140.元お山信仰
*わずかですが出産に関するセンシティブな表現があります。ご注意ください。
お山から、何かがひたひたと下りて来る夢を見た。
目を覚ました女は突き刺すような寒さに首を擦る。それから起き上がり、喉の乾きに戸惑って土間に下りた。
女にとって、身ごもるのは二度目だ。
ひとり目は男の子で、今はもう伝い歩きをしながら稚拙な言葉を繰り返している。えらの張った顎も、太い指も、働き者の夫によく似て愛おしい。難産だったが、そんな苦しみもとうに忘れるほど愛おしかった。
だから今回もそうなるはずだった。だけれど。
「……」
瓶から直に掬った水には薄い氷が混じっている。縮み上がる両手に口を付けて飲み干した。
何度も何度もそうするが、喉に残った強烈な乾きは癒されない。
女は痩せ細った手首で口を拭い、土間の隅のわらを掴み取って下腹部に当てた。そのまま座り込むと、麻の裳裾から飛び出た青白い足が闇に浮かんだ。
何かがおかしい。ずっとおかしい。
しかし夫は夜の帳が下りる頃に出て行ったきり、まだ帰って来ない。
村に流れ始めた不穏な空気は、年々実感を伴って人々に迫っていた。男どもは毎晩額を突き合わせ話し込んでいる。時を置かずして何か大変なことが起こるだろうとは容易に知れた。
ただ今の女にとっては、腹の子のこと以外に心動かされるものがなかった。
「水をくれ」
突然の声に驚いて振り向くと、戸口に誰かが立っている。
「水を」
咄嗟に後退り、横目で奥間を探る。息子の姿は闇に沈んで見えないが、穏やかな寝息が聞こえた。
「どなた」
女の問いを無視したのか、土間口に黒い影が入って来る。
子供くらいの大きさの影で、それがおかしそうに震えた。
「水をもらうぞ」
嘲笑を含んだしゃがれ声が戸口のすぐ近くの瓶に向かう。褪せた布地の襟元をたぐり寄せた女に、奇妙に小さな背中が笑った。
「心配するな。あちらの者に貸したものを、返してもらいに行くだけよ」
あちら、と血管の浮き出た腕が指す方向を思わず見遣る。
女の目は土壁を通り抜け、村のもっとも奥にある屋敷を見据えた。
「……ろく婆さまのところ、ですか?」
「名は知らん」
振り返った小さな影は、灰色の布を被ったしわくちゃの老婆だった。
……村でもっとも長生きをしているろく婆さまよりも、さらに老いているわ。
最近は滅多にないのだが、かつてはろく婆さまを訪ねて四方の山を越えてくる近隣の村の者もわずかながらにいた。
女は目を凝らして老婆の全身を眺め、そして警戒に固まった背筋をやっと緩めた。
「ばばさまはどこからいらしたのですか」
「お山から」
やはりそうだ。ろく婆さまを訪ねて来た人だ。隣村からのお山越えは、健脚でも半日はかかる。老婆ゆえ、こんな夜半になってしまったのだろうと女は頷いた。
「ろく婆さまには、何を貸したのです?」
「ヘビじゃ。透明な長いヘビ」
「お祈りの時のお道具か何かでしょうか」
「そうじゃな」
はて、と女は首を傾げた。
ろく婆さまの神事に直接関わったことはないが、護摩焚きや祈祷を篝火の向こうから見守ったことは何度かある。
遠目にだが、そのような預かり物らしき道具や生き物はなかったはずだが。
女の疑問に答えるように、水の滴るしわに埋もれた口の端が笑った。
「もうとっくに透けて、剥がれて割れてしまったが。その破片を集めんとな」
それから、と間を置いて老婆はあっさりと頷いた。
「水の礼に教えるが、お前の腹の子はすでに死んでいるよ」
そうなのか、と女は下腹部を撫でた。
なぜ老婆の言い分を信じたのかは分からない。だが女は、至極冷静に、この老婆の教えは正しいだろうことを直感で認めた。
いや、それはごくごく現実的な、当然の状況判断だったのかもしれない。
ひとり目の息子の時と違い、女の腹はある頃からそれ以上膨らまなくなった。充分な食べ物もなく、わずかな雑穀も哀れな泣き声に勝てずに息子の口に収まっていた。自分が食べていないのだから、腹の子の栄養が足りなかったのも当たり前だろう。
村の作物の収穫は年々減り続け、この冬は何人の犠牲者が出るか想像もつかない。村にただひとつある倉庫の穀物は底をつき、越冬どころか明日の飯さえおぼつかない。
老若男女問わずにみな一生懸命働いた。山間のこの小さな集落ではみながみな力を合わせて労働に費やし、そうしてやっと日々を暮らせる糧が足る。
そんな歯車が狂い始めたのは、いつからだろうか。
すべてがろく婆さまのせいだとの男どもの潜め声も、瞬く間に広がって村中を暗く沈ませた。
「……でも。ろく婆さまの占では、元気な男児を得ると」
「お前も分かっているだろう。そんなものはでたらめだと」
老婆の遮りにそっと頷く。頷いたことが自身を驚かせ、そして怯えとも怒りともしれない感情が湧いた。
ろく婆さまを疑うことは禁忌だ。ろく婆さまのお告げは神のお告げで、それを疑えば身を滅ぼす罰が下る。
でも今は、この村すべての人々が、その禁忌を犯しつつあるのだ。
「……」
女は微かに震えて我が身を抱いた。
女がまだ子供の時分は、ろく婆さまは常に正しいことを告げた。
雨天や嵐をぴたりと言い当て、作物の生長を助け村に恩恵をもたらした。
村人の体の不調を見抜き、生まれる子の特徴を教え、災いや凶兆を最小限に抑えようと日々祈祷を繰り返していた。
石粒のような村に輝く玉との敬意を込め、「六玉」などと呼ぶ近隣者もいたくらいだ。
なだらかな山々の稜線、田を潤す細い清流、そして背後の日沈むお山に囲まれた小さな小さな村。
女は小さい頃から母親に、母もそのまた母に、「山々はみな恐ろしく敬うべきものだが、特にあの背後のお山には常に畏敬の念を持つように」と言われていた。
そうやって村の者すべてがお山に朝夕祈りを捧げ、村に存在する唯一の巫女であるろく婆さまを中心につつましく時を重ねて来たのだ。
だが、この数年の荒れ様はどうだ。
朝告げた言葉が夕になると一変する。ろく婆さま自身が惑っているのか、あり得ないほどたくさんの試しのような宣託を放ち続ける。
夕暮れの空が真っ赤に染まっているのに嵐だと言い張り農作業を禁止した。機織の音に魔が宿るとして道具をすべて燃やし、稲穂の出来が悪いと「ネズミ様の怒りじゃ」と傲然と言い放ちネズミの殺傷を禁じた。
穀物を荒らすネズミを生かしてどうする、と誰もが呆気に取られたが、村唯一の巫女には誰も逆らえない。結果、倉庫の壁は穴だらけになりわずかな備蓄は全滅した。
聞けば、山ふたつ越えた近隣村はここよりずっと栄えていたはずなのに、中央から兵の大群が押し寄せて一夜にして焼失したと言う。
この村は四方を小高い山に囲まれている地の利のおかげでなんとか生き延びているが、もとより内部からの崩壊は止める手立てがなかった。
大挙した兵のせいで終わるのではない。内側の、ひとりの人間のせいで終わるのだ。
たったひとりの巫女の狂気で。
四話の短編です。
現在の登場人物たちは後編で。




