいた夜は終わり、続きだけが残った。
「本当に……ゆいなさん、帰っちゃった……」
泣き止まない鈴子に哲也は横でオロオロとし、恒彦はそれを横目に「あ、俺仕事の時間だ」とあくびして立ち上がる。カフェの閉店の時間だった。
「行くついでに送ってやるぜ沙貴さん。病院?実家?新しいアパート?」
「ありが」
「結構です先輩」
「お前が断んの?」
呆れる恒彦に被せるように鈴子が鼻をすすりながら言った。
「ち、違うもん、ぐずっ、さ、沙貴さんは外泊届出してますよね、あ、あたしと一緒にちづるさんの家にお泊りするんだもん、ぐずっ、ね、沙貴さん」
「いいの?じゃあ」
「結構です鈴子さん」
「ちょ、コウ、私の意思は?」
「行こう、沙貴ちゃん」
功成くんの意地悪!と泣きながら叫ぶ鈴子を無視しして、功成は沙貴をカフェから連れ出した。
「す、鈴子ちゃん、いまの功成くんはちょ、ちょっとピリピリしてるから」
「放っておこうぜ。下手に近寄ると巻き込まれる」
「あんな意地悪功成くんなんか、さ、沙貴さんにフラれちゃえばいいのにっ」
「すすす鈴子ちゃん、しっ」
「聞こえてなさそうでよかったな、聞こえてたら後で嫌がらせされまくりだぞ」
「しっかり聞こえてますけど?」
功成の去り際の一声に、ひええと鈴子と哲也が小さな叫び声を上げる。
ちゃんと話し合え、お前らはとにかくちゃんと話せ。
功成の背中にかけられた恒彦の言葉は、夜に沈む街灯に当たって跳ねかえって消えた。
そうして、沙貴は功成と並んで歩いている。
「……鍵を預けてからとてもご機嫌だって聞いてたけど、今はずいぶん不機嫌ね」
「……」
オレンジの反射する灯りのぼやけた夜道。功成が荷を持ち、沙貴と話しながら、三か月何度も何度も通った新居への道だ。
シャッターの下りた商店街も人のいない交差点も、別世界のようだった。
あのクローゼットの血だらけの男が見えていたのか。
功成の質問に答えず、沙貴は暗闇に声を落とした。
「空蝉という言葉を考えるとね」
「……うん」
「私、あくがる力、空蝉の力のことも一緒に考えてしまうのだけど」
「うん」
歩く速度は以前と比べようもない。
肌寒い空気を大きく吸って上がる息を整える。
ゆっくり、長い足をおおげさなほどゆっくりと動かす功成を見る。いや、見上げる。
白い締まった頬の向こう側に、細い月の穏やかな夜が広がっていた。
沙貴が杖を手放して歩くようになって、気付くと功成はいつも自分の左隣にいるようになった。
動かしづらい左腕の代わりをしようとしているのだろうか。
緩慢な一歩に息遣いを合わせ、沙貴は考え考え話した。
「空蝉はさ。蝉の抜け殻は儚い、儚い現世、この世に生きる人間のこと。変わらないものなどない、常に移ろうもののこと。……変わって行く物事のことだと思うのだけど」
かつて小走りで後ろをくっついて来た小さな靴は、今はもうない。沙貴のものよりひと回り以上大きい靴は歩幅を調整し、ゆっくりと歩く。
「その空蝉を歌に使う理由には、きっと『恐怖』もあるんだろうね。儚い命や消える言葉が怖い。移ろう心や変わり続ける体が怖い。すべて永遠に変わらなければいいのに。でも変わってしまう、物事も人も、その心も。現代人であれ古代人であれ、結局のところ考え方の根本は同じ、移り変わるものが悲しく怖い」
沙貴の前方、星のないぼやけた夜空に、うっすらと飛行機雲が見えた。
「だからいくつも空蝉の歌があると思うの。空蝉の、世は常なしと、知るものを。空蝉の、命を長く、ありこそと」
空蝉の、世は常なしと、知るものを。
知ってはいるけども。でも。でも。
空蝉の、命を長く、ありこそと。
ずっと長く、変わらず長く続いて欲しい。けれども、でも。
「……」
「変わらないものなんて、この世にはないのにね」
功成は変わった。
沙貴はことあるごとに、今歩いているこの瞬間にも、その事実に唐突に気付かされる。
そして思うのだ。
ああ、自分も変わってしまったと。
「……だからずっと『変わらない』姿で、『望んだままの』姿で、自由に出歩ける空蝉の力が生まれたんだろうなって思う。愛する人のヘビを奪ってやりたい気持ちから剥奪の力が生まれたように」
「……変わるのが怖いから、夢に逃げるってこと?」
耳を傾ける功成の質問に、沙貴は少し考えて首を振った。
「それもあるけど、たぶんそれだけじゃない、と思う。でも私にはこれ以上はわからない。だって、剥奪の力も、そしてあくがる……空蝉の力も、私にはないから」
「……」
変わることはとても怖い。
体は変わる。心も変わる。
自分も変わる。現時点での私のままではいられない。例え、愛する人への愛情は変わらなかったとしても、自分の外見は変わる。年齢も、考え方や生き方も、必ず変わってしまう。
彼が愛してくれた現在の私は、必ず変わってしまう。
今が頂点ならばなおさらだ。
あの時が頂点ならば、なおさらだ。
「空蝉の、命を長くありこそと。……儚く変わり続ける自分のすべてが、ここで止まりますように。この最高点で止まりますように。少しでも長く続きますように」
だから祈りながら、私は体を抜け出す。
ここに留まり、変わらない姿になってみせよう。
「変わって行く自分から抜け出して、そんな留めた姿のまま自由に出歩いて、笑って、話して、愛を語るなんて。他人から見れば夢のまた夢、馬鹿馬鹿しいおとぎ話のようなことかもしれないけど、でも、できてしまう」
空蝉のヘビに巻かれた人はできてしまう。
見える人は、できてしまうのだ。




