162.空蝉19 きみに夢中
ようやく沙貴目線
車椅子生活を脱したのはもうだいぶ前のことだ。
目覚めた後の外出は常に車椅子だったが、徐々に杖を覚えた。天候と相談しながらも杖での歩行を鍛え、自分の体に合った専用の相棒が出来てからは車椅子の出番も激減した。すでに目標は、手に馴染んだこの相棒杖を手放すことに変わった。そしてもうそろそろそれも叶う。
最初は戸惑った動かしづらい左半身にも随分慣れた。鬼の形相でこなす姿を修行僧のようだと感嘆されたリハビリは、現在も絶賛継続中である。主治医も苦笑いするほどのスピードで、日々回復への道を辿っている。
完治は無理だろうとは、自分でも分かっていた。
かつて無理矢理に巻き付けた長いヘビは、確実に沙貴の体の機能を奪って行った。
それはもう仕方のないことだと諦めている。もとは自分から望んだことだ。
ゆっくり、長い足をやたらとゆっくりと動かす隣の男を睨む。
「そりゃね。そりゃ、泣きたいほど辛いリハビリも頑張るってもんよ。杖で歩くのもそうだけど、何よりもう二度と車椅子はごめんだし」
「そんなに車椅子が嫌だった?」
小首を傾げた黒髪を横目で見る。いや、見上げる。
「車椅子が嫌なんじゃないの。車椅子だと、なんやかんや理由をつけて四六時中ぴったり後ろにへばりついて来る男がいるから嫌なの」
「誰のこと?」
「誰だろうね」
気軽なやり取りの中に、ふと微妙な沈黙が落ちた。落ち着いた風情のその頬に、若干の緊張が浮かんでいることに気づくのは自分だけだろう。
低く澄んだ夜空が広がっていた。
街路樹の枝が風で膨らんでいる。街灯が透明な空気の層に混じって朱色に乱反射した。
首の隙間に入る冷たい風を目で追いながら、沙貴はぼんやりと考える。
「空蝉」
「ウツセミ?」
功成は聞き逃さなかったらしい。訝しげに眉を下げると沙貴の呟きを追った。
「さっきの話?」
仕方なく沙貴は短く告げる。
「空蝉。この世に生きている人間。魂の抜け殻。……変わりゆくもの」
言ったあとに笑って誤魔化す。
「別に。今論文をまとめているから、ふいに思い浮かんだだけ」
「ああ。沙貴ちゃん、再編入でこれから忙しくなるね」
「うん」
逸れた話題にほっとした。
目覚めた日から、時間はゆっくりとしかし確実に過ぎている。
目を開けたら生命力漲る春が来ていた。そして季節はくるりくるりと変わる。
退院後にリハビリを開始するため、実家に戻り母の真咲に世話になった。真咲はいつもの調子で猫目をたわませ、
「別にいいけど、私はあまり役に立たないと思うわよ?夜間学校もあるし、放浪癖のついた史子さんと一緒に旅行尽くしの計画もあるし。ま、それでいいなら、結構な年の娘だけどいつまでも家に置いてやるわよ」
と言った。その言葉にどれだけ救われたか、沙貴は言い表すことすらできない。
そして「まだ目標は途中でしょ。院、一度入ったなら必ず卒業しなさいよ」とも言った。真咲の一言一言が、沙貴の視界の先を照らし心を踏ん張らせてくれたのだ。
ようやくここまで辿り着いたと思う。
日常生活をひとりでこなせるようになり、職種は限定されるがバイトで何とか収入も得られるようになった。院への再編入までこぎつけ、実家を出て改めてひとり暮らしすることが決まった。ようやくだ。
おとぎ話や童話はいい。
めでたしめでたしで終わることができるから。
沙貴はこのごろ、よくそう考える。そして頭を掠める思いを強く噛み締める。
生活は、めでたしでは終わらない。めでたしのその後が容赦なく始まる。確かな重みを伴って続きの扉は開く。
おとぎ話ではないから、人生は続く。
冷酷だけれど、続くのだ。
「鈴子ちゃん、卒業しても制服着てるのね」
「あれは哲也さんのリクエストだって」
「え。……大丈夫?通報する?」
「僕たちが何言ってもダメだったんだ。哲也さんに関するフィルターがおかしい」
「鞘子が沼男って言ってたもんね」
小さく笑うと、功成のシャツの襟がわずかに揺れた。
風が伸びた髪の先を遊ばせる。狭い額を一瞬だけ見せて吹き去った。
「……結局、なんにも手伝わせてくれなかったね」
不機嫌に目を伏せて功成は呟く。
「何言ってるの。引っ越しの荷物、ほとんど運んだのはコウじゃない」
「それだけ。それだけだね、荷物運んだだけ」
「それで充分。助けてもらってばかりよ」
「それで?その後は?この後の、生活は?」
怒りを徐々に帯びて行く声に首を振って、沙貴はもう幾度も訴えたはずの言葉をゆっくりと告げた。
「コウ。私は、自分でやれることはやって行こうと決めたの」
「そうまでして手助けを断る理由はなんだよ。ひとりじゃ照明器具も取り付けられないくせに」
「それは」
沙貴はわざとらしい挑発に乗らないよう、静かに息を吐く。
「それは、コウ。あんたや、ヒコちゃんに改めてお願いすればいいことでしょう」
「……いつも一緒にいれば、わざわざ先輩にお願いする必要もない」
「コウ」
「僕も引っ越す。沙貴ちゃんと住む」
計算なのか幼げに言う功成に、ため息が出た。
「住まない。もう何度も断ってるでしょう」
「学生同士だから?別にいいだろ、僕も収入があるし」
「すごく稼いでるって鞘子に聞いたんだけど、何やってるの?……もしかして怪しい商売を」
「そんなわけないだろ。あと話逸らさないで」
「……栄美子さんがまだあんな状態なのに、コウが家を出ていいわけない」
「住職がいいって言ってるんだ。むしろ逃がすな早くしろって言われてる」
わけのわからないことを言い出す功成にため息が止まらない。
功成は父親を住職と呼ぶようになった。
そして母親の栄美子について、何も言わなくなった。
あんなによく笑い朗らかだった彼女は、心身を病み長く入院した。沙貴が目覚めると同時期にわずかに回復し、最近ようやく退院のめどが立ったほどだ。鞘子とともに、功成も心を砕いて寄り添っている。多忙な住職に代わりよく病院へ通い、そして見守っている。それは確かだ。しかし、彼女の話題が出ると功成はそれを不自然なほど避けるようになった。
なにか、自分の母親に対して思うことが……考えることがあるのだろう。
それは沙貴が追求することではない。
問題は、今目の前にいる彼の、じりじりと迫ってくるような不機嫌さだった。
ここ最近ずっと穏やかだったのに、あのカフェを出て並んで歩く今の彼は、別人のような怒りを湛えた表情をしている。
「コウ。私は、一緒に暮らさない。お願いだから分かって」
「嫌だ」
「コウ」
「嫌だ」
二の句を許さない口振りに口を噤んだ沙貴に向かって、功成は冷めた目をした。
「どうしてそこまで僕に頼るのを嫌がるの?僕が、一緒に暮らすからには卒業したら家業を継がずに就職するって言ったから?」
「それはそれで別の問題だけど」
こう聞いた時は確かに焦った。寺の後継ぎがいなくなるのではと危惧したのだ。
しかし慌てて電話した先では、「あー大丈夫大丈夫。気にしないで沙貴ちゃん。むしろ後継ぎ候補のライバルがいなくなって有利になったし」というはしゃいだ声の鞘子がいて力が抜けた。
「お兄ちゃまの就職大賛成!あとはー、センセが教師を辞めてくれるかどうか……うーん、難しいかあ」
などとぶつぶつ言っていた。最近は珍しく自分から言い出して料理教室や裁縫教室に通っているらしい。謎の変化が実に理解しがたい。鞘子は何年たっても変わらない、周囲を振り回す鞘子のままだ。
「じゃあどうして一緒に暮らすのが駄目なんだよ。また年の差がどうとか言うの?」
「……それとは別に、あまり年齢のことは言わないでよ。自分でもまだ抜け落ちた年数と実年齢の違和感に恐怖するんだから」
「じゃあ僕が毎日どこで何してるか電話やメールで聞くから?」
「それは今じゃなくて十年以上も前から苦情として申し立てしておりますが」
「僕が沙貴ちゃん沙貴ちゃんうるさいから?」
「大昔から変わらずね」
「分かった。僕が、沙貴ちゃんの新しい部屋に入った瞬間に、『クローゼットの壁に貼り付いた血まみれの男性がいる』って言ったから?」
「それは……私じゃなくても誰でもすごく嫌だと思う……」
額を押さえた沙貴に、功成は肩を竦めた。
「あれはもう大丈夫だよ。目を合わせたら自分から剥がれてどこか歩いて行った。もう部屋にはいないよ」
壁にべったり貼りつく男。
壁から離れ、血にまみれたまま、部屋を出て行った。
「……」
「ねえ、沙貴ちゃん」
そして功成は、なんでもないことのように言った。
「見えてたの?沙貴ちゃん」
でもその声は細かく震えていた。




