EP 8
【 初めて自分で稼いだ一万円】
足元に滑り落ちてきた一枚の書類を、俺は反射的にしゃがみ込んで拾い上げた。
紙面には、退院支援計画書という太い文字と、幾つものチェック項目、そして患者の家族状況や介護保険の申請状況を記す細かな枠線がびっしりと並んでいた。
個人情報が目に入らないよう、文字の面を下に向けてすっと両手で差し出す。
「あの、白石さん、落としましたよ」
「あ……ありがとうございます、佐伯さん。すみません、慌てていて」
白石陽菜さんは胸元に抱えたファイルの山を整えながら、申し訳なさそうに頭を下げた。
整った横顔には隠しきれない疲労の色が滲んでおり、いつも相談室で見せてくれる穏やかな微笑みは、張り詰めた緊張感に取って代わられていた。
「お母様のご様子はいかがですか? 来週の火曜日に詳しい検査結果の説明と、外科の先生からの術前説明が入る予定になっていますが」
息を整えながら、白石さんは自分の仕事の顔に戻って問いかけてくれた。
廊下の蛍光灯の下、小走りで移動していたせいか、彼女の白い首筋にはうっすらと汗が光っている。
これだけの書類を一人で抱え、何人もの患者や家族の事情を聞き、病院中を走り回っているのだ。
「はい、母はすごく落ち着いています。先ほどゼリーを渡したら、喜んで食べてくれました。白石さんも……あまり無理なさらないでください」
不器用な言葉しか出てこなかったが、白石さんは丸い瞳をわずかに和ませ、小さく頷いた。
「ありがとうございます。佐伯さんも、ご自身のお身体を大切になさってくださいね。では、失礼いたします」
白石さんはもう一度丁寧に一礼すると、重そうなファイルを抱え直して、ナースステーションの奥へと小走りに去っていった。
遠ざかる背中を見送りながら、俺は胸の奥に淡い痛みを覚えていた。
誰かを支える仕事というのは、これほどまでに過酷で、泥臭いものなのか。
自分もまた、母を支える一人の人間として、もっと強くならなければならないと背筋が伸びる思いだった。
アパートへ戻ると、部屋の空気はすっかり夜の冷たさを帯びていた。
デスクの前に座り、パソコンを立ち上げる。
クラウドソーシングのメッセージ画面を開くと、先ほどテスト案件を合格にしてくれたシニア向けメディアの担当者から、追加の連絡が入っていた。
『佐伯様、早速の継続承諾をいただき誠にありがとうございます。
実は急ぎで恐縮なのですが、現在編集部で進めている別の特集記事で、公的年金受給者の加給年金および振替加算の要件整理が必要となりました。
前任のライターが作成した資料に不備が多く、早急に一次資料に基づいた確認表を作り直したいと考えております。
もし明日中にお引き受けいただけるようでしたら、特急料金を含めて追加で七千円をお支払いいたします。
前回のテスト報酬三千円と合わせて、今回の区切りで合計一万円の報酬とさせていただきたく存じます。いかがでしょうか』
追加で、七千円。
テスト報酬の三千円と合わせれば、ちょうど一万円になる。
画面を見つめる俺の心臓が、トクンと跳ね上がった。
一万円。
六年間、社会から逃げて部屋の隅で膝を抱えていた俺にとって、それは目も眩むような大金だった。
母の財布から千円札を抜いてコンビニに行くことすらできなかった男が、たった二日間、自分の頭と手を使って稼ぎ出す金額としては、あまりにも重たく、神々しい数字に見えた。
だが、甘い話には必ず裏がある。
前任者が不備を出して投げ出した急ぎの案件だ。
生半可な調べ方では、またAIのハルシネーションに足をすくわれ、今度こそ信用を失うことになる。
俺は両手のひらを太ももで強く拭い、覚悟を決めてキーボードを叩いた。
『お引き受けいたします。厚生労働省および日本年金機構の公式通知を確認し、加給年金の支給停止要件、振替加算への移行プロセス、加算額の生年月日別早見表を一次資料と照合して作成いたします』
送信ボタンを押し、俺は三つのAIを立ち上げた。
ここからは、昨夜身につけた「AIを足軽として使い、一次資料で裏を取る」泥臭い戦いの再現だった。
ジーピーには、制度の分岐条件の洗い出しを命じた。
「加給年金が支給されるための被保険者期間の要件と、配偶者の年金受給権が発生した際の支給停止事由を、論理的な条件分岐として整理しろ」
ジーピーは感情を交えず、被保険者期間が原則二十年以上であること、配偶者が受給する年金の種類による停止パターンのフローチャートを瞬時に構築した。
ジェミニには、公的データの抽出を担当させた。
「日本年金機構の最新の加給年金額・振替加算額の一覧表から、昭和六十一年法改正に伴う経過措置の生年月日別支給率のPDFリンクと文書番号を特定しろ」
ジェミニは膨大なウェブの海から、年金機構の公示資料を数秒で引き当ててみせた。
そして、クロードには編集者としての推敲を依頼した。
「この複雑な生年月日ごとの経過措置を、読者が自分の親や配偶者に当てはめて直感的に理解できるよう、平易で無駄のない解説文として構成してくれ」
クロードは難解な法律用語を、温かみのある、誰にでも届く日本語へと変換していった。
だが、画面に並んだパーツをそのまま使うことは絶対にしない。
俺は日本年金機構の分厚いパンフレットPDFを画面に広げ、昭和何年何月何日生まれという細かい日付の境界線を、マウスのカーソルで一文字ずつなぞりながら照合した。
数字の一箇所でも狂えば、それは読者の生活を狂わせる毒になる。
かつて面接官の黒川に「融通が利かない」と笑われた偏執的な確認癖が、キーボードを叩く指を淀みなく前へと進めてくれた。
気がつけば、窓の外が白み始めていた。
午前六時。
完成したスプレッドシートには、加給年金と振替加算の受給要件、必要書類、生年月日別の加算額、そして参照した公式ページのURLが整然と並んでいた。
ミスは、一つもない。
俺はクロードに整えてもらった丁寧な納品メッセージを添えて、提出ボタンをクリックした。
それからわずか二時間後、編集部から返信が届いた。
『佐伯様、完璧な納品をありがとうございます。
短時間でこれほど正確に経過措置の境界値まで網羅していただけるとは思っていませんでした。
編集長も大変感銘を受けております。
お約束通り、特急手当を含めた七千円の増額修正を行い、テスト案件の三千円と合わせて合計一万円の検収を承認いたしました』
画面が切り替わり、クラウドソーシングの獲得報酬残高が、青い太字で更新された。
『確定報酬額:一〇、五〇〇円(システム利用手数料控除後:八、四〇〇円)』
画面に表示された数字を見つめた瞬間、全身の筋肉から一気に力が抜けた。
八千四百円。手数料を引かれても、手元に残る純然たる対価だ。
俺は震える手で、サイトの出金申請ボタンを押した。
クイック出金の手続きを選び、母から預かっている我が家の生活費決済用の地方銀行口座へと振り込みを指示する。
数分後、スマートフォンのバンキングアプリを開いた。
ログイン画面を抜け、普通預金の残高照会をタップする。
画面が読み込みの円を描き、そしてパッと切り替わった。
『入金:カブシキガイシャ〇〇 +八、四〇〇円』
『差引残高:二三、四二〇円』
一万五千円足らずまで減っていた口座の残高が、確実に増えていた。
その数字を見た途端、胸の奥から熱い塊が込み上げてきて、喉が詰まった。
机の上に置かれた通帳を手に取り、記帳しに行こうと立ち上がったが、膝がガクガクと震えてうまく力が入らなかった。
俺が、稼いだのだ。
誰かに頭を下げて恵んでもらった金ではない。
母のパート代からくすねた金でもない。
二十四年間、部屋の暗闇の中で社会を呪い、自分を責め続けていた引きこもりの男が、自分の頭を使い、自分の指を動かし、社会の誰かの役に立った結果として振り込まれた、紛れもない一万円だった。
涙が次から次へと溢れ出して、スマートフォンの画面を濡らした。
画面を袖口で拭い、俺は何度も、何度もその入金の文字を指先でなぞった。
一万円。
世間の人から見れば、飲み会二回分、あるいは一日のバイト代にも満たない額かもしれない。
だが、俺にとっては、止まっていた六年間の時計を完全に打ち破る、命の重みを持った一万円だった。
顔を洗い、歯を磨いて、俺は自転車に飛び乗った。
八月の朝の澄んだ風が、汗ばんだ額を吹き抜けていく。
いつもの駅前通り、いつもの踏切、いつものスーパーの看板。
昨日まで自分を責め苛むように重苦しく見えていた街の景色が、まるで色を取り戻したかのように鮮やかに見えた。
銀行のATMに立ち寄り、緑色のプラスチックの通帳を差し込む。
ジジジ、と印字ヘッドが激しく動く音が、狭いブースの中に響き渡る。
吐き出された通帳を開くと、真新しい黒いインクで、先ほどのアカウントからの振込記録と、増えた残高がしっかりと紙に刻まれていた。
俺はその通帳を両手で大切に抱きしめ、胸ポケットにしまい込んだ。
総合病院のエントランスを抜け、四階の病室へと足早に向かう。
エレベーターを待つ時間すらもどかしく、階段を一気に駆け上がった。
四階の廊下を曲がり、母の病室の前で立ち止まって、荒くなった息を整えた。
カーテンを静かに引く。
「母さん」
ベッドの上で、澄子は雑誌をパラパラとめくっていた。
点滴の針はまだ腕に留置されていたが、顔色は昨日よりもずっと自然な血色を取り戻していた。
「湊? ずいぶん早いね。息が上がってるじゃないか、走ってきたのかい?」
俺は丸椅子を引き寄せ、母のベッドの脇に座った。
呼吸を整えようとしたが、胸の奥の震えが止まらない。
俺は胸ポケットから、さっき記帳してきたばかりの通帳を取り出し、母の膝の上にそっと置いた。
「これ、見てほしいんだ」
澄子は不思議そうに眉を寄せ、通帳を開いた。
そして、一番下の行に刻まれた真新しい印字に視線を落とした。
『入金 +八、四〇〇円』
「これ……何のお金だい? 市役所の給付金か何かが入ったのかい?」
澄子が顔を上げ、戸惑ったように俺を見つめる。
俺は首を横に振った。
「違うよ、母さん。俺が、働いて稼いだお金だ」
病室の空気が、ふっと止まった。
窓の外から聞こえる蝉の声だけが、静かに響いていた。
「パソコンを使って、公的制度の調べものをする仕事をしたんだ。昨日、徹夜で年金の計算ルールを全部調べて、企業の人に納品した。その仕事の報酬として、今日、振り込まれたんだよ。最初の一万円だ」
澄子の瞳が、大きく見開かれた。
通帳の文字と、俺の顔を、信じられないというように何度も見比べる。
やがて、その痩せた指先が、カタカタと震え始めた。
「湊が……自分の力で……?」
声が掠れていた。
「うん。六年間、ずっと何もできなくて、部屋に閉じこもって、母さんに全部背負わせてごめん。でも、母さんが倒れて、俺、このままじゃ駄目だと思ったんだ。役所に行って、制度を調べて、仕事を探した。俺の性格は面倒くさくて社会じゃ通用しないって昔言われたけど……でも、ちゃんと調べて役に立てる仕事があったんだ」
言葉を紡ぐたびに、胸の奥底から熱いものが溢れ出して止まらなかった。
「まだ、たったの一万円だよ。今月の入院費を払うには全然足りないし、家賃だってまだまだだ。でも……俺、絶対に諦めないから。これからも仕事を続けて、母さんの医療費も、生活費も、俺がちゃんと稼ぐから」
澄子の目から、堰を切ったように大粒の涙がこぼれ落ちた。
点滴のテープが貼られた両手で通帳を強く抱きしめ、顔を覆うようにして肩を震わせた。
「湊……湊……」
言葉にならない嗚咽が、静かな病室に漏れた。
母がこんなふうに声を上げて泣く姿を、俺は父と離婚したあの時以来、一度も見たことがなかった。
六年間、俺が部屋から一歩も出ず、昼夜逆転でネットに逃げ込んでいた間、母はどれほどの絶望と孤独を抱えていたのだろう。
どれほど自分を責め、終わりの見えない暗闇の中で息を殺していたのだろう。
「母さん、泣かないでくれよ」
俺が言うと、母は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、必死に首を振った。
「悲しくて泣いてるんじゃないよ……嬉しいんだよ……。あんたが、あんたが自分の足で歩き出してくれたことが……あたしは何よりも嬉しいんだ……」
母は震える手を伸ばし、俺の手をぎゅっと握りしめた。
その温もりと、骨張った感触が、俺の掌に痛いほど伝わってきた。
「病気になって、血を吐いて倒れたときは、あたしの人生はもうおしまいだって思った。でも……神様が、あんたを部屋から連れ出すために、あたしを病気にしたのかもしれないね。湊が元気で、前を向いて生きてくれるなら……あたし、いくらだって手術も治療も頑張れるよ」
「そんなこと言うなよ。母さんの病気は、俺が絶対に治させる。そのために俺が働くんだから」
俺は母の手を両手で包み込み、力強く言い返した。
もう、二度と目を逸らさない。
母の細くなった腕も、点滴の管も、病院の重苦しい空気も、すべてを受け止めて背負うのだ。
母は何度も涙を拭いながら、通帳の文字を愛おしそうに撫でていた。
「この通帳、一生の宝物にするよ。使わないで、ずっと取っておきたいくらいだね」
「何言ってるんだよ。これは母さんの食事代に使うんだよ。来月にはもっとたくさん稼いで、通帳の桁を増やしてやるからさ」
俺が笑うと、母も涙に濡れた顔で、心から嬉しそうに破顔した。
病室を出た時、時計は午前十一時を回っていた。
廊下の窓からは、どこまでも青く突き抜けた夏の空が広がっていた。
入金された八千四百円。
それは母を救うための戦いの、ほんの序章にすぎない。
だが、俺たちの絶望の物語は、今日、確実に希望の物語へと塗り替えられたのだ。
エレベーターホールへ向かって歩き出したその時、ナースステーションのカウンターから、聞き慣れた声が響いてきた。
「ですから、限度額適用の申請手続きについては、ご家族の方に区役所へ行っていただく必要がありまして……はい、私が書類の書き方を……」
白石さんだった。
受話器を耳に挟みながら、手元の分厚いファイルをめくり、早口で説明を続けている。
その机の周りには、朝見かけた時よりもさらに高く、書類の束が積み上がっていた。
俺は足を止め、その光景をじっと見つめた。
自分を助けてくれた公的制度。
そして、その制度と患者の狭間で、押し潰されそうになりながら必死にペンを走らせる現場の人間。
俺の胸の奥で、カチリと何かの歯車が噛み合う音がした。
読んでいただきありがとうございます。
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