EP 6
【 AIは平気で嘘をつく】
深夜の静まり返った部屋で、古びたノートパソコンの冷却ファンが激しく唸りを上げていた。
画面の右上に表示されたメッセージ通知を、俺は何度も瞬きをしながら見つめていた。
『佐伯様、丁寧なご提案をありがとうございます。一次資料を重視される姿勢に大変興味を持ちました。まずはテスト案件として、一件お願いできますでしょうか』
クラウドソーシングで初めて掴み取った、プロジェクト案件の挑戦権だった。
報酬は三千円。
昨夜、指の感覚が麻痺するまでキーボードを叩き続けて手に入れた五百円玉の、実に六倍の金額だ。
母の入院費や食事代、止まりかけている家の家賃を思えば、喉から手が出るほど欲しい仕事だった。
だが、その金額の重みと同時に、胃のあたりをぎゅっと絞られるようなプレッシャーが押し寄せてくる。
テスト案件のテーマは、『高年齢雇用継続給付と公的年金の併給調整に関する基礎リサーチ』。
提出期限は明日の夜二十一時。
クライアントが運営するシニア向け情報サイトの解説記事の基礎資料として、制度の概要、対象者、支給停止の計算ルールを分かりやすく整理することが求められていた。
「高年齢雇用継続給付……年金の併給調整……」
画面を見つめながら、俺はその聞き慣れない単語を口の中で転がした。
母のパート収入や国民健康保険のことなら、この数日で必死に調べたから少しは分かる。
だが、定年後の高齢者が働き続けるための雇用保険の制度など、二十四歳の元引きこもりにはまったく見当もつかない領域だった。
焦るな、と自分に言い聞かせる。
俺には、手元に三つのAIがあるのだ。
俺はまず、公的資料のリサーチや情報整理を得意とするジェミニのチャット画面を開いた。
クライアントからの指示書に書かれていた要件を箇条書きで整理し、丁寧にプロンプトを打ち込む。
『高年齢雇用継続基本給付金を受給しながら、特別支給の老齢厚生年金を受け取る場合の併給調整の仕組みについて教えてください。支給停止となる具体的な割合、在職老齢年金との関係、利用者が受給する際の手続きの流れを、わかりやすく箇条書きでまとめてください』
エンターキーを押すと、ジェミニの画面が青く脈打ち、わずか十秒足らずで膨大なテキストが猛烈な勢いで吐き出された。
【ジェミニ】「お任せください!高年齢雇用継続給付と公的年金の併給調整について、最新の制度概要をわかりやすくまとめました。
高年齢雇用継続基本給付金は、六十歳以降も働き続ける労働者で、賃金が六十歳時点の七十五パーセント未満に低下した場合に支給される雇用保険の給付です。
そして、この給付金を受給している期間中は、特別支給の老齢厚生年金の一部が支給停止される『併給調整』が行われます。
支給停止額は、最高で標準報酬月額の六パーセントに相当する額となります。
また、在職老齢年金による支給停止とは完全に別枠で計算され、年金額から一律で毎月三万円が控除される仕組みになっています。
申請はハローワークで行い、提出書類は雇用保険被保険者六十歳到達時等賃金証明書です」
画面に並んだ淀みのない文章をスクロールしながら、俺は思わず感嘆の声を漏らした。
専門用語が流れるように散りばめられ、制度の目的から申請窓口、支給停止の割合まで、まるで教科書のように綺麗に整っている。
これなら、少し手直しするだけで立派なリサーチ報告書になる。
念のため、論理構成を確認するためにジーピーの画面にも同じ内容を読み込ませてみた。
【ジーピー】「提示された構成案は論理的であり、クライアントの指定要件を過不足なく網羅しています。専門用語の定義が明確であり、目次立てを『一、給付金の受給要件』『二、併給調整の計算式』『三、申請手続きの流れ』の三部構成に整理することで、より高い可読性を担保できます」
ジーピーからも太鼓判を押された。
クロードに文面を整えてもらえば、あと一時間もあれば完璧なレポートが完成する。
テスト案件を難なくクリアし、三千円が手に入り、もしかしたらこのまま継続案件に繋がるかもしれない。
一気に視界が開けたような気がして、胸の奥で高揚感が弾けた。
「……待てよ」
報告書の清書にかかろうとした瞬間、胸の奥底で小さな引っかかりが生まれた。
提案文で、俺は何と書いたのだったか。
『公的機関の一次資料に基づいた調査の徹底』
『例外条件や細部の条件まで網羅して確認する』
嘘偽りのない誠意をアピールして、クライアントからチャンスをもらったのだ。
それなのに、AIが出してきた文章を右から左へコピペして納品するだけで、本当に「一次資料で裏を取った」と言えるのだろうか。
「年金額から一律で毎月三万円が控除される……?」
ジェミニが出力したその一行を、俺の視線がもう一度捉えた。
法律に基づく公的な給付金の停止額が、そんな「一律三万円」などという大雑把な固定金額で決まるものなのだろうか。
高額療養費制度の時もそうだった。
所得区分や年齢によって、数千円単位、パーセンテージ単位で細かく計算式が分かれていたはずだ。
俺の面倒くさい確認癖が、再び頭をもたげていた。
疑問を抱えたまま送信ボタンを押すことの気持ち悪さに、背中がむずがゆくなる。
俺はジェミニの画面を閉じ、検索エンジンに『厚生労働省 高年齢雇用継続給付 年金 併給調整』と打ち込んだ。
厚生労働省の公式ホームページと、日本年金機構の年金解説ページがヒットした。
表示されたPDFファイルを開く。
『高年齢雇用継続給付と年金との併給調整について』と題された、白黒の味気ない公的資料だ。
画面を拡大し、細かい文字と複雑な数式が入り組んだ解説文を、人差し指で画面をなぞるようにして読み進めていった。
数分後、俺の全身の毛穴から、サーッと血の気が引いていくのが分かった。
心臓が激しく波打ち、背筋に嫌な冷や汗が噴き出してくる。
「……全然、違うじゃないか」
震える声が漏れた。
日本年金機構の公式資料には、こう明記されていた。
支給停止される額は、「一律三万円」などでは断じてなかった。
正しくは、『標準報酬月額の最高三・〇一パーセント(令和七年度以降の給付率見直しに伴う激変緩和措置等により異なる)』と記載されていたのだ。
ジェミニが出力した「最高で標準報酬月額の六パーセント」という数字も、どこから引っ張ってきたのか分からないデタラメだった。
さらに「在職老齢年金とは別枠で一律三万円控除」という記述に至っては、実在する公的制度のどこを探しても存在しない、完全な創作だった。
AIは、もっともらしい専門用語を巧みに繋ぎ合わせながら、現実には存在しない架空の制度ルールを、平然とした顔で事実として出力していたのだ。
頭の中が真っ白になった。
もし、あのままレポートを仕上げて納品していたらどうなっていたか。
クライアントはその誤った情報を元に記事を書き、それを読んだ一般の高齢者が間違った年金知識を信じて損をするかもしれない。
そしてクライアントは、初回のテストで致命的なデタラメを納品してきた俺という人間に激怒し、即座に契約を打ち切ったはずだ。
『一次資料を重視する』と豪語しておきながら、AIのハルシネーション(もっともらしい嘘)をそのまま横流しした無能な詐欺師として、悪質な低評価をつけられてクラウドソーシングのアカウントごと終わっていた。
胃の奥が雑巾を絞られるように痛んだ。
膝が小刻みに震え、机の上のマウスを握る右手が汗で滑る。
助けてくれるはずの道具に、背中から刺されかけたような底知れない恐怖が俺を支配していた。
画面の前の三つのAIが、急に得体の知れない怪物に見えてきた。
どれほど滑らかな敬語を使い、どれほど知性的な顔をしていても、こいつらは責任を取らない。
間違った嘘を吐き出しても、涼しい顔で「何かお手伝いできることはありますか?」と聞いてくるだけなのだ。
どうすればいい。
期限は明日の夜だ。
自力でこの複雑怪奇な年金制度の法律と計算式を、一からすべて解読できるのか。
また逃げ出してしまうのか。
パニックになりかけた頭を抱え、俺はすがるようにして、あの夜に助けてくれた匿名掲示板の画面を開いた。
ブックマークしていたスレッドを呼び出し、震える指で書き込み欄を叩く。
45:名無しさん@お腹いっぱい。 ID:mInA70To
すみません、相談させてください。
クラウドソーシングでリサーチのテスト案件を受注したのですが、AIを使って制度の概要をまとめたら、数字や停止ルールが公的資料とまるで違っていました。
AIは「一律三万円控除」「停止率は六パーセント」と自信満々に書いてきたのに、年金機構のPDFを見たらまったくそんな記述はありませんでした。
危うく大嘘を納品するところでした。
AIの言うことが信じられなくなってパニックになっています。
最初から全部自分で読まないと駄目なんでしょうか。どう扱えばいいのか分かりません。
送信ボタンを押し、冷たくなった両手を擦り合わせた。
こんな初歩的な泣き言を書き込んで、また罵倒されるだけかもしれない。
だが、今の俺には誰かの助言が必要だった。
数分後、画面が更新された。
46:名無しさん@お腹いっぱい。 ID:7vK89xLq
出たよ、AI丸投げマン。
そんなもん納品してたら一発で出禁食らって晒されて終わりだったな。命拾いしたなイッチ。
47:福祉職ワイ ID:w99Zk01L
併給調整は社労士の試験でも難所と言われるくらい複雑なとこやからな。
年金と雇用保険の管轄が違うから、制度の隙間で計算がめちゃくちゃ入り組んどるんや。
素人がAIにちょろっと聞いてまとめられるほど甘い分野やないで。
冷徹な現実を突きつけられて息が詰まりそうになった。
やはり俺のような無知な人間に、リサーチの仕事なんて無理だったのだ。
そう項垂れかけた瞬間、太字のレスが画面に飛び込んできた。
48:AIガチ勢ニキ ID:x77Lp0
おいおい、何を絶望してんだイッチ。
納品する前に自分で気づいて一次資料を開いたんだろ?
上出来じゃねえか。危うく死にかけたが、踏みとどまったんだよ。
いいか、耳の穴かっぽじってよく聞け。
AIは「答えを出す機械」じゃない。
あいつらは統計的にそれっぽい言葉を並べるのが得意なだけの「言葉の連想ゲーム機」だ。
特に法律、税務、医療、公的制度の計算式みたいな厳密なルールは、平気で息をするように嘘をつく。
これをハルシネーションっつうんだ。
AIを「調べる道具」として使うなら、答えを求めに行くんじゃない。
「調べるための入口」として使え。
制度の全体像をざっくり把握するための地図としてAIを使い、そこに書かれた数字、根拠条文、例外規定は、必ず厚生労働省や年金機構の一次資料、あるいは法令データ提供システムで一行ずつ照合しろ。
「AIが言ったから正しい」じゃねえ。
「一次資料で裏が取れたことだけを、自分の責任で書く」んだよ。
お前が持ってるその面倒くさい確認癖は、AIの嘘を見抜くためにあるんだろ。
手を止めるな。まだ丸一日あるぞ。
『AIは答えを出す機械ではない。調べる入口だ』
『お前が持ってるその面倒くさい確認癖は、AIの嘘を見抜くためにある』
ガチ勢ニキの無骨な言葉が、胸の奥に突き刺さった。
そうだ。
俺は間違えかけたが、踏みとどまったのだ。
六年前、面接官の黒川に「面倒くさい奴」と笑われた、あの執拗な確認癖があったからこそ、納品直前でAIの嘘に気づくことができた。
もし俺が何でも適当に受け流す要領のいい人間だったら、疑うこともなくデタラメを納品して破滅していただろう。
俺は椅子から立ち上がり、台所へ行って冷たい水で顔を洗った。
タオルで水滴を拭い、鏡を見る。
目の下には隈ができていたが、瞳の奥にあった怯えは消えていた。
デスクに戻り、パソコンの画面を整える。
左画面には、日本年金機構と厚生労働省が発行している最新の制度解説PDFと法令の原文。
右画面には、作業用の白紙のスプレッドシート。
そして中央の小さなウィンドウに、三つのAIを並べた。
俺はAIを信じるのをやめた。
だが、捨てることもしなかった。
彼らを正解の神様としてではなく、泥臭い調査の足軽としてこき使う覚悟を決めた。
「ジーピー、この厚生労働省のPDFの三ページ目にある算式について、変数が何を意味しているかだけを分解して解説しろ。結論は出さなくていい」
「ジェミニ、令和に入ってからの高年齢雇用継続給付の法改正の年表と、関連する省令の番号だけを公的資料から検索してリストアップしろ。要約はいらない」
命令の出し方を変えると、AIたちの動きが劇的に変わった。
曖昧な結論を求めず、事実の所在と構造の分解だけを命じる。
吐き出された情報を、俺は自らの目で年金機構の原文と一文字ずつ突き合わせた。
条文の注記、カッコ書きの例外、施行期日の経過措置。
かつて面接で求人票の端っこを気にしすぎて笑われたあの病的な細かさで、俺は制度の隙間に潜む真実を一つひとつ掘り起こしていった。
東の空が白み始め、鳥の声が聞こえ始める頃、作業シートにはAIの嘘をすべて削ぎ落とした、血の通った正確なデータが整然と並び始めていた。
テストの提出期限まで、あと十数時間。
面倒くさい男の、本当の戦いが始まろうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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