27 群像 天乃雀
美術準備室の暗闇の中、天乃雀は一体の無脊椎生物と対峙していた。
昆虫の彼女――どうしたことか「彼女」だという確信がある――は全身から謎の光を放っているけれど、不思議に思えないのが不思議だった。その少し後ろには、彼女を護衛するように黒の大軍が控えている。彼女の羽根にはどこの国のものともつかないお子様ランチ大の旗が挟まっている。そんな具合だから、スズメの目には彼女が軍を率いるリーダーかなにかのように映った。
――あなたはどうして逃げないの?
スズメにテレパスの力はないけれど、こちらをじっと見つめる彼女がそう問いかけている気がした。この大軍を見て驚きもしなければ、逃げようともしない人間がいるというのは珍しいのかもしれない。
――世界中で嫌われる虫に囲まれる最期なんて、この上なく私にお似合いだ。
両手両足を戒めていたロープはとっくに外してしまったし、襲いかかろうとしていた不良たちは真っ黒になって転がっている。逃げようと思えば逃げられる環境だけど、スズメにその気はない。
「ねえ、逆に私が訊きたいんだけどさ」
スズメは彼女に問いかける。
「キミたちは――」
友達に訊くような声だった。
「そんなに嫌われてても、どうして平気でいられるの?」
このおおぞらに。
つばさをひろげ。
飛んで行けたらいいなと思って、本当に「翼をください」なんて初詣でお祈りしてしまった恥ずかしい女子高生は私くらいだという自信がスズメにはある。なんて皮肉な私の名前。
「空を飛びたい」と言えば、それはなんというか一般的に航空学的な話であって、あら素敵な夢ですねの響きがあるけれど、私の「飛びたい」はどちらかというと精神的な方面であって、正しく言えば「どこかに飛んでいってしまいたい」だから、それはつまり現実逃避なのだけれども、現実逃避も度が過ぎるとやはり空を飛びたくなったりもしてしまうから、私はときどき高い所に立つ。崖。岬。屋上。
「どんどん母親に似てくるな」
父親にそう言われたのをスズメは今でも憶えている。小五のときだ。どうして記憶に残っているかと言えば、子のひいき目抜きにしても母は美人の部類だったから嬉しくて、ではなくて、それが一番忘れたい言葉だったからだ。その言葉は少しタメがあったあと、吐き捨てるようにこう続く。
「気持ち悪い」
これでワンセットの忘れたい言葉。
でもこれは父が悪いのではないとスズメは理解している。先制攻撃を放ったのは母の方だった。先制攻撃からの追撃追い討ちで、父はとうとうキレてしまったのだ。
母の携帯には、男性の電話番号がたくさん登録されていた。小学校から帰ると、家に若い男性がいたこともあった。
「お母さんのおトモダチ」
そう紹介された男の人は、すぐ思い出せるだけで五人いる。小学生だからどうせわからないと思われたのだろうか? 小五の女はそんなに甘くない。スーパーでレジを打つ母が、どうやってたくさん若い男を釣り上げてくるのかは、今でもスズメの謎である。父と母の出会いは、母が働く店に父が客として来たのがきっかけだったという。スズメは思春期も深まるに連れ、その店というのがどうもコンビニやファミレスの類ではない気がしてくる。母の男を釣り上げる手腕は、そう言った過去に関係している気がしてくる。
勿論、そんな隙だらけの火遊びがばれないはずもなく、やがて大喧嘩は起こる。
ごめんなさいごめんなさい。父に顔をひっぱたかれ、携帯をバキバキにされ、母は必死で謝るけれど、二、三日もするとまた誰かしら男を連れ込む。油断なのか、馬鹿なのか、恋多き母。NOLOVE,NOLIFEな母。そしてまたすぐにばれて大喧嘩というループは、スズメが小六になったころ離婚という形でようやく終焉を迎えた。
スズメはもう父の顔を思い出せない。離婚後、父はスズメに一度も会おうとしなかった。私を見ると母を思い出すからだろう、とスズメは思う。『どんどん母親に似てくるな。気持ち悪い』。ほぼ八つ当たりの形で失った父の愛。けれど父もその辺りは引け目があるらしく、母に内緒で作ったらしい天乃雀名義の口座に、小学生の小遣いとしては多すぎる額を毎月振り込んでくれた。養育費とは別にだ。
スズメが中学に上がると、母は堂々と男と会うようになった。母が縛られるべきものはもう何もないのだから、堂々としてもいいのかもしれない。でも思春期まっさかりの娘を家に残して、帰ってこないのはどうか。たまに男と一緒に帰ってくることがある。必ず紙袋をたくさん抱えてくるけれど、何が入っているのかはわからない。そして「アンタ、これでどっかに遊びに行ってきなさい」と三千円を渡される。千円札が足りないと、しぶしぶ五千円札を出す。一万円札は出さない。
――家から追い出すのに五千円を渋られる私の価値って何。
やがて、謎の男がアパートで生活しだすと、スズメには三千円の価値もなくなる。家に広がる母と男の世界が、スズメの居場所にプレッシャーをかける。恋愛マニアの母にとっての価値は、男 > 娘。思春期の繊細さをがんがん揺さぶる「いなくならねえかな」の空気。
――この家に私の居場所はない。
スズメはときどき高い所に立ってみたりもする。
進学は、適度に家から通えない高校を選んだ。
「私、一人暮らしする」
スズメの提案を母は喜んだ。
喜びながら「一人暮らしさせる金なんてないわよ」と言った。
「貯金あるから。学校の寮なら安いし」
父から送金されるお金が口座に貯まっていた。
いつか返そうと思っていたものだったけれど、この際それを使わせてもらおうと思った。
「ああ、そう」と、母は特に突っ込んで訊くこともない。
突っ込んで何か余計な問題を見つけてしまうのが、嫌だったのかもしれない。
――誰にも嫌われたくない。
中学のときから兆しはあったけれど、高校になるとそれはほぼ強迫観念となってスズメに取り付いていた。
私の居場所はもう学校にしかない。
私は学校中の誰からも愛されなければならない。
その強迫観念はスズメを悪気のない八方美人にする。
『創汰くんおはよう』
『お、おはよう』
冴えない男子、と心で見下しながら、でも愛想をふりまかずにはいられない。愛情を獲得するためなら、下の名前を甘いトーンで呼ぶことだって辞さない。
――私はみんなを騙しているんだろうか。
その表裏のギャップの醜さで、スズメは自己嫌悪に陥る。みんなが嘘だらけの表面を信じて好意を寄せてくれるから、自己嫌悪には拍車がかかる。
――この好かれている私は、そもそも本当に私なんだろうか。
でも本当の自分なんか見せたら嫌われるに決まっている。本当の方の私は途方もなくも醜いのだ。嫌われるのは恐い。好意を失いたくない。いつもたくさんの愛情に囲まれていたい。
とある日の教室、スズメの耳に小声が届いた。こちらに敢えてギリギリ聞こえるように絞られた声だったから、スズメの鼓膜は緊張した。
「――あの人、絶対キャラ作ってるよね」
「あ。それあーしも思ってた!」
その女子二人組は、アタシたち大人の彼氏いますから風の、同世代の子どもとは違うからクラスでは率先して浮きにいってます、な雰囲気を醸す二人だった。
「あんなに媚びてまで好かれたいかねー」
「この前なんて全員にクッキーばらまいてたじゃん」
「ウケる。男なら誰でもいいんじゃね」
スズメは凍りつく。頭の奥で何かが揺らいで、景色がぐるぐる回転した。
クッキーをあげない人がいると不平等だと思っただけなのに、それを悪意の目で見る人間がいたというショック。
気配りできる女をうまく演じて、誰にも好かれる天乃雀の地位を築き上げていたと思ったのに、自分を嫌う人間がいたというショック。
そしてなにより「男なら誰でもいいんじゃね」という言葉に、思いも寄らない角度から、自分にもあの忌むべき母親の血が流れていると気づかされたショック。
――母がもてるのはこういうことだったの?
「どおりで私は醜いわけだ」
スズメは屋上に立って、考える。
いっそ飛んでしまえたら、と思う。自分の中に巣くう母親ごと。
でもこんな所に立っているだけで、本当は飛ぶ勇気なんてないことも知っている。
きっと酔っているだけなのだ。
死にたい、って悲観的に憂う自分に浸っているだけなのだ。
スズメは屋上から飛ぶ自分を想像する。
ひゅーんて落ちていく私。もう駄目だ。激突してスイカみたいに割れるんだ。さようなら醜い私。スイカな私。と思った途端、ばさっと翼が生える。ぱたぱた浮いてると、神様の言葉。お前は可哀想だから鳥にしてあげよう。しがらみのない大空で好きに生きるといい。ああやっぱり神様は見てくれていたのだ。ありがとう神様。神様ばんざい。
――ほら、飛び降りる気なんてない。
そんなスズメにも飛翔のチャンスが訪れる。
六月三〇日、一六歳の誕生日の夜。
部屋のクローゼットから現れたのは、とんがり帽子の魔女だった。
「あなたは『ψ(サイ)』の能力者として、正義ノ味方管理協会に登録されました」
警察を呼ぶ呼ばないの一悶着があって、スズメは聞くだけ聞いてみることにした。聞いてあげて、大人しく部屋から出て行ったあとに警察を呼んだ方がいいと判断した。
けれど不覚にも話に興味を持ってしまったのは、ψというのは超能力のことだとか、善や悪がどうしたとかいう部分ではなかった。
それは、重要事項説明書なるものを見せられたときだった。
三. 正義ノ味方は自らが正義ノ味方であることを、一般人に知られてはならない。
また、全宇宙正義ノ味方管理協会の一切を、一般人に漏らしてはならない。
(違反罰則/能力剥奪、記憶剥奪、畜生界への追放)
「この畜生界への追放ってなんですか?」
「それは動物にされるってこと。能力がばれると記憶消されて動物になっちゃうから気をつけてね」
「動物は、正体がばれたときだけですか?」
「うーん。あとは、悪に敗れた場合で状況が酷いときかな。でもこっちは滅多にないケースだから心配しなくてもいいわ」
「状況が酷い、って?」
「要は無気力試合ね。わざと悪に負けるとかそういうこと。昔、ノルマに苦しんでる悪側に話を持ちかけて、わざと負ける代わりにお金を要求した人がいたのよ。そういうのは八百長になっちゃうから厳罰。だからちゃんと戦ってさえいれば、動物にまではならないわ」
「動物は好きなの選べますか?」
「うん。そこはせめてもの慈悲というか、希望できるようになってる。ってかなる前からそんなに心配しなくても」
スズメは書類にサインをしてみる。
身辺整理は朝までかかった。




