EP 9
【 二度目の相談室】
火曜日の朝、俺は洗面台の鏡の前に立ち、水道の水で寝癖を丹念に抑え込んでいた。
六年間、鏡を見ることすら避けて生きてきた。
伸び放題だった前髪を両手でかき上げ、眉にかからないよう横へ流す。
爪を短く切り揃え、母のタンスの奥にあったアイロンを引っ張り出して、唯一持っていた白のボタンダウンシャツの皺を丁寧に伸ばした。
新品ではないし、流行の形でもない。
それでも、襟元がぴんと伸びたシャツに袖を通すと、だらしなく曲がっていた背筋が自然と伸びるような気がした。
あの日のように、汗と怯えにまみれたヨレヨレの姿で病院へ行くわけにはいかなかった。
今日は母の手術に関する主治医からの詳しい病状説明と、二度目となる医療福祉相談室での面談が予定されていた。
机の上には、昨日までに準備した書類が青いプラスチックのクリアファイルに整然と収められていた。
市役所の国民健康保険課で即日発行してもらった限度額適用・標準負担額減額認定証。
減免申請のために職員から手渡された必要書類のチェックリスト。
そして、クロードやジーピーと壁打ちしながら、主治医やソーシャルワーカーに確認すべき事項を箇条書きでまとめた質問用のメモ用紙だ。
疑問を曖昧なまま放置せず、紙に書き出して可視化する。
かつては「面倒くさい」と切り捨てられた自分の性質が、今は母を守るための確かな段取りとなって手元にあった。
俺はファイルをカバンに収め、強い日差しが照りつける街へとペダルを漕ぎ出した。
総合病院の外科診察室の前には、すでに車椅子に乗った母の澄子が待っていた。
点滴スタンドを横に置き、少し緊張した面持ちで膝の上に置いた手を握りしめている。
「湊、ちゃんとした服着てきたんだね。髪もさっぱりして……」
母が驚いたように目を細めた。
「身なりくらい整えるよ。これから先生と大事な話をするんだから」
俺が隣の丸椅子に腰を下ろすと、母の強張っていた肩が少しだけ緩んだ。
ドアが開き、中から看護師に名前を呼ばれた。
診察室の中央には、白衣を着た落ち着いた物腰の消化器外科医が座っていた。
机の上の大型モニターには、先週撮影された母の胃の内視鏡画像と、胸部から腹部にかけての造影CT画像が何枚も並んでいる。
「どうぞ、お座りください。お母様の詳しい検査結果が揃いましたので、今後の治療方針についてご説明いたします」
医師はモニターを指し示しながら、淡々と、しかし極めて明瞭に現状を語り始めた。
「出血の原因となっていたのは、胃の幽門部、出口に近い部分にできた進行性の潰瘍性病変です。病理組織検査の結果、悪性腫瘍、つまり胃がんであることが確定しました」
すでに覚悟していた言葉ではあったが、診察室の張り詰めた空気の中で突きつけられると、やはり心臓が小さく軋んだ。
母の指先がかすかに震え、俺は母の背中にそっと手を当てた。
「幸いなことに、遠隔転移を示す明らかな所見は現時点の画像上では見られません。治療の第一選択は、外科手術による胃の切除となります。幽門側胃切除術といって、胃の出口側およそ三分の二を切除し、残った胃と十二指腸または空腸を繋ぎ直す手術を予定しています。同時に、胃の周囲にあるリンパ節も規定の範囲で郭清します」
医師は手元の用紙に胃のイラストを素早く描き、切除するラインを赤ペンで引いて見せた。
「手術日は来週の水曜日を予定しています。全身麻酔で行い、時間は四時間から五時間程度を見込んでいます」
母が不安そうに口を開いた。
「先生……あたしの病気は、どのくらい進んでいるんでしょうか。いわゆる、ステージというのは……」
医師はペンを置き、母と俺の目をまっすぐに見つめた。
「お母様、お気持ちはよく分かります。ですが、胃がんの正確なステージ、つまり進行期は、手術前の画像検査だけで断定することはできません。CTに写らない微小な転移がないか、切除した胃の壁の深くまでがんがどの程度達しているか、そして取り出したリンパ節にどれだけの転移があるかは、手術で摘出した組織を顕微鏡で詳細に調べる術後病理検査を行って、初めて確定診断が下されます」
その説明を聞いた瞬間、俺の頭の中に数日前のAIとのやり取りが鮮明に蘇った。
もしネットの情報を浅く鵜呑みにしていれば、「胃がんで入院=ステージ何」と勝手に思い込んで無用なパニックに陥っていたかもしれない。
病理検査の結果が出るまでは、憶測で一喜一憂してはならないのだ。
「術後はどうなるのでしょうか」
俺は膝の上のクリアファイルからメモを取り出し、落ち着いた声で尋ねた。
「退院までの期間と、退院後の生活について教えてください」
医師は俺のメモに目を留め、わずかに頷いて答えた。
「術後の経過が順調であれば、二日目から離床して歩行練習を始め、数日後から少しずつ流動食を開始します。大きな合併症がなければ、手術からおよそ二週間、入院全体としては約一か月での退院がひとつの目安となります。ただし、胃を大きく切除するため、一度にたくさんの食事を摂ることができなくなります。少量ずつ小分けにして食べる食事療法や、ダンピング症候群と呼ばれる術後特有の不快感への付き合い方が必要になります。また、摘出した病理結果次第では、退院後に再発を予防するための抗がん剤治療、術後補助化学療法をご相談することになります」
丁寧で、決して過度な期待を持たせない誠実な説明だった。
医師からの説明が終わると、同意書の束を受け取り、母は看護師に付き添われて病棟へと戻っていった。
「湊、しっかり聞いてくれて助かったよ」と振り返った母の横顔には、病気と闘う覚悟のようなものが微かに宿っていた。
診察室を出た俺は、そのまま一階の奥にある医療福祉相談室へと足を向けた。
廊下の壁に貼られた案内板に従って歩きながら、胸ポケットのメモを確かめる。
先週、初めてここを訪れた時は、金への恐怖と己の無力さで足が震えていた。
だが今は、母の手術という現実の荒波を前にして、自分が何をすべきかを見定めるための面談だった。
二度目となる木目調のドアの前に立ち、ノックを二回鳴らした。
「どうぞ」
中から聞こえた声に応じてドアを開けると、白石陽菜さんがデスクから立ち上がるところだった。
紺色のスラックスに、落ち着いたグレーのカーディガン。
名札には先週と同じ『医療ソーシャルワーカー 白石陽菜』の文字がある。
彼女は俺の姿を認めた瞬間、ほんの一瞬だけ目を見張り、それからふわりと表情を綻ばせた。
「佐伯さん、お待ちしておりました。どうぞ、お掛けください」
勧められたパーテーション内のブースに進み、椅子に腰を下ろす。
先週と変わらない静かな空間だったが、机の片隅には、先日の夕方に廊下で見かけたような分厚いカルテと各種申請書類のファイルが、幾重にも高く積み重ねられていた。
彼女が日々背負っている業務の重みが、その紙の束から無言で伝わってくる。
「お母様の術前説明、外科の先生からお聞きになられたのですね」
白石さんは手元の相談記録を開きながら、穏やかな眼差しを向けてきた。
「はい。来週の水曜日に幽門側胃切除の手術を受けることになりました。病理検査の結果次第で今後の治療が決まることや、入院期間が全体で約一か月になる見込みについても伺いました」
俺はカバンからクリアファイルを取り出し、中から一枚のラミネート加工された証書を取り出して机の上に置いた。
「先週教えていただいた『限度額適用・標準負担額減額認定証』ですが、先日のうちに市役所へ行って発行してもらい、病院の一階窓口へ提出を済ませてきました」
白石さんは机の上の証書と控えに視線を落とし、それから驚いたように顔を上げた。
「もう手続きを済まされたのですね。迅速に動いていただき、ありがとうございます。これで今月分の保険診療費については、窓口でのお支払いが世帯の自己負担限度額までに抑えられます」
「はい。それで、今日はお母様の手術と今後の入院生活に向けて、費用と退院後の見通しについていくつか確認させていただきたくて、メモをまとめてきました」
俺は四つ折りにした質問リストを広げ、机の上に置いた。
白石さんの瞳に、明らかな驚きの色が走った。
先週、ボサボサの髪にヨレたチノパンで現れ、「俺は引きこもりで、一円も出せない穀潰しです」と涙声で震えていた青年の姿は、そこにはなかった。
襟付きのシャツを着て背筋を伸ばし、制度の書類をファイリングし、要点を整理して座っている。
「……佐伯さん、すごくしっかりとご準備されたのですね」
感嘆の混ざった柔らかな声に、俺は少し照れくさくなりながらも首を横に振った。
「いえ、分からないことばかりなので、整理しないとパニックになってしまう性格なだけです。白石さんのお時間を無駄に取らないためにも、確認したい点を三つに絞ってきました」
「ありがとうございます。とても助かります。ぜひ、お聞かせください」
白石さんはペンを手に取り、真摯な姿勢で俺の言葉を待ってくれた。
「一つ目は、高額療養費の月跨ぎの計算についてです」
俺はメモの一番上の項目を指差した。
「母の手術は来週、八月の下旬に行われます。入院期間が約一か月ということは、退院は九月の中旬以降になります。高額療養費制度の自己負担限度額は『毎月一日から末日まで』の暦月単位で計算されると調べました。ということは、八月分の入院費と九月分の入院費で、それぞれ別々に自己負担限度額までの支払いが発生する、という理解で合っていますでしょうか」
白石さんは目を見張り、それから力強く頷いた。
「その通りです、佐伯さん。非常によく調べていらっしゃいますね。おっしゃる通り、高額療養費は月単位の計算となりますので、月を跨いで入院された場合、それぞれの月ごとに自己負担限度額の枠が適用されます。月を跨ぐことで窓口での負担総額が一時的に二か月分発生することは、ご家族にとって大きな注意点になります」
「分かりました。二か月分の限度額の現金を手元に用意しておく必要があるということですね」
俺はメモにチェックを入れた。
昨夜稼いだ一万円と、母の通帳の残高を頭の中で計算する。
厳しい数字だが、あらかじめ分かっていれば手の打ちようはある。
「二つ目は、食事療養費についてです。非課税世帯の減額認定を受けたことで、一食あたりの標準負担額は安くなりましたが、これは退院時に食事の回数分をまとめて支払う形になりますか」
「はい。食事代は高額療養費の限度額とは完全に別枠で計算され、召し上がった回数分が一食ごとの減額単価で合算され、退院時の請求に含まれます」
「承知しました。そして三つ目ですが、退院後の外来診療についてです。先生から、術後の経過によっては飲み薬による抗がん剤治療を外来で続ける可能性があると伺いました。通院での治療になった場合も、この限度額認定証は外来窓口でそのまま使えるのでしょうか」
白石さんは感心したように小さく息を呑み、ペンの背で書類を軽く指した。
「はい、使えます。ただし、外来診療の高額療養費は、入院とは別枠で計算される点にご注意ください。また、同じ月内であっても、病院の窓口と、処方箋を持っていく調剤薬局の窓口では、それぞれ別々に一部負担金を支払うことになります。それぞれの窓口で限度額を超えた場合はその場で抑えられますが、病院と薬局の支払いを合算して上限を超えた分については、後からご自身で市区町村の国保窓口へ申請して払い戻しを受ける必要があります」
「病院と薬局で別々に計算されて、合算は後から申請……なるほど、そこは見落としていました」
俺は白石さんの言葉を一文字も漏らさぬよう、メモ帳へ素早く書き留めた。
制度の表面をなぞるだけでは決して分からない、現場の運用のリアルがそこにあった。
一人でネットの海を彷徨っているだけでは辿り着けない境界線を、目の前の専門職が正確に繋いでくれる。
一通りの確認を終え、俺はペンを置いた。
「白石さん、ありがとうございます。これで、手術から退院、その後の通院まで、どれくらいの費用がどのタイミングで必要になるのか、道筋が見えました」
白石さんは手元の相談記録を閉じ、両手を膝の上で重ねて、静かに俺を見つめた。
その瞳には、先週の同情や痛ましさの色はなく、一人の自立した患者家族に対する深い敬意が宿っていた。
「佐伯さん。先週初めてお会いした時と比べて、お顔つきがとても引き締まられましたね。お母様が突然倒れられて、ご自身も六年間のブランクがあると仰っていたので、どれほど心細い思いをされているかと案じておりました。ですが、ご自身で役所に走り、制度を正しく理解し、こうしてご家族として堂々と向き合っていらっしゃる。本当に素晴らしいと思います」
面と向かって真っ直ぐに褒められ、俺は首の後ろが熱くなるのを覚えた。
「……俺なんて、何も立派なことはしていません。ただ、母が入院したのに一円も稼げない自分が情けなくて、必死で調べただけです。それに、先週白石さんが『一人で抱え込まなくていい、公的な仕組みがある』と教えてくださらなかったら、俺は今でも部屋の隅で頭を抱えていたと思います」
俺は机の端に積まれた分厚いファイルの山に視線を向けた。
「先日、夕方に廊下でお見かけしました。白石さんがたくさんの書類を抱えて、走り回っていらっしゃる姿を。ソーシャルワーカーさんのお仕事って、本当に大変なんですね。患者さん一人ひとりの家庭の事情を聞いて、これだけの書類を作って……」
白石さんは少し照れたように眉を下げ、苦笑いを浮かべた。
「お恥ずかしいところを見られてしまいましたね。医療ソーシャルワーカーの仕事は、患者さんやご家族が安心して治療を受け、元の生活に戻れるようにお手伝いすることです。ですが、現場ではどうしても制度の申請書類や関係機関との調整業務に追われてしまって……もっと患者さんとゆっくり対話する時間を作りたいのに、書類の山に埋もれて一日が終わってしまうことも多くて。私自身、まだまだ力不足を感じる毎日です」
その言葉には、専門職としての確かな矜持と、現場の重圧に押し潰されそうになりながらも踏みとどまる、生身の葛藤が滲んでいた。
誰かを助けるための制度が、複雑すぎるがゆえに、助ける側の人間をも疲弊させている。
前話で見かけた彼女の切迫した表情の理由が、腑に落ちた気がした。
「白石さんは、力不足なんかじゃないです」
俺は思わず口を開いていた。
「俺と母は、白石さんに救われました。あの時、白石さんが丁寧に話を聞いてくれたから、俺は一歩を踏み出すことができたんです。どうか、あまりご無理なさらないでください」
白石さんは驚いたように目を瞬かせ、それから心からの温かい笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、佐伯さん。そのお言葉をいただけて、今日一日、また頑張れそうです」
担当の専門職と、患者の家族。
その境界線を越えることはない。
私的な連絡先を聞くことも、踏み込んだ世間話をすることもない。
けれど、相談室の狭い空間に流れる空気には、確かな信頼の糸が一本、静かに通い合っていた。
「では、来週の手術が無事に終わることを私も祈っておりますね。何か不安なことや、退院後の介護保険の利用などで相談があれば、いつでもお声がけください」
「はい。よろしくお願いいたします」
深く一礼して、俺は医療福祉相談室を後にした。
病院を出ると、正午の太陽が街を白く照らし出していた。
母の手術への不安が完全に消えたわけではない。
切除後の後遺症や、病理検査のステージ確定という重い現実が、この先も待ち受けている。
だが、費用と制度の霧は晴れた。
あとは、自分が必要な資金を稼ぎ出し、母の背中を支え続けるだけだ。
帰宅した俺は、すぐに作業用のノートパソコンを開いた。
午前中に得た一次情報と白石さんのアドバイスを、忘れないうちにスプレッドシートの家計管理表へと打ち込んでいく。
八月分の自己負担額、九月分の自己負担額、入院時食事療養費の概算。
数字を積み上げていくと、母の退院までに最低限稼がなければならない目標額が、明確な輪郭を持って浮かび上がってきた。
「もっと、案件を獲らなきゃいけない」
昨日稼いだ一万円に満足している暇はなかった。
俺はクラウドソーシングのマイページを開き、新しい仕事を探すために案件一覧のタイムラインをスクロールした。
シニア向けメディアのリサーチ業務は継続が決まっているが、週二、三本ペースではまとまった金額になるまでに時間がかかる。
データ入力や、初心者向けの簡単な記事作成など、並行してこなせる案件を増やそうと考えたのだ。
しかし、案件一覧の画面を眺めていた俺の指が、ふと止まった。
画面に並ぶ募集要項の数字を見て、奇妙な違和感を覚えたからだ。
『指定キーワードに関するブログ記事作成(二千文字)』
提示されている報酬は、一本あたり三百円。
文字単価に換算すると、わずか〇・一五円だった。
別の案件を見る。
『ネット上の情報まとめと簡単なコラム執筆(三千文字)』
報酬は五百円。
「……安すぎるだろ」
思わず声が漏れた。
先週、最初に登録した時に見た相場よりも、さらに一段、単価が崩壊しているように見えた。
何十件ものライティング案件が、目を疑うような低価格で買い叩かれ、それでも数百件の応募が群がっている。
なぜだ。
なぜ、こんな異常な安さで仕事が溢れかえっているのか。
俺は三つのブラウザを開き、市場の異変を探るため、リサーチの足軽たちへ問いを投げかけた。
その先で俺が突きつけられたのは、急速に普及し始めた生成AIがもたらした、残酷な仕事の破壊と買い叩きの現実だった。
読んでいただきありがとうございます。
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