156.空蝉13 あなたに夢中
母は自分の母の姿にショックを受けて、倒れそうになっていた。
ゆいなは母を支えながら、それでもその恐ろしい姿から目が離せなかった。
自分を見つめる骸骨の潰れた目が、震える唇が、掠れた声が、あり得ないほど優しかったから。
「かわいい。かわいいわね。なんてかわいいの、わたしの、わたしの」
わたしの孫。
ゆいな。
骸骨の声を今でもよく覚えている。
見えないはずなのに、皺の寄った皮膚で覆われた目がたわんだのを覚えている。
真っ黒な痣が顔の縦横に隙間なく沈殿している、その痣が痙攣したのを覚えている。
「わたしの愛する娘が、こんな、こんなかわいい子を産んだの。なんてかわいい、顔も体も何もかもかわいい、ああ、こんなかわいい子はこの世に他にいないだろう」
かわいいゆいな。
かわいい、かわいい。ああ、
あなたは愛だけが詰まったいれもの。
愛しかそこにない美しいいれもの。
「祖母は、骨だけの真っ黒な手首を伸ばして言った。泣きながら」
ごめんねえ、ゆいな。
わたし、力があまり残っていないのだよ。
ある時相談に来た女性がね、あまりにも衰え疲れてかわいそうで、わたし、どうしても見捨てることができなくて、二度目の力を使ってしまったのだよ。
「……ま、まさか」
哲也が信じられないと目を見張る。
そう。
祖母は本物の、最強の、悩める人々を救うことのできる巫女で、イタコだった。
「祖母は二度目の剥奪の力を使っていた。訪ねてきた女性からヘビを剥ぎ取った」
女性に巻き付いていたのは先見のヘビだったらしい。
だから剥奪のヘビに見聞きのヘビ、そして先見のヘビの三匹が、祖母の体を締め付けることになった。
元々の自分のヘビ「剥奪」、赤子から奪った「見聞き」、相談者の「先見」。
巫女イタコとして名を馳せたのも当然だった。見聞きに先見まで揃っていたのだから。
「……三……匹」
呆然とする周囲を見回して、ゆいなは考え考え話す。
「先見の力。それが、あたしやお母さんが祖母に会えた理由だと思う」
本当なら、お母さんの住所やあたしの存在なんてわからないはずだよね、と続ける。
「おそらく先見のヘビのおかげで、祖母は、お母さんの住んでる場所やあたしが生まれていることがわかったんだと思う。いや、なんて言うのかな。ここに手紙を出せば、ここらあたりにこの内容の手紙を送れば、お母さんとあたしが自分に会いに来るっていうのがわかっていたのだと思う」
ねえ、みんなは知ってる?とゆいなは問う。
「先見。先見の明という力の、本当の意味を」
先見の力。先見の明。
「先見ってね、勘がいいとか結果が先にわかるとか、まるで予知みたいに言われることが多いのだけどね。ほら、あいつは先見の明があるとか言うじゃない?でも、それだけじゃないのよねえ。『こうすれば、結果はこうなるのではないかしら』という、導きの意味もあると思うの」
「導き?」
「うん。導き」
周りを、自分以外を、思う結果に向けて『導き動かす』力。
こうすればきっと、「周りもこうして動いてくれる」だろうから、きっと結果はこうなる。
それはよくある「予想」とは少し違う。その、「相手がこう動く」読みが絶対に外れない。
まるで自分が導く通りに相手が動くような力。
相手を思うままに「動かしている」ような力。
それが先見の明、先見の力。
つまり導き。つまり、
操り。
「……」
「……」
何か考えているのか、全員が沈黙した。
「……あ、ごめんごめん。話それちゃった」
しかしもう時間だし、そこまでゆっくりできないし。ゆいなは静寂を振り払うように手のひらを交互に回す。
「先見の力についてはここまでにしておいて。ねえ、それで、祖母の続きだよ。続きしよう。祖母はあたしに謝った後、泣きながらお母さんを見たの。見えない目で」
祖母は見えない目で母を見た。
わたしの娘。命より大事。わたしの大事な赤子、よく大きくなったものだね。誇らしい。
「そうして祖母は言った。……娘よ、あなたの気持ちがよくわかる。あなたの宝物は、わたしの宝物」
だから。
宝物を傷つけるものどもは、わたしが成敗してやろう。
死者も鬼も呪いをも恐れぬこのばばが、この地獄の爪で、醜悪なものどもを引き裂いて
丸呑みにしてくれるわ。
切り刻んで引きずり倒し、内臓をぶちまけて地の底の門に吊り下げてやろう。
祖母は、ゆいなに向かって腕を伸ばした。
おとぎ話に出てくる本物の鬼婆のようだった。
こびりついた血の固まりがまぶたの皮膚を覆って、鼻は曲がり痣に埋もれていた。
「唇は片方が破れていて、まるで本当に裂けているかのようだった。黒髪がべったりと顔の端にくっついて、喉は真っ黒。こちらに伸びた手首の先には、爪のない指があってね。獣のように五本指が内側に曲がって、真に地獄の番人のような迫力だった」
こちらに伸びた骨だけの指は、ゆいなの胸に触れる直前でぴたりと止まった。
何かをぐっと掴むと、中身は骨しかないと思っていた指の先から血が噴き出した。
離すものか、離すものか。これを剥がし奪うまで、決して離してなるものか。
言葉の出ないゆいなの前で、この世のものとは思えない恐ろしい形相の老婆が、何かを掴んだまま末期の叫びを上げた。
死者がなんだ。鬼がなんだ、呪いがなんだ。
呪いがなんだ!
「呪いがなんだあ!」
愛に、愛に勝てるものが、この世にあるのか!!
「……えいやあああああっ」
ゆいなの耳の奥で、ぱりっと小さな音がした。
剥がしたものは祖母の体に一瞬で巻き付いた。ようだった。
祖母は四匹のヘビを背負って、こと切れる直前、微かにまた謝った。
ごめんねえ、ゆいな、わたしのゆいな。
わたしの力が足りなくて、すこおしだけ、ほんのすこおしだけ鱗が残ってしまったようだ。
ゆいなの胸のあたりに、ほれ、鱗がきらきらと。
きらきらと残って光っておるね。
くそ、ヘビめ。とっさにゆいなの体に鱗だけ残したのか、なんと悪辣にして醜悪なものどもか。
この鬼ばば、最期に力負けしてしまった。
でも、だいじょうぶ、ゆいな。
大丈夫だよわたしのゆいな。
鱗だけだからねえ。かわいいかわいいゆいな、このヘビの本体は地獄の門へ縛り付けてくるからねえ。
口を噤んでいれば、誰にもわからないよ。鱗だけだものねえ。
口を噤んで目を閉じて、知らないふりをしておいで。そうしたら誰にも蔑まれずにすむ。
蔑まれずにすむから。
いま見たものは忘れるがいいよ。
目を閉じ耳を塞ぎ口を噤むのだよ。
ゆいな。
だいじょうぶ。
愛に勝るものなど、
この世の果てのいかにある。
「ああああああああああ」
咆哮のような泣き声は横にいた母だった。
「お母さんは、そこで初めて、自分の生まれた時のことを知ったの。生まれた直後、祖母に剥奪されたことを。あたしはお母さんが泣くのを初めて見た」
その後、母は長い時間をかけてゆっくりと、しかし自分の知るすべてを吐き出すように、ゆいなに「呪いの一族」のことを話してくれた。祖母の位牌は母とゆいなが持ち帰った。最後まで、ふたり以外誰も病室を訪れることはなかった。
ゆいなは知った。
そして自分に残された秘密も、その数年後に知った。




