136.最後の言霊6
男の子は拳を天に突き上げて言う。
「よし!沙貴ちゃんは将来学者になる!それで真咲さんとずっと楽しくふたりで暮らすんだ!」
言い切った直後、男の子ははっと顔色を変えた。何かを急に思い浮かべたらしく、唾を飲み込んで正面に直る。
急流のごとく変わる表情について行けず無言になる沙貴に、緊張しているような彼は眉を震わせて言った。
「……あ、あのね。真咲さん、ひとりだよ……ね?」
勢いに気圧された格好で、間近にある黒目にきょとんとする。
「ひとりって、カレシってこと?」
「そう、付き合ってる相手とか……いやちょっと待って!沙貴ちゃんなんでカレシとか言うの!?どこでそんな言葉覚えたの、一体だれが君にそんな不埒な単語をっ」
「保育園でみんな言ってるよ」
「え、そうなの?今時の子って……え、さ、沙貴ちゃんはまさかまさかカレシがいるとかそんな、そんなわけないよね?ね?」
「うん。顔いきなり青くなったけどどこか悪いの」
「そ、想像しただけで気分が悪く……よか、よかった……」
吐くかと思った、と胸を擦って、小さな肩で息をしている。
そしてぶるぶる震えながら縋るような目をしてくる。
「カレシなんて単語滅びればいいのにね……世の中に不必要なものがあるとしたらそれはカレシと紹介したい人がいるのっていう言葉だよね……」
「カレシはいらない言葉なの?」
「そうだね。いらないね。一ミリも必要性を感じないばかりか害悪でしかないね」
きっぱり首を振って、それから息をひとつ吐いた。子供らしくない咳払いもひとつ。
「じゃ、じゃあ、ま、真咲さんは、いま」
うーんと沙貴は首を傾げる。つられたらしく首を曲げて、男の子はごくりと喉を鳴らした。
「母さん、けっこうもてるけど、あんまりきょうみないみたい。……て、みやこちゃんママが」
「ヨシッ」
歓喜の叫びとともに、男の子がガッツポーズをする。
その間に沙貴は再びそっと一歩離れた。
母さんは時々男の人に言い寄られるけど、「うさんくさい」の一言で片付ける。……らしい。それは別に問題ないのだが、ただ、どうしてこの男の子がそれで「よし」なのか。
混乱する頭を必死に回転させる。
「……」
ちらりともう一度玄関の方向を見遣る。
誰も出てこないそこの様子をうかがいながら、じっくり考えた。
もしかしたら、この子は「危ないヒト」かもしれない。
母さんは、知らない大人で奇妙な感じのする人が危ないのよ、としつこく言う。奇妙?と聞いたら、うさんくさい感じ、変な感じよと言われた。嫌だ怖いと思ったらその感覚を大事にするのよ、と。絶対家に入れたら駄目よ、とか車に乗っちゃ駄目よとか。
奇妙な感じって、こういうこと?でもこの子は大人じゃないから、この場合はどうなるのだろう……。
「きみょう」
「奇妙?難しい言葉を知ってるね、さすが沙貴ちゃんだ。天才。かわいい」
「……」
うさんくさい。変だ。
……でも、嫌だや怖いは感じないんだよなあ。これっぽっちも。
「真咲さんはずっとひとりかあ。そっかあ。いや、そうだと思ったよ?思ったけどもさ。そりゃモテるよねえ、わかる。うんうん。でもそんじょそこらの男じゃ釣り合わないもんねえ。わかるわかる」
腕を組んでぶつぶつと何か言ってる。しかも嬉しそう。
沙貴は意を決して一歩踏み出した。
「……あの。一体あんたは、どこの」
「沙貴ちゃん」
が、遮ったのはひどく真剣な眼差しだった。
「僕はわがままだな本当に……真咲さんは若いし……でも、ひとりって聞いてやっぱり喜んでしまうんだ。せめて沙貴ちゃんが成人するまでは……いや成人してもずっと……いやでも、そんなわがままで勝手な。真咲さんはたぶん心配ないと思う、本当は気が狂いそうなくらい心配だけど。信じている、信じられる気持ちがある。けれど……この子のことは、どうしても心配ばかりが先に立つ……心配が大きいのはこの子の方で、いつか将来ちゃらちゃらした男がお嬢さんを下さいとか言うのを想像するだけで、もう吐き気が……」
しばらくしきりに小さく呟き、不明瞭に言葉を濁したが、やがて決心したのか両眉を上げた。
視線を絡ませ、困惑する沙貴に言い聞かせるように言葉を区切る。
「沙貴ちゃん、いいかい、よく聞いて。知らない人について行っちゃ駄目」
「うん。それは……母さんにもいつも言われてるけど……」
「大人になっても、ってことだよ。あと、都合のいいことばっか言って来る奴にも気を付けて。特に男」
「あんたみたいな?」
「やたら褒めてきたり、やけに優しくしてくるのも注意だよ」
「だからあんたみたいな?」
「それから、ここが重要。女性のふたり暮らしは危険だし常に気を張ってて。もっとはっきり言えば、男なんか一生要らない。君は真咲さんと、ずっと一緒にいればいいんだからね」
「え、でも。母さんが、王子様が見つかったら出て行ってもいいって」
「そんな!」
男の子は悲鳴を上げた。
「駄目だよ沙貴ちゃん、この世には王子様なんかいないんだ。男はみんな王子様なんかじゃなくて」
「でも母さんは、もう王子様に会ったって言ってたよ?」
「……」
唐突に黙りこくる。
そっと窺うと、顔がこれ以上ないほど真っ赤になっていた。
「え、今度はお熱出た?ものすごく赤いけど」
「……ううん、えっと、そ、そそそその真咲さんの王子様って」
「うん?なんかね、背が高くて足が長くて難しいお勉強をたくさんしていて、痩せててひ弱な王子様だったって」
「ひ弱」
「でもいつも優しく笑ってたって。誰よりも素敵でひ弱な王子様だったって」
「ああ、うん……まあ、そうなんだけどね……」
両手で顔を覆った男の子の喉から、「くう」と変な音が出る。
「……いとしすぎて心臓止まる……止まってるけど……」
「なに?」
「……いや、うん。えへへ」
へらへらと照れたように笑った後、男の子は「とにかく!」と言い募った。
「とにかく、王子様はそのひとりだけだと思って。もう王子様はこの世のどこにもいないんだ、そもそも自分を王子様なんて言う奴は大抵、友達もひとりやふたりしかいないような根暗で根性の曲がった奴なんだよ。誰々には会わせないとか誰々とはやめた方がいいとか、きっといい加減で性格の悪いこと言う男だ。王子様なんていない、いるのは王子様の皮をかぶった狼だけ。いや、男なんてみんなハイエナだ!」
「ええ?王子様はハイエナなの?」
「そうだよ。だから注意してね」
有無を言わせない迫力で説得されると、頷く他ない。
沙貴が小さく首を縦に振ると、男の子はやっと安心したように笑った。




