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139.最後の言霊9







 長い夢が覚める直前に、夢の欠片は極彩色の泡となって弾けて消えた。




 深い深い海の底に横たわっているようだった。

 泡を追って目を凝らす。濃紺の暗闇では泡の残影すら見えない。光を求めてもがくと、唐突に体が浮いた。気がした。


 海面を目指して上昇する。



 目を凝らして泡を探すが見当たらず、覚醒して飛び込んできたのは自分の腕だった。


「……」


 唯一感覚の残る右腕は、痩せて青白い。

手首からパジャマに隠れた部分まで巻き付くように、ぐるりと黒くうっ血した痣がある。左半身は、感覚どころか重力すら感じられない。

 

 静かだった。

 

 視界に透ける光線を求めて目を細めると、世界は真っ白な発光色に溢れていた。


「沙貴ちゃん」


 静かだった。


 ゆっくりと右腕を動かして、鼻と口を覆うマスクを外した。

 と、もわっと甘ったるい匂いが鼻腔を刺激する。

 突き刺さる白い色に負けないよう眼球に水の膜を張り、舌を口腔で一周させて湿らせた。


「……なに」


 舌の付け根がじんと痺れる。


「沙貴ちゃん、ごめん」


 抑揚を欠いた口調でささやかれた。


「ベッドを囲む白いバラは用意できたけど、白馬は無理だった。病室は動物禁止なんだ」


 この発光色の正体は限度を越えた量の白バラらしい。


「だからさ、『目覚めた時に白いバラと白馬の王子様』ってあれ、一部取り下げてくれるかな」


 無表情で言われる。沙貴は喉の奥を濡らして能面のような両目を眺めた。


「……いつ、私、そんなこと言った?」


「言うと思った。そう来ると思ってたよずっと」


 芯がなく掠れた声しか出ない。

 深海を思わせる静けさの中で、もっと静かでひそやかな息だけのささやき合いだった。


「みんなは」


「まず僕だろ」


「あんたはいいのよ。見りゃ分かるから」


 冷たい顔が黙る。そして淡々と告げた。



「鞘子は相変わらず。やりたい放題。日替わりでお稽古道具を持ち込んで、沙貴ちゃんに見てもらうひとり発表会をしてた」

 小さな鞘子が脳裏に甦る。可愛らしい笑顔で、沙貴ちゃんのお顔描いたのよと絵画教室の絵を誇らしげに広げていた。


 空気だけを揺らすひそやかなささやきは続く。


「ママは……栄美子さん、だね。彼女は、少しだけ。…少し心を病んで入院しているけど、これから回復してくれるとみんな信じている」

 栄美子さんが?あの、丸い顔でいつも朗らかに笑う栄美子さんが。


「おばあちゃま……史子おばさん。彼女が結局一番タフかな。いい治療法があると聞けば世界の果てまで行く。この病室の壁際には、各地から直送されたあやしげな健康食品類やグッズが山積みだよ」

 優し気な風貌の史子おばさんを思い出す。



「そしてお母様は」


 母さん。


「お母様は……お母様のまま。仕事帰りに夜間学校に通って、かなり年下の同級生に慕われて過ごしているよ」

 

 沙貴はゆっくりと息を吐いた。

 内臓にじわりと血が行き渡るのを感じる。

 

 それを上から見つめる硬い頬が、潜めたままの声で呟いた。


「僕はね。……僕は、勝手に沙貴ちゃんが色々言ってったからさ。なんとか全部こなしたんだよ。勉強もしたし運動もしたし、学校も行ってる。人助けもできる限りしてるし、友達も作ったんだよ」


「どうせ、ひとりかふたりでしょ」


「……」


 図星だったらしい。動かない眉が一瞬上がったのを見て、沙貴は小さく笑おうとした。

 が、頬の筋肉が固まっているのか、うまく笑えない。

 そして、なぜ自分がそれを言い当てたのか少し不思議に思った。


 沈黙の後、功成が不機嫌そうに続ける。

「……ひとりは、女性。鈴子さん。寡黙でおとなしいけど優しい人だよ。もうひとりは男。先輩。こっちは乱暴でとにかくだらしなくて、何にも動じない変わった人」


「へえ」


「あと、友達……では絶対にないけど、沙貴ちゃんにとって懐かしい人ともたまに話すよ。哲也さん。それから年上の女性もいる。ちづるさん。でも、哲也さんとは会わせないし、ちづるさんも余計な事ばっか言うからやめておこう」


「……お礼しなくちゃ。……こんな根暗で根性悪ですが、どうぞよろしくって」


 見上げる無表情の黒目が微かに細まる。

 平坦な口調が続いた。


「……薄々気付いてたけど、大概ひどい人だよね。あの時も、僕の名を呼ばないどころか、やっと声を出したと思ったら最後にあんな言葉でさ」


「私、なに言ったっけ」


「……もういい。どうせ僕が心に深い傷を負って生きて行くだけだから」


 感情を消し去った真顔で告げられる。

 焦点がぼやけるほど視線が強く絡んだ。きらめく切れ長の黒目と見つめ合う。



「……」



 沈黙の後、瞬きを忘れた黒目がやっと動いた。


「沙貴、ちゃん」


 キスされるかと思った。

 血液の温度が戻りつつある右腕を伸ばすと、


「……なんだよ」


 ぱしっと心地よい音がして、額を手の平で止められた功成はむっと目尻を険しくした。


「待て。私、六年間も寝こけてたから」


「そうだけど。……なんで六年てわかるの」


 不機嫌に返され、そう言えばどうしてだろうかと思う。


「とにかく。六年よ六年。臭うわよ。きっとくさいから、あんまり近付かないで」


「大丈夫だよ。お母様やママや鞘子が交代で体を拭いてたし。ちなみに僕も」


「ちょっと誰か、病室に変質者が!」


「あはは。冗談だよ」


 息だけで笑って、功成はゆっくりと前に屈んだ。


「……沙貴ちゃん」


 狭い額が耳に当たり、通った鼻筋が首元をくすぐる。

 沙貴にぴたりと寄り添い、功成はそのままシーツに顔を埋めた。


「……」


 たくましく広い肩越しに窓の形の空が見える。

 ようやく我慢を諦めたのか、功成の喉仏が痙攣する。

 

 しゃくり上げる震動が伝わり、小刻みな喘ぎが白い室内に漏れ出した。


「……うっ、ひっく」


 シーツを伝う水滴がじわりと首の後ろに染みるのを感じ、沙貴は空の高さを探った。


 きっと、今は春だ。

 そして雨上がりの澄んだ空気が漂う、穏やかな昼に違いない。


「知ってる?」


 静寂に紛れる泣き声が耳に優しい。

 震える長身を抱き締める代わりに、沙貴は右手で功成の長い前髪を撫でた。


「あんた、ハイエナなんだって。コウ」


 なんだよそれ、という抗議は嗚咽とともにシーツに吸い取られてしまった。


 無意識に出た自分の言葉に自分で笑ってしまう。同時に、表現しがたい感情が一気に溢れ出し理由も分からず胸が詰まった。


 硬い感触の髪を指に絡め、沙貴は目を閉じる。

 降り注ぐ無償の日差しは、発光する白色ではないだろう。

 どこで見たのか定かではないが、柔らかな頬を染める桜色だと沙貴は想像し、まぶたを上げた。


 その通りの陽の光線が天井を彩っている。


「きれい」


 それがどうしてこんなに切ないのだろうか。

 思いながら沙貴は、天井を見上げ自分の心臓の音を感じた。


 誰かが一緒になって動かしてくれているような、力強い鼓動だった。





 夢の欠片は追うごとに遠のいて、湧き上がる息苦しさになぜか泣きたくなる。

 愛してる、愛してると体のどこかに刻まれているのに、どうしてなのかその声を思い出せない。その姿を思い出せずに、その指を思い出せない。

 既存の言葉では表せない痛みが、最期の泡となって記憶の淵でぱちんと消えた。


 

 これを愛と呼ぶ人は誰だろう。



 

 愛と呼んだ人は、一体どこに行ったのだろう。












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