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137.最後の言霊7



「……さてと」


 男の子はふわりと背を反らす。

 そうして沙貴のてっぺんから足の先まで、目に焼き付けるかのごとく眺めた。

 その両目に母さんが沙貴を見る時と同じ、何かくすぐったい感情が込められている気がして不意に落ち着かなくなる。

 沙貴が考えもなく声をかけようとした瞬間、頭上で風が渦巻いた。


「僕、そろそろ行くね。ずっとこうしていたいけど」


「え、おうちに帰るの?」


「ううん。僕はここに帰ることができたから、もういいんだよ」


「ここ?帰るとこが?」


「そう。ずっとここに帰りたかった」


 男の子の糸に似た前髪が翻る。彩りのある温かな風が舞い、干したての毛布の匂いが鼻先を通った。

 綿に包まれたような優しい沈黙の後、男の子は春の息吹を思わせる笑みを浮かべた。



「君に、言霊を送ろう」



「コトダマ」


 なぞらえて、沙貴は思い出す。数時間前、母さんがぽつりと漏らしたのもこの単語だった。


「母さんが言ってた。失敗だったのねって」


 何が十年よ、たった四年じゃない。



 見間違いだろうか。

 男の子が唇を噛んで、その瞬間だけ痛みを堪える顔をした。


 泣くのかと思った。

 しかし唇を解いた彼は、少し寂しそうに、いたずらっぽく指を立てた。


「ううん、失敗じゃないよ。……でもこれ、真咲さんには内緒ね」


 内緒、という表現に惹かれ思わず耳を寄せる。そんな沙貴に触れるか触れないかの距離で、空気よりも穏やかな声音がささやいた。


「君に、最大にして最高の秘密をあげる。僕の秘密。僕の、最後の秘密」


 男の子は、わずかに平坦な声音になった。


「僕は言った通りに物事が成せるんだ。力を込めれば込めるほど、強い言霊が成る」


でもね、と男の子は静かに言う。


「その込める力が、もう無くなっちゃったんだ。疲れ果てて目を開けることもできなくてね。だからずっと考えてたよ、動けない体と心で、ずっと君たちのことだけを考えてた」


「ん?なんで?」


「君たちが僕のすべてだからだよ」


 なぜ込める力が無くなったのかを聞いたつもりが、ますます困惑する答えを返される。


「……すべて?」


「そう。真咲さんと、沙貴ちゃん。僕のすべて、僕の光。ずっと暗い道を歩いてそのまま終わるはずだった僕の人生の、ただひとつの本物の光。君たちのためなら雨を止めて太陽を呼んで、花を咲かせて風にだってなれてしまう。僕のただひとつの真実」


「風?なれないってさっき」


「自分のためにはなれないなあ、アクガル姿は生物だけなんだろうね。でも君たちのためならなれる。風にだって嵐にだって。悪魔にだって、自分勝手な裏切り者にだって」


「アク?ガ……?」

 うらぎりもの?


 眉を寄せて首を傾げると、男の子はふふっと優しく口角を上げた。


「でも力が残っていなくてね。体から抜け出すこともできずにひたすら目を閉じたまま、どうしたらいいか考えていたんだ」


 込める力が体内に残されていない。

 じゃあどうしたらいいだろうか。


 そうか。

 そうだ。

 力が無いなら、代わりにこの命の残りを、



「沙貴ちゃん」

 優しく優しく、綿のような羽のような柔らかさで呼ばれる。



「君は人生を、一度だけ再生できる」



「サイセイ?」


「そう。どんな力も、悪い人の悪意も見えざる者の悪意も、見える人の力やそのおこぼれの力なんかも及ばない、最高の力だ。君だけの」


 首を傾げると、男の子は喉を鳴らして笑んだ。


「沙貴ちゃんは今、四歳だよねえ」


 頷きながら、あれ、いつ年齢言ったっけと思った。


「十、引く、四。さてなあんだ」


「……六?」


「正解」

 やっぱり天才だと誇りに満ちた呼吸が笑う。白い頬が桜色に染まっていた。


 日差しがアスファルトを覆い、まばゆい光が乱反射する。男の子の影が揺れ、何度も瞬く沙貴の鼓膜もふるりと揺れた。


「……僕はね。ずっと考えてた。ずっと考えてたんだよ。君たちのことを。何もしてあげられなかった君に、これからも何もしてあげられない君に、一体何ができるだろうって」


 なぜだろうか。溶けた餅のような白い頬がぼやけて見えた。眼球に雲がかかったみたいだとしきりにまつげを動かす。


「僕は、近付き過ぎた。生まれ付き見えるものに慣れてしまって、境界線を完全に見失っ

てしまった。だから……こうなってしまったのも自分の責任だから仕方ない。でも」


 君のことだけは、と言葉尻が消えた。

「眠りながら、ずっと考えていたんだ」


 ひゅっと風が鳴った。



「本当の残りは十年だった。でも、『自分から』四年で切り上げた。残りの六年を」



 君にあげる。



「え?」

 もっと寄せた沙貴の耳に、初めて聞く単語が届く。


「……む、しょう?」


「そう。これはね、沙貴ちゃん。僕だけが持つ権利だ。君に、無償の愛を注ぐ」


 すべてを。

 残りすべてを。

 命の残り、そのすべてを。



「僕が十年と言えば、絶対に十年なんだ」

 僕が十年と言った、物事は成った。失敗なんてあり得ない。言霊は成っている。十年は確実にある。

 だからその十年うちの、ここから残り六年の寿命を、命の力を、生命力を、僕は君に捧げることにした。自分で自分の命を切り上げて、その残りを。


 

 僕だけの、君に。






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