EP 7
【 面倒くさい奴の武器】
真夏の強い西日が、遮光カーテンの隙間から細い帯のように差し込んでいた。
室温計の針は三十度を軽く超え、古びた扇風機が埃の溜まったプロペラをギシギシと軋ませながら回っている。
机の上のマグカップには、いつ淹れたのかも思い出せない冷めきったインスタントコーヒーが半分残っていた。
徹夜明けの重い頭を抱えながら、俺は画面から目を離さずにいた。
提出期限の夜二十一時まで、あと三時間を切っている。
液晶画面の光で目が激しく充血し、瞬きをするたびに目頭に砂が入ったような痛みが走った。
それでも、マウスを握る手とキーボードを叩く指を止めるわけにはいかなかった。
昨夜、ジェミニが自信満々に出力してきた「一律三万円控除」「支給停止率は六パーセント」という大嘘。
危うくそれを鵜呑みにして大事故を起こしかけた恐怖は、今も背筋の奥を冷たく震わせている。
掲示板でAIガチ勢ニキに叩き込まれた言葉が、頭の中で何度もリフレインしていた。
AIは答えを出す機械じゃない。調べるための入口だ。一次資料で裏を取れ。
俺が画面上で構築したのは、二重三重の検証体制だった。
まず、厚生労働省の公式資料と日本年金機構の業務手引きPDFを、画面の左側に隙間なく並べた。
中央には、クライアントから指定された納品用のフォーマット。
そして右側の狭いウィンドウに、三つのAIを並列で配置した。
ジーピーには、難解な法律用語の構文分解を命じた。
「この『特別支給の老齢厚生年金』と『在職老齢年金による支給停止』の計算順序について、算式が分岐する条件の境界値だけを箇条書きで示せ。結論や要約は書かなくていい」
ジーピーは感情を排した軍師のように、数式の因果関係を淡々と分解して返してくる。
ジェミニには、公的機関の一次資料の所在確認を徹底させた。
「令和以降の雇用保険法施行規則の改正履歴から、高年齢雇用継続給付の激変緩和措置が記載されている公式PDFの正確な文書番号を検索しろ。解説文は不要だ」
ジェミニは軽快なフットワークで官公庁のウェブサイトを横断し、最新の通達文書のありかをピンポイントで突き止めてみせた。
そして、クロードには読者視点での文章校正を頼んだ。
「この公的資料の条文を、シニア層が読むWeb記事の構成案として、専門用語を崩さずに最も誤解なく伝わる日本語に推敲してくれ。ただし、制度の例外事項を勝手に削らないこと」
クロードは丁寧な編集者の筆致で、冷たい法律の条文を、血の通ったわかりやすい解説へと磨き上げてくれた。
だが、彼らがどれほど素晴らしいパーツを吐き出そうとも、俺は絶対にそれらをそのまま貼り付けることはしなかった。
年金機構の分厚い手引きを開き、一行一行、指差し確認をする。
支給停止率の上限は、標準報酬月額の最高三・〇一パーセント。
受給資格を満たすための雇用保険の被保険者期間は、通算五箇年以上。
賃金の低下率が六十一パーセント以下の場合の計算式と、六十一パーセント超七十五パーセント未満の場合の逓減係数。
数字の一桁、パーセンテージの小数点以下第二位、カッコ書きの適用除外規定に至るまで、公的機関の原文と寸分違わず合致しているかを、俺は執拗に目で追った。
途中で、自分でも笑いそうになるほどの確認癖が顔を出した。
「この法令の施行日は、本当に今も有効なのか」
気になって電子政府の総合窓口で現行法令の条文番号を照合する。
「クライアントが求めているのは基礎リサーチだが、来年度以降に予定されている法改正のスケジュールを注記しておかないと、記事がすぐに古くなってしまうのではないか」
厚生労働省の審議会資料まで遡り、今後の給付率引き下げのスケジュールを備考欄に小さく書き添えた。
十八歳の夏、事務機器販売会社の面接室で、黒川に吐き捨てられた言葉が脳裏をかすめた。
『規則だの条件だのを重箱の隅をつつくように気にする、面倒くさい奴』
『そういう融通の利かない人間は、どこに行っても通用しないよ』
あの時は、その言葉に心を粉々に砕かれた。
自分の几帳面さ、疑り深さ、細部にこだわってしまう性質は、社会で生きていくうえで邪魔にしかならない欠陥なのだと思い込まされた。
だが、今はこの薄暗い部屋で、その面倒くさい性格だけが俺を支えていた。
いい加減に流せない。大雑把に済ませられない。
曖昧なものを曖昧なまま放置できないからこそ、俺はAIの嘘を見抜き、複雑怪奇な制度の迷宮から正確な一本の糸を手繰り寄せることができているのだ。
時計の針が、夜の二十時を指した。
完成したリサーチシートを、最初から最後まで通して読み返す。
第一章、高年齢雇用継続給付の受給要件と支給額の算定構造。
第二章、特別支給の老齢厚生年金との併給調整における停止額の正確な計算式。
第三章、在職老齢年金との二重調整のプロセスと具体例。
第四章、申請に必要な公的書類のチェックリストと、今後の制度改正の見通し。
すべての項目に、参照した厚生労働省および日本年金機構の公式ページのURLと、該当する手引きのページ番号を併記した。
AIが作ったそれっぽい文章の面影は、もうどこにもない。
AIの検索力と整理力を徹底的に利用しながら、俺自身の泥臭い確認作業によって組み上げられた、隙のない調査資料だった。
メッセージ入力欄を開き、クロードに整えてもらった丁寧な納品メッセージを貼り付ける。
『お世話になっております。佐伯湊です。
ご提示いただきましたテスト課題につきまして、リサーチ資料をまとめましたので提出いたします。
公的機関の最新の一次資料(厚生労働省令および日本年金機構の業務手引き)に基づき、数字の算出根拠や今後の法改正スケジュールも含めて整理いたしました。
ご確認いただき、修正点や追加のご要望がございましたら何なりとお申し付けください』
送信ボタンの上に、マウスのカーソルを乗せる。
指先は、今朝のような恐怖の震えではなく、全力を出し切ったあとの心地よい緊張感でかすかに強張っていた。
カチリ。
クリック音が部屋に響き、送信完了の文字が表示された。
納品を終えた瞬間、糸が切れたように身体の力が抜け、背もたれに深く沈み込んだ。
全身の筋肉が強張り、首の筋が悲鳴を上げている。
だが、心地よい疲労感だった。
やれることはすべてやった。これで不採用だと言われたら、今の俺の力不足だったと諦めるしかない。
喉を潤そうと台所へ立ち、水道から冷たい水をコップに注いで一気に飲み干した。
空っぽの胃に水が染み渡る。
母が倒れたあの日の夜から、まだ一週間も経っていない。
あの時は、世界の終わりが来たような絶望の中で、ただ震えていた。
それがいま、自分は誰かから依頼された仕事を、自分の頭と手を使ってやり遂げたのだ。
部屋に戻り、パソコンを閉じようとしたその時だった。
ピコン、と高い電子音が鳴り、画面の右上に赤い通知マークが浮かび上がった。
納品から、まだ三十分も経っていない。
「もう返信が来たのか……?」
心臓がトクンと嫌な跳ね方をした。
早すぎる。形式的な不備があって、即座に差し戻されたのではないか。
あるいは、内容があまりに硬すぎて「こんなものは求めていない」と突き返されたのか。
恐怖を押し殺しながら、震える手で通知をクリックした。
開かれたチャット画面には、発注者であるクライアントからの長文のメッセージが届いていた。
『佐伯様
迅速なご納品をありがとうございます。
提出いただいたリサーチシートを拝見いたしました。
……正直に申し上げて、大変驚いております。
クラウドソーシングでリサーチやライティングを募集すると、最近はAIの出力をそのまま貼り付けただけのような、数字の根拠も怪しい粗悪な納品物が大半を占めており、弊社の編集部でも事実確認に莫大な工数を取られて頭を抱えておりました。
しかし、佐伯様からいただいた資料は、すべての数字に正確な一次資料の出典とページ数が明記されており、制度の複雑な計算式も完璧に整理されていました。
特に、来年度以降の給付率の見直しについて備考欄に注記していただいた点には感銘を受けました。弊社のメディアが求めている正確性と将来性を、完璧に理解してくださっています。
編集部で事実確認を行いましたが、修正をお願いする箇所は一切ございません。
完全な合格とさせていただきます』
画面の文字を、俺は何度も、何度も読み返した。
涙が込み上げてきて、視界が滲んだ。
修正をお願いする箇所は、一切ございません。
完全な合格。
メッセージは、さらに続いていた。
『つきましては、今回のテスト案件の報酬三千円を検収承認させていただきます。
また、もし佐伯様のスケジュールが許すようでしたら、来月以降、当メディアの公的制度・社会保障関連記事のリサーチ業務を、継続してご担当いただけないでしょうか。
まずは週に二本から三本程度、月額にして三万円前後の規模でお願いできればと考えております。
ご検討いただけますと幸いです』
「月額……三万円……」
声が震えて、掠れた。
三千円のテスト報酬の確定。
そして、月額三万円の継続案件の打診。
画面を見つめる俺の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ち、机の上に落ちて丸い染みを作った。
六年前、黒川に言われた言葉。
『お前みたいな面倒くさい奴は、どこに行っても通用しない』
嘘だった。
あの男の言葉は、世界の真実なんかじゃなかった。
細かいことを気に病み、石橋を叩いて壊すほど確認せずにはいられない俺の面倒くささは、いい加減な情報が溢れかえるこのネットの世界で、確かに誰かの役に立ったのだ。
欠陥品だと自分を呪い続けてきた性質が、初めて社会の中で、正当な価値として認められた。
俺は鼻をすすりながら、キーボードを叩いて丁重な承諾の返信を送信した。
クラウドソーシングの管理画面を開くと、獲得報酬の欄に、昨夜の五百円に加えて新しく三千円が加算されていた。
手数料が引かれたあとの数字が、青い画面に誇らしげに並んでいる。
胸の奥の重苦しい靄が、一気に晴れ渡っていくような気がした。
まだ、母の医療費の全額を賄えるわけではない。
来月以降の生活費だって、まだまだ足りない。
けれど、時給百円の単純作業から、俺は確かに一歩を踏み出したのだ。
時計を見ると、面会時間の終了まであと一時間あった。
俺は急いで顔を洗い、ヨレていない方のポロシャツに着替えた。
財布の中には、昨夜稼いだ五百円玉がまだ残っている。
駅前のスーパーへ自転車を走らせ、果物売り場で足を止めた。
母が好きだった、みかんと桃の果汁が入った少し高めのゼリーが、二つで四百円で売られていた。
レジに五百円玉を出し、お釣りの百円を受け取る。
自分の力で稼いだ金で、母のために買い物をした。
たったそれだけのことなのに、自転車のペダルを踏む足が、これまでの人生のどんな時よりも軽く感じられた。
総合病院の四階、母の病室へと急ぐ。
廊下の窓からは、沈みゆく夕日が街並みを茜色に染め上げていた。
病室のドアを静かに開けると、ベッドの上で読書をしていた母が、驚いたように顔を上げた。
「湊? こんな時間に、どうしたんだい」
「母さん、これ。ゼリー買ってきたよ」
ビニール袋からゼリーを取り出して枕元のテーブルに置くと、母は目を細めて微笑んだ。
「まあ、ありがとう。でも、あんまり無理して無駄遣いしちゃ駄目だよ。湊のお金なんだから」
「無駄遣いじゃないよ」
俺は丸椅子を引き寄せて座り、母の顔をまっすぐに見つめた。
「母さん、俺、仕事が決まったよ。パソコンで調べる仕事だ。今日、初めてまとまったお金を稼げたんだ。来月からも、続けて仕事をもらえることになった」
母は一瞬、何を言われたのか分からないというように目を瞬かせた。
そして、俺の顔と、テーブルの上のゼリーを交互に見つめ、その瞳にみるみるうちに涙を溜めていった。
「本当かい……? 湊が、仕事を……」
「うん。本当だよ。だから、お金のことはもう心配しなくていい。俺がちゃんと稼ぐから」
母の手を握ると、母は点滴の刺さっていない方の手で、俺の手をぎゅっと握り返してきた。
その手は小さくて、少し骨張っていて、温かかった。
母の目からこぼれた涙が、シーツに吸い込まれていく。
「よかった……本当によかった……。湊、頑張ったね……」
何度も、何度も頷きながら涙を流す母を見て、俺もまた涙を堪えることができなかった。
暗闇の中で立ち止まっていた六年間は、もう終わったのだ。
母を救うために。そして、自分自身の人生を取り戻すために。
俺はここから、もっと先へと進まなければならない。
面会時間を告げる院内アナウンスが流れ、俺は母に手を振って病室を出た。
静まり返ったナースステーションの前を通り過ぎ、エレベーターへ向かって歩き出す。
その時、ナースステーションの奥から、白衣を着た医師たちと足早に出てくる女性の姿が目に入った。
医療福祉相談室の、白石陽菜さんだった。
いつもの穏やかな笑顔はそこにはなく、胸元に抱えきれないほどの書類とカルテのファイルを抱え、眉根を寄せて切迫した表情で廊下を小走りに通り過ぎていく。
すれ違いざま、彼女の落とした一枚の書類が、パサリと俺の足元に滑り落ちてきた。
「あ……申し訳ありません!」
立ち止まって振り返った彼女の額には、びっしりと汗が滲んでいた。
その瞳に宿る疲労と焦りの色を見た瞬間、俺の胸に小さく、確かな違和感が走った。
読んでいただきありがとうございます。
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