Ⅵ
ようこそ、不思議で不可思議な物語へ。
僕の体が誰かに揺すられている。
温かい声とともに、僕の意識が確かになっていく。
僕は薄く瞼を開くと、僕の顔の前には髪を二つにくくって肩に垂らした虹色の髪の毛の持ち主がいた。
「お兄ちゃん、おっきっき」
「ああ、おはよう」
美空は嬉しそうに笑って僕が寝るベットの横に寝転んできた。僕はまだ完全に意識の覚醒しないまま彼女の頭を撫でる。
端からみたら僕らはどのような関係に見えるのだろうか。まあ、そんなのはどうでもいいことなのだが。
「ここは、どこだ?」
「お父様の別荘だって。それにしてもすごく広いね、ここは。過去私達が住んでた四階層とは比べものにならないや」
「四階層…。点滴やイデアは元気にしているのかな」
僕がそう言うと、美空は怒ったようにこう言った。
「過去のことを思いだしても何も生まれないって言ったのはお兄ちゃんじゃない」
「いや、まあそうだけどさ。少しぐらい黄昏れる権利は僕にもあるでしょ」
「無いね、そんな事をしている時間はお兄ちゃんには無いでしょう」
僕は軽く笑ってこう言った。
「まあ今はそうかもしれないね。でも、一段落ついたらみんなとどこかに遊びに行けたら良いな」
「私は遊ぶならお兄ちゃんと二人が良いけどね」
「僕は美空と二人よりはみんなと遊びに行きたいな。美空とはいつでも遊びに行けるだろう?」
「遊びに行くのにはまず一旦この逃亡生活を終わらせないといけないね」
「まあね」
僕は立ち上がる。そして周囲を見渡した後近くに置いてあったお茶を飲み込んだ。
「でも、私達のこの逃亡生活を終わらすには、どうすれば良いのかな。少しでも動いたら、殺されてしまいそうで怖いや」
「戦争しかないと思うよ。話の通じない相手は、力で圧倒するしかないんだ。生憎、僕も今まではそうされてきた」
美空は今だ寝転んだまま僕に言った。
「不思議だね、たったこんな小さな出来事で、これ程までに立場が逆転してしまうのだから」
「そうだよ、美空。今度は僕らの番だ。必ず僕ら怪物達が未来を埋め尽くすようなそんな世界にしよう」
「分かった、必ず。そしたら二人で遊びに行こうね、約束だよ」
「ああ、約束だ」
僕はそう言ってもう一度美空の頭を撫でた。美空は体を起こして笑う。彼女は今まで見たことのないパジャマ姿で少しドキリとした。
「ところで、お兄ちゃんの記憶ってどこまで蘇っているの?」
「最終的の記憶が分からないから何とも言いようが無いんだけど、多分半分ぐらいは思い出したと思う。僕の名前をサヤに教えられてから、沢山過去の記憶を思い出したんだ」
「それは良かったね、なら私との記憶は思い出してくれた?」
「…いや、まだ全くだ」
美空は下を向いて「そう」と呟いた。するとそれとほぼ同時に部屋のドアが勢いよくもう一人の付き人に開けられる。僕はその女の子を見て頬を引き攣らせた。
「やあ、エスプレッソ」
「どうも。美空ちゃん、ご主人様。食事の準備が出来ましたよ」
美空は嬉しそうにベットで跳びはねた。僕は頭を掻く。
「悪いね、エスプレッソ。食事までまた作らせてしまうなんて」
「いえ、それが私のお仕事。そして私の生き甲斐です」
エスプレッソはエプロンを外して僕の元に歩いてきた。そして僕の耳元に口を寄せ囁く。
「この世界はどうやら合法で作られているようです。マカロン嬢の許可などは必要としないようですし。そしてですが」
エスプレッソは僕の首元を指差しながらこう言った。
「昨日、マカロン嬢の元に行ってきました。すると、そこでは貴方の指名手配の貼紙が大量にありましたよ。このまま行けば、この世界に彼等が来るのは近いですね」
「来たらぶちのめすだけだ。血祭にしてみせる」
「もう二度と、貴方は彼等と心を通わそうとはしないんですね」
僕はエスプレッソを睨む。
「当たり前だろう。僕はその為に今を生きているんだから。記憶なくして死んでたまるものか」
「マカロン嬢はきっと貴方を信じているのですよ」
僕は首を傾げると、エスプレッソは僕の腕を掴んで言った。
「この不思議で不可思議な世界への貴方の在住を認めたのは他でも無いマカロン嬢なのです。それは同時に、貴方をいつでもこの世界から抹消することが出来るということを示します。つまり、貴方はもう今実際ならこの世界にいないはずなのですよ」
「馬鹿な」
「マカロン嬢は貴方を信じているんです。貴方がただ何の理由もなくあの場所で暴れたのでは決してなく、貴方はサヤちゃんの為に暴れたと。だから貴方を消してはいないのでしょう」
「ねえねえ二人は何の話をしてるの?」
美空が僕らに聞くのと同時にエスプレッソは話すのを止めた。僕は一気に脱力した。
「マフィン、少しは貴方の周りの人々の事も考えては頂けませんか。自分自身に大変なのは分かります。ですがそれは人類全員に言えることですよ。大丈夫です、貴方には私や美空ちゃんがいるでしょう?頼っていただいて、構いませんよ」
美空がこちらに歩いて来て、下を向く僕を覗き込んだ。そして僕にこう言った。
「どうして、笑っているの」
僕はエスプレッソの方を向いてこう呟いた。
「少し、一人で散歩に行ってくるよ」
エスプレッソは僕を怯える瞳で曖昧に頷いた。
この世界は矛盾に満ちている。
溢れんばかりの不可思議とともに。
それはまるで現実のようで。
何もなかったように日常に溶け込んでゆく。
その日常は普通の日常に過ぎなくて。
僕は希望を求めていた。
しかし希望など、どこにも無いだろう。
サヤが死んだ。
僕は現実から逃げていた。
それは正しいことだと。
僕はいつも思っていた。
だけど、そんなのは違うんだ。
僕は思っていた。
不思議で不可思議な世界は住民が不思議なのだと。
世界が不可思議なのだと。
でもそんなのは、違ったんだ。
この世界では、不思議も不可思議も日常に過ぎないのだから。
じゃあなにが不思議なのかって?
じゃあなにが不可思議なのかって?
そんなの、決まってる。
サヤと出会ったことや。
四階層の面子と遊んだこと。
マカロンと話したことや。
セリヤ達と戦ったことまで。
そして、今僕が怪物であるという事実も。
この物語がきっと。
『不思議で不可思議な物語』なのだ。
手を伸ばせば、そこには空間がある。
手を握れば、僕は不可思議を掴んでいる。
手を開ければ、僕の手からは不思議が舞って行く。
なら君の手を、掴めば……?
「あの。どうか、なさいましたか」
僕が我に返ると、僕は知らない女性の手首を掴んでいた。
一瞬意識がまた飛んだが、現状を理解した僕は顔を真っ赤にして手を離して頭を下げた。
「すみませんでしたッ!」
「え、あ、うん」
僕は顔を上げて、彼女の表情を確認すると、僕の中に衝撃が走った。
頭が痛みだす。胸が苦しくなる。
しかし、それはフラッシュバックの時に比べて華やかな痛みだった。
僕はその時死を覚悟した。
この感覚、かつて味わったことがある。
きっと、サヤと不可思議の丘に来た時だろう。
あの美し過ぎる、偉大な生命の息を守る丘で。
僕はかつて言葉を失い、そして意識を手放した。
その時と同じ感覚だ。
女性は偉大でもないし、僕と立場もそう変わらないだろう。
彼女の腕にはエコバックが見えたから、きっと金持ちでも無い。
それでもその女性は美しかった。
ただただ、美しいと僕は感じた。
彼女の瞬きと共に彼女の長い睫毛が揺れる。
その一瞬はまるで永遠のようにも感じられる。
彼女は僕を見つめていた。
全てを吸い込むような瞳で。
永遠を飲み込むような瞳で。
その瞳までもが美しかった。
そんな時、ぽつぽつと雨が降ってきた。僕と彼女の近い空間の中に、はっきりとした空間がそこで生まれる。
「雨が振って、来ましたね」
彼女は僕にそう言いながら自分の傘を開いた。力を増してくる雨の中、僕は一歩たりとも動くことが出来なかった。
「傘、持ってないんですか」
僕は頷くことは出来ない。ただただ美し過ぎる女性を前に、僕は石のように固まってしまった。
雨は勢いを増し、僕の視界にとうとう正確に女性が映らなくなってしまった。それでも僕は女性を探そうともせずにその場に立ち続けていた。
彼女も不可思議なのだろうか。
きっと、そうなのかもしれない。
彼女がメデューサであるかのように僕は目を合わすと動くことが出来なくなった。
そんな彼女は、一体誰だろう?
そんな時、僕を嘲笑うように叩いてきた雨粒が急に姿を消した。僕は前髪から垂れる雨を振り払わないまま前を向くと、そこには彼女がいた。
上を向くと、僕は傘によって身を守られていた。
「風邪、引きますよ」
傘が婦人用のせいか、僕を守っているかわりに彼女が頭から雨を浴びていた。それでもデコに張り付く前髪の奥から見える瞳は初対面の時と何も変わらず綺麗だった。
僕はすぐに傘を彼女の元に返そうとした。それでも、彼女は笑顔で僕の元に傘を寄越す。彼女と僕の謎の争いが繰り広げられていると、傘はそれに飽きたのかどこからか舞ってきた風に吹き飛ばされ僕らは直接二人とも雨を浴びることになった。
「結局、どっちも浴びるんじゃないか」
「そうなって、しまいましたね」
どちらも目に雨が入らないように下を向くが、動く気配は見せなかった。雨はさらに勢いを増し、僕らは吹き飛ばされそうになりながらその場に残った。
すぐ右に、雨宿りが出来る大きな木があるにも関わらず。
「雨宿りを、しますか」
「どちらでも構わないよ」
すると彼女は僕を見て言った。
「では止めておきましょう。このまま雨に討たれていると、私は何だかすごく過去が洗い流されているようで安心するのです」
「僕も今、そういう気持ちなんだ」
彼女が薄く笑っているのが豪雨の中で目に見えた。雨が地面に落ちる音で彼女の声を聞き取ることも難しいのに、彼女の表情はその中でまるで光り輝いているようだった。
「マフィン、という名に聞き覚えはあるかな」
僕がそう言うと、彼女は横に首を振った。
「知りません」
「僕の名は、マフィンと言うんだ。マフィン・キルミット」
彼女は僕に一歩近づいて微笑んだ。彼女の髪はびしょ濡れだった。
「素敵な名前ですね」
距離が近づいたため彼女の声がはっきり聞こえた。それとは別に彼女の言葉に少し思いが篭っているようにも思えた。
「私もそのような名前であれば良いのですが」
「なら貴方の名前は、何なのですか」
彼女は少し間を開けてから、僕に言った。
「オリガ・レモネード。オリガといいます」
彼女がそう言うと、雨が一層力強く降り、僕らは何も言わずに近くの木の下へ歩いていった。途中で彼女は一瞬微笑んだ。
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