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135.最後の言霊5


 そんなおかしな一日は、まだまだ続くらしい。



「会いに来ちゃった」


 知らない男の子は、そう言って微笑んだ。


 近所でも見たことないし、第一格好からして沙貴の周囲の友達とはちょっと違う。

 襟付きシャツに綺麗な膝小僧の出た半ズボンという出で立ちで笑う小さな男の子に、沙貴はふんと鼻を鳴らした。

 一目見て気に食わないと感じた理由が、ここに来てようやく分かる。

 笑った時に垂れる眉尻が、ほんの少しだけ、あの眼鏡の虫歯菌に似ているのだ。


「ひとりで何してるの。何やってたの」


 でも、そうやって尋ねて来る薄い唇も細い目も、ちゃんと笑っていてあの男とは違う。

 と言うよりは、目も頬も溶けるんじゃないかと心配になるくらいやけに嬉しそうで、どう見ても本気で笑っている。


「……ま、見た目で人をはんだんしちゃいけないからね」


 沙貴は大人ぶってひとりで頷き、改めて男の子に向き直った。


「あんた、だれ。どこから来たの」


「すっごく遠くだよ。……いやそれにしても」


 前半部分は答えずに、男の子は感嘆のため息を吐いた。


「なんて素敵な子なんだろう。僕を最初に見た態度も、表情も、全部含めて真咲さんそっくりだ」


「……」


「あの頃の真咲さんそのままじゃないか」


 とっさに、あの虫歯菌の「血が疑わしい」という、音だけでもおぞましい言葉を浮かべた。

 が、男の子のその声音は男とはまったく逆の、浮き立つような雰囲気だ。顔もふわふわと笑っていて、全然違うなと感じる。

 沙貴は暖かな日差しに神経を癒やされて、ひとまず疑問を先に投げた。


「なんで、母さんの名前を知ってるの」


「そりゃ知ってるさ。世界一素敵な名前だもの。君のお母さんの名前は」


「お母さんじゃなくて、母さん」


「どうして?」

 優しく促され、沙貴は澄まして答える。


「だって、母さんが言ったから。私は、「お」をつけてもらえるほどの人間じゃないし、ママとカタカナでよばれるガラじゃないし、でも母ちゃんじゃむすめを持ってるにんしきに欠けるしって。だから一番ふさわしいのは、母さん」


「そうか」

 男の子は眩しそうに目をたわませた。

 そして一瞬だけ、寂しそうに前髪を揺らす。


「……僕はね。すごく遠くにいて、もっと早く来たかったんだけど、ずっと体は動かないし眠って目が覚めないしで、この姿で体を抜け出すことすらできなかった。この力もただの役立たずだなあなんて思ったり。会いに来ることができたのは、結局こうなった今だ。本当にギリギリだった。能力に気づいていたのに使い方がわからないし、いやもう焦ったよ」


「うん?」


「眠ったら自由に体から抜け出せる、はずなんだけど。なんとなくそうわかったんだけど。どうしても出来なくて、試行錯誤でこんなに時間がたっちゃった。参ったよ」


「……はあ」

 ぽかんと口を開けた沙貴に笑む。


「それに昔ねえ、僕、風になるだとか、風になりたいだとか言ったんだけど。……あれ、無理だった。無理無理。言っておいてなんだけど、考えてみれば風なんて無機物どころか自然現象だし。生命体ですらないのだから。ただのロマンでさあ。やっぱり、体から抜け出してもなりやすい形にしかならなかったな。僕は子どもの頃の姿にしか……風になりたいなんてちょっと恥ずかしいな。真咲さん、覚えちゃってるかな。若気の至りって……」


 そこでやっと沙貴の不審げな視線に気付いたらしい。

 男の子はひどく慌てた素振りで頭をかき、手を握ったり開いたりして自分を落ち着かせるように深呼吸を繰り返す。

 そして真顔になった。


「ごめんね、嬉し過ぎてひとりではしゃぎまくっちゃった。……それで」

 白い首が微かに緊張している。首を傾げた沙貴に、少し口ごもった。


「あ、あの。君、の名前。……なんていうの」


 なぜ名前を聞くだけであやしいまでに赤くなるんだ、と一歩引いて沙貴は唱えた。


「さき、よ」


「さき、か。真咲さんの名前の音を取ったんだね。どんな字を書くの、書けるかな?」


「……」

 まるで幼児に話しかけるような聞き方にむっとする。沙貴は放った石灰を拾い、不機嫌な表情でこれでもかと大きく白い線を滑らせた。


「書けるよ。当たり前に書ける。練習してるし」

 屈んでアスファルトに書きながら、母さんの口癖も一緒に口をつく。練習するたびに教えてもらった「意味」だ。ゆらい、と言うらしい。



 何があっても形を変えない海の砂よ、と誇らしげに笑ってた。


 砂に棒を挿しても、波が来れば跡も残らずまた平面に戻るのよ。

 そんな砂浜のように、何があっても強く変わらず、常に希望を持っていられるもの。



 さんずいは水。

 水に洗われた、小さくばらばらになったすな。いわく、海の砂。

 貴く強い、水の砂。



「……さんずいは、水。いわく、海の砂浜。貴く強い、水の砂。……どうだ」

 最後に力を込めて点を打ち、胸を張って顔を上げる。


 刹那、沙貴は驚いて跳ね起きた。


「ど、どうして泣くのよっ」


 男の子は目頭を押さえて空を仰いでいた。

 仕草が子供らしくなくてどこか妙だ。


「ごめん……感動してしまって……」


 しばらくそうしていた彼は、鼻をすすってようやくこちらを向く。腫れたまぶたを柔らかく緩め、にっこりと笑った。


「最高にいい。いい名前だね」


「……母さんの名前が世界一って言ったじゃん」


「うん。だから宇宙一だ」


「……」


 やっぱり、どうにもおかしい。

 沙貴はこのおかしな子供にあまり近付かないようにしようと、少しずつ少しずつ後ろに下がる。

 しかし男の子は沙貴の戸惑いを感じていない様子で、顎を擦りながら腕を組んだ。


「君にぴったりの素晴らしい名前だよ、うん。君……さ、さ、ささ……沙貴ちゃんって呼んでもいい?」


「別にいいけど、なんでそんなに照れるの」


「さ、沙貴ちゃん……うわ、沙貴ちゃんだって……沙貴ちゃん、は、字も上手だねえ」


「うん。お勉強してるし」

 なぜだかこの変な彼の驚く顔が見たくなって、沙貴はえばって腰に手を当てた。


「ひらがなもカタカナも、漢字だって書けるのよ」


「漢字も?」


「だって、おし入れに古い本がいっぱいあってね。えと、万、葉っぱ、の……まあ、とてもむずかしい漢字がならんでる本だけど。私、時々それも読んで……」


「なんだって!?」


 が、突然前のめりに詰められて思い切り仰け反る。じりじりと離れた距離が一気に縮まり、沙貴は興奮で上気した男の子の顔に呆然とした。


「お、押し入れに文献、万葉集関連のあの大量の古書か。嬉しいな……捨てないでくれたんだ……しかもそれを読むだって!やっぱり遺伝、いやいや両方の長所すべてを完璧に受け継いだ……とにかく!天才だ、この子は天才だっ」


「あの、えっと」

 かなり大げさに、嘘も多少交えて言ったのにここまで喜ばれて、沙貴は二の句が継げなくなった。彼に褒められる理由がない。


 確かに、うちの押し入れにはなぜか古くて汚くて厚い本がたくさんあり、ごくたまに沙貴は潜り込んでそれを開くことがある。

 でも実のところそれは読んでいるわけでなく、母さんの帰りを待つ寂しい時間に本の匂いを嗅いで心を慰めたり、まったく読めない複雑な漢字の羅列を眺めて眠くなったりする、いわば沙貴の秘密の遊びだ。


 しかし沙貴に言い訳する間も与えず、男の子は唾を飛ばしてしきりに納得している。


「そうだ、天才だよ。うん、そうだと思ったんだ、このアスファルトに描かれた絵。やっぱりね。僕にはすぐにわかったよ。実に素晴らしい模様だ。天才の片鱗を窺い知るにふさわしい、芸術性の高い作品に仕上がっている」


「まるとしかくとさんかくが?」


「この年齢でここまで感情を揺さぶる絵を描いてしまうなんて、その才能がおそろしい。かわいくて賢くてかわいくて真咲さんそっくりでかわいい上に、多才だなんて……もう天使じゃないか……」


「……ええと」


 困り果てながら、沙貴は以前に見たある光景を思い出していた。今の状況には無関係なのに、なぜかありありと脳裏に甦る。


 確か、保育園のサッカー遊びの時間だ。ゆうくんが、まぐれ当たりのシュートを決めた。するとたまたま見に来ていたゆうくんのママが、手を叩いて「うちの子は天才よ!」と叫んだ。「将来はサッカー選手になって海外に行っちゃうかも!」なんて。

 ゆうくんは恥ずかしそうに身を縮め、呟いていたものだ。

 なんだっけ。



 ……そうだ、うちのオヤはオヤバカで……







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