142.元お山信仰3
お山を二分する裏道、その分岐点に立つ杉の大木の根元で老婆はふと目覚めた。
長く居眠りしていたのかもしれないが、一瞬かもしれない。だが、そのどちらでも構わなかった。
灰色の長いスカートを取り巻くように、白く透明なヘビが数本足元を這っていた。長い全身の頭の先と足の先、伸び切った人型の両端がひらりと舞う。
人はよく、怖いと言う。
死んだ後のことだ。
何が一番怖いのかと尋ねると、死んだ事実や自分の置かれた状況、残したものの大きさ、そんなものすべてが怖いが、何より自分という存在が忘れられるのが怖いとよく叫ぶ。
忘れられてしまえば自分はただの見えない空気の欠片でしかなく、それが怖くて不様にも桃の実になったりする。
老婆にはその感情がよく理解できないが、忘れられるというものがどういうことなのかは知っていた。
長くこのお山を見てきた。お山は少しずつ形を変えている。
大昔、ここはすべてが獣道だった。
人の侵入を拒み草木が支配する未開の土地だった記憶がある。
ところが、やがて人が踏破して山の奥深くに勝手に社を祀ったあたりから環境が変わった。どんな規則なのか気休めなのか、社を建ててしまえば人はもうその場を自由に占拠してよいことになっているらしい。
現在、お山は二分されている。老婆が立つこの分岐点の右は住宅地、左は木々の生い茂る獣道だ。
右側は人の住処で左側はそこから外れた者が通る場所、だったはずだ。
が、左側は徐々に右側に侵略され始めている。人が入り、重機が入り、あと数十年もすれば、左側はなかったことになるだろう。奥底にある鳥居も、いつかきっとなくなる。
忘れられるというのは、そういうことだ。
老婆がもう一度目を閉じようとした時、ふもとの方角からひとつの人影が現れた。
見慣れた人影はゆっくりと時間をかけ、杉の大木近くまで上って来る。
「……うん。うん、もうすぐ家」
よく知った若い男だった。
小さな板に向かって話しかけている。
ここ数年見なかった顔をしていた。つまり数年前までの、まだ幼さが残っていた頃の顔だ。何がおかしいのか笑っている。
「うん。……だからさあ。鞘子の家庭訪問に、なんで僕がいなきゃいけないのさ。僕は今日も病院でリハビリする沙貴ちゃんを真横で応援するっていう何よりも優先しなきゃいけない用事があって忙しいのに」
『……、……』
男が語り掛けるたびに、耳に当てた小さな板から小さな声が応える。
それを、まるで美しい旋律に酔うように、目も頬も緩ませて男は聞いていた。
「うん。……うん、まあ。家には、パ、父親だけだしね。ひとりでもおもてなしするって張り切っていたけど。仕事人間の住職にそれができるのかは……お母さんが入院されているという理由で訪問を延期することもできますって、担任本人から通達があったんだよ?それなのに鞘子が連れて来ちゃうって言うから……」
『……』
また板が何か言う。
男が、肩を揺らして笑う。
「あはは。僕におもてなしなんてできるかなあ。あの担任はちょっとね。うん?いや、別に。別に何があったわけじゃないよ、本当だよ。でもね、あのロリコ、じゃなくて、あの先生はなあ。いや別に何があったわけじゃないけど」
『……』
が、すぐに真顔になる。
「いや。それはいいよ。沙貴ちゃんが会う必要なんて一ミリもない。それはない。任せて、僕が最高のおもてなしをするから」
天の枝を揺らし風が吹く。風向きが変わったらしく、小さな板からの声が老婆の耳にも微かに届いた。
『住職からちょっと聞いたの。来年も担任になってもらわなきゃマズイんでしょう?鞘子、一体何がどうなってああなってるのよ。とにかくその先生におすがりして、無事なんとか進学……え、中学に進学できないとかあるの?いま気づいた、私の常識が六年分遅れておかしい?』
ああ。あれの声じゃあないか。
「内部進学をお断りされるかもしれないって。あれだけ寄付金積んでこの有様」
『寄付金積んで……鞘子は一体どんな小学生ライフを……?』
「聞きたい?」
『結構です。これ、あんたのせいでもあるよね?鞘子を好き勝手させて放置してたでしょ?』
「まさか!僕は日々たゆまぬ努力で鞘子を矯正させようと、口すっぱくなるまで注意してたよ!病院の方々からも常に僕が叱責されて、それでも必死に鞘子の無茶を制して」
『昨日夜に私の病室に来たわよ。大きなハープ持って』
「……」
あれの声じゃあないか。生きておる。生き汚い女め。
男が笑う。軽やかに笑う。
木々の梢が擦れ合い、風に巻き上げられて鳥声のように鳴った。
「あ、そうだ。……ううん、なんでもないよ」
男は思い出したように肩のバッグを探る。取り出した油揚げの袋を無造作に掴み、老婆の足元に放った。
『コウ、もう時間じゃない?早く家で準備を』
女の急かす声に、男が腕時計を見遣る。と、その目が、ふと老婆に注がれる。老婆は無言で見返すが、きらめく黒目はすぐに何もなかったかのごとく逸らされた。
「まだ大丈夫だよ。それより沙貴ちゃん、リハビリは僕がいなくても平気?」
『なんの問題もないわね。むしろ私も療法士さんもみんなあの常に放たれる圧がないから逆にはかどるわね』
「あの療法士、男だもんなあ……」
『それが何』
男の目線は老婆を一秒も捉えない。見えているはずなのに、決して視線を絡ませたりしない。
今だけではない、常にそうだった。
口では文句を言いながら、楽しくてたまらないという風に顔中で微笑む男を眺めながら、老婆はぼんやりと思い出していた。
昔、いつだったか、この男を分岐点の左側へと誘おうとしたことがある。
ただ単に老婆の気まぐれに過ぎなかったのだが、それを引き止めたのは板の中の声の女。あの女だ。
歴代の剣は、同じようで実はそれぞれ能力に差異がある。一様に「見える人」などと称されてはいるが、人としての器がそれぞれ違うように、不可思議にも個々の能力に特徴があるのだ。「目」が異様に優れていたり、逆に「耳」が退化していたり。「言霊」が際立って強い者もいるし、「先見の明」が強すぎて狂ってしまう者もいた。
その中でもこの男は、歴代にも類を見ない抜群の個性を持って生まれていた。
見聞きの力はごく普通。男の先々代などは人の理から溢れるほどの見聞きの力を有していて、それに比べると男は実に平凡だった。先見の明も普通、言霊は皆無。
それなのに、あくがる能力だけ異常なほど高い。
さらには、「それなりの器のある者に触れると、その者にも見聞きさせてしまう」という、歴々でも初めての能力まで持っていた。
なんという不気味で整合性のとれない剣。不均衡な見える人。中途半端で実に偏向した剛の剣だった。
そのせいか幼い頃などはあまりにも危うく、境界線が理解できていなかった。見えざる者たちと生きている人たちの区別も不安定で、夢と現実も曖昧であった。
それゆえ右側よりも左側に存在した方がふさわしくさえ思えた。だから誘ったのだが。
女はきりりと老婆を見据え、はっきりと断った。「私がいるから」と。
「……」
老婆は改めて、あの女の鋭い目を思い出した。
鞘のいない不安定な男を、ここに至るまで導いた女。
不均衡で不気味な剣は、女の守護のもと危うさを脱ぎ捨てて強固に生き抜いたのだ。
なんてことはない、ただの人。しかし気が強く無鉄砲で、老婆の前で仁王立ちして啖呵を切ったこともあった。
腰が引けるほど怖いはずなのに、対峙する時はいつも両の目で老婆とにらみ合った。震える声で冗談を言うこともあった。身の程知らずにもほどがあると呆れるくらい、幾度となく邂逅し声を交わした。
最後に会話した時もやはり、「ヘビを下さい」と命の青火を燃やしながら眼差しは強かった。
自分に注がれたその眼差しを思い出し、老婆は男の横顔を見た。
いや、男の耳元にある、板のその中……あの女の姿を見た。
「選べ」
両の手を握って前に差し出したのは、無意識だ。
明らかな気まぐれでもある。けれど、老婆にとっては珍しい気まぐれだ。
あの女を少しだけ気に入っている自分が不可解だった。
「どちらかひとつをやろう。右は鬼門、桃の木がある人界。左は申、人外界。右左を合わせると憑き物。さあ、選べ」
左を選べ。
いや、どちらを選んでも必ず左を選ばせることになる。
左を選んだ瞬間に、女はどうなるだろう。恐怖に発狂するだろうか。激怒するだろうか。
そうしたら、また自分と、正面で向き合い生意気で無鉄砲な眼差しで言葉を交わすだろうか。自分は嘲笑し、怯えさせ、飽かずに悪戯を繰り返したりちょっかいをかけたりするだろうか。
「どちらかひとつ、いいものをくれてやろう」
忘れられることが怖いのは、何も見えざる者だけではないのだ。
老婆は自分の感情を初めて知った。
「さあ選べ」
男は老婆に背を向け、板を握り直している。地を這う声で言葉を続けた。
「どちらかひとつを選べ」
「ねえ、沙貴ちゃん」
唐突に、男が不思議なくらい優しく笑った。
「婚約指輪なんだけどね」
女の訝し気な声がする。
『誰の?なんの話?』
「普通のダイヤじゃつまらないから、ピンクかイエローにしようかと」
『聞いてる?人の話』
「台はプラチナで。どっちがいい?」
小さなため息とともに、女のよく通る声が木立の枝を揺らした。
『どっちもいらない』
男は「あはは」と軽やかな笑い声を立てる。
そのまま老婆に背を向け、同じ歩調で、板を片手にゆっくりと右側の道を上って行った。




