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141.元お山信仰2



「このままでは、村はなくなるわ……」


 女の呟きが聞こえたのか、老婆の体がふと揺れた。


「おかしなものだ。目に見えぬものを見えぬと思い込むくせに、見えぬものを恐れ頼ろうとする。ヘビに巻かれて見えていただけなのに、見えなくなっても見えると言う」


 ……ヘビに巻かれて見えていただけなのに、見えなくなっても見えると言う?


「ばばさま、それはもしかして、ろく」


 ひとは、としわがれた声がぼんやり遮った。


「ひとはほんに小さい。小さな者が寄り集まってそれあっちだこっちだと、恐れたり敬ったり。お前らの飯粒ほどの一生など、本来歯牙にも掛けておらぬわ」


「ばばさま?」


 女は聞き取りにくい低い声音に耳を傾ける。


 その時。

 老婆は何かを思いついたように、不意に笑った。しわが横に広がって、口が裂けたように見えた。


「お前。海を越えたかの国に、サンシという虫がいるのを知っているか」


「さんし?」


「そう、サンシ。人が夜寝るとその腹から這い出て、天帝に悪事を告げ口すると言う。天帝がいかなるものかは存ぜぬが、この国にも似たような話があってな。ヘビに巻かれると、夜寝た後に自分の体から抜け出し好ましい姿に形を変え、自由に歩き回れるそうだ」


「……」


 女は、いつだったかまだ正常な頃のろく婆さまのことを思い出した。夢占の明け方には必ず、「小さな子の姿になって田畑を廻って来たぞ」と誇らしげに微笑んだと言う。


「そんなこと、あるのですか」


「あるよ。この国では、あくがる、とも言われるが」


「あく……がる?」


「それとは別に、未だ生まれぬ赤子が母の腹から這い出して、おのれの具合を語ることもある。生まれる前の赤子は、わしらにかなり近いからな」


 わしら?


 だとしたら、この腹の子も、……生まれなかったこのかわいそうな子も、この腹から抜け出して、もう自分は生まれないだろうと先に報告したのだろうか。

 その報告の相手が「何か」は考えるのも恐ろしい気がして、女は黙って老婆を見つめた。


「さらにもっと言うと……まあ、これは、ひとではない者の類に入るが。人であり人でない、憑き物にごく近い者は」


「憑き物?」


「ああ。そういう者は、おのれがまだ生まれる前、母の腹に入るより前、つまり腹の中にすらいない時にでも、外へ出て来ることができる。これは伝え話の範疇で、お前らひとには関しない話だがな」


「……それは……どういう」


 混乱しながら、女はふと見上げた老婆の輪郭が揺らいでいるのに戸惑った。

 闇に目が慣れ、老婆の姿もはっきりと見えるはずなのに、時間が経つにつれ肩や腰の線、しわの深い頬や顎、それらが段々と不明瞭な色になっている。


 そこで初めて、首筋にぞっと悪寒が走った。


「あの、ばばさまは」



「いいものをやろう」



 老婆は急に優しい口調になり、ごつごつした両の手を握って女の前に差し出した。

 そして目の前のふたつの手の甲を見つめる女に、ゆっくりとささやく。

 なぜか女の体は凍り、視界が曇って頭に霞がかかった。


「右は鬼門。左は申。その左右を結ぶ線は霊道。見えざる者は鬼門より入り、結ぶ線を通って申より出る。鬼門から見えざる者が入って来ないよう、清浄のために鬼門前に桃の木を置くと言うが、それは愚かなひとどもの笑ってしまうような間違い。桃の木が闇を払うものか。鬼門の桃の木は、鬼門より入った見えざる者たちが立ち止まり溜まって、桃の実になって木に生っただけだ。見えざる者はもともと人であるから、右の鬼門は人界に近い」


 逆に、と老婆の口の端が心底おかしそうに歪む。


「逆に左の申は見えざる者が最後に出て行く場所であるから、人外界に近い」


 右の鬼門は桃の木がある人界。

 左の申は見えざる者が最後に出て行く場所で人外界。

 左右を結ぶ線を霊道。


「この右左、ふたつを合わせると先ほど教えた『憑き物』になる」



 右の人界、左の人外界、合わせると憑き物。



「選べ」



 どちらかをやろう、と老婆は両手を差し出す。どちらかだけだ、と地を這うようなささやき声で微笑んだ。


「右か左、どちらかをやろう。好きな方を選べ」


「……」


 女は魅入られたように左右をじっと見つめ、老婆から見て右、鬼門の右手を指した。


「こちら、を」


 途端、にやあっと毛塗れの口が広がる。


「そうかそうか。左を選ぶか。なんと幸甚かの、左の人外界の申か」


 え、違うわ。

 女は声に出そうとしてなぜか喉がつまった。自分から見て左右を判断するなんて、聞いてないわ……。


「幸甚だ、剣の力よ」


 老婆の輪郭はすでに横に大きく膨らみ、不確かな線が毛並みとなって揺らいでいる。声は不気味に狂喜して底意地悪く弾んでいた。


「左の申は剣。闇を切り裂く一閃、視界が明るんで右側の桃の木もよおく見えることだろうよ」


 右手は鞘、ただの人だったのだとくつくつ笑う。


「良かったことだ。これで村も救われる。随分と栄えるだろうよ、国の基盤に根付くくらいはな。頭を垂れて望外の幸を喜べ」


「っ」


 女の腹が急に痛み出した。前屈みになって苦痛に耐える女の耳に、戸口を出て行く老婆の毛が触った。

 房になった尻尾のようだった。


「感謝しろ。お前は村の終わりが心配だったのであろう。あのにせものの玉など比べものにならんほどの本物の力だぞ。剣だ。この村、ひいては国全体が栄華を極め、お前は最初の剣を産んだおんながみになろう」


 産む?わたしが?……剣を?


「名は……そうだな。すべての始まりである阿、そして玉石の中でもっとも美しいたま、玖。それに似た者。阿玖似。あぐにはどうかの。始まりの玖だ」


「あ、ぐに」


 女は散らばったわらの上に倒れ込んだ。


 わたし、左を選んでいないわ。

 しかしそれどころではない。一人目の記憶がまざまざと甦るような腹の痛み。


「右は人界の鞘、左は人外の剣。左を選んだお前に、最初の剣を授ける。右を選べばただ人の子であったが、左は闇一閃の剣。剣子の誕生を祝うぞ。……子そのものは、これを幸甚であるとは思わないかもしれないが」


 老婆、ではないものの最後の言葉は、真冬の風に紛れ、その忌まわしさだけが鮮やかに夜空に舞った。




 そのいっとき後、女は赤子を産んだ。

 赤子は女で、生まれ落ちた瞬間より全身を黒い痣で覆われた。






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