EP 5
【六年前の面接】
網戸越しに入り込む熱気とともに、夕暮れの蝉の声がじりじりと部屋を満たしていた。
机の上に置かれた小銭入れのジッパーを開けると、昨夜の労働の対価である五百円玉が、ぽつんと一つだけ銀色に光っている。
一晩かけて百件の店舗データを整え、不一致だった郵便番号を一つずつ直し、画面を睨み続けて手に入れた五百円。
指先でその冷たい金属の感触を確かめながら、俺は深く息を吐き出した。
稼げたという小さな達成感のすぐ後ろには、底冷えするような焦りが張り付いていた。
今月末には、母の入院費用と食事代の請求が容赦なくやってくる。
アパートの家賃四万二千円に、電気代や水道代。
一件五円のデータ入力をどれほど寝ずに繰り返したところで、手に入るのは数千円がいいところだ。
母を支え、この生活を維持していくには、一刻も早く単価の高い仕事へステップアップしなければならなかった。
俺はパソコンの画面に向き直り、クラウドソーシングの案件検索欄に条件を入力した。
タスク案件のタブを閉じ、プロジェクト形式と呼ばれる仕事の一覧を開く。
そこには、一件あたり数千円から一万円前後の報酬が並んでいた。
その中で、俺の目がひとつの募集要項に留まった。
『行政手続き・公的支援制度に関する解説記事の事前リサーチ及び情報整理』
報酬は一件三千円。
自治体の窓口手続きや各種給付金の概要、必要書類のリストを公的ウェブサイト等からリサーチし、指定されたフォーマットに要点をまとめる仕事だった。
応募要件には「正確な情報収集ができる方」「報告・連絡・相談がしっかりできる方」と書かれている。
三千円。
データ入力なら六百件分に相当する金額だ。
母の限度額適用の手続きや、市役所で国保の減免制度を調べた経験がそのまま活かせるかもしれない。
これなら、俺にだってできるのではないか。
胸の中に淡い希望が灯り、俺は『応募画面へ進む』という青いボタンをクリックした。
しかし、画面が切り替わった瞬間、俺の身体は金縛りに遭ったように硬直した。
画面の中央に現れたのは、大きな白い入力枠だった。
『応募理由・自己PR・提案内容をご記入ください』
その無機質なテキストボックスを見つめた途端、ドクンと心臓が跳ね上がり、背筋に冷たい汗が流れ落ちた。
部屋の空気が一瞬で凍りついたように感じられ、目の前の光景が歪んでいく。
六年前の、あの息苦しい真夏の面接室の記憶が、鮮烈な悪夢となって脳裏に蘇ってきた。
十八歳、高校三年の夏休み。
就職を希望していた俺は、市内の事務機器販売会社の中途・新卒合同採用試験の面接に臨んでいた。
細長い会議室の中央、パイプ椅子に座る俺の目の前に、腕組みをしてふんぞり返る一人の男がいた。
総務部長のプレートを胸につけた、黒川剛。当時四十一歳。
鋭い目つきと、人を値踏みするような薄笑いが張り付いた男だった。
「佐伯くんねえ。志望動機は分かったけど、何かこちらに質問はある?」
事務的な問いかけに、俺は緊張で震えながらも、事前に何度も読み込んだ求人票を取り出した。
どうしても腑に落ちない点があったからだ。
「あの……求人票に『諸手当あり』と書かれていますが、具体的にどのような手当が含まれるのでしょうか。それから、基本給の欄に『みなし残業代を含む』とありますが、何時間分の時間外労働が想定されていて、それを超えた場合の割増賃金はどのように計算されるのかを教えていただきたくて……」
俺としては、純粋な疑問だった。
これから自分が働く場所の条件を、正確に知りたいと思っただけだった。
だが、その言葉を口にした瞬間、黒川の顔から笑みが消え、眉がピクリと跳ね上がった。
そして、吐き捨てるように鼻を鳴らした。
「はっ、何だそりゃ。まだ一円も会社に利益を出していない高校生が、手当だの残業代の計算だの、細けえことばかり気にして質問してくるのか?」
黒川は手元の履歴書をペラペラと指先で弾き、嘲笑うような視線を俺に突き刺した。
「君みたいなタイプ、たまにいるんだよね。規則だの条件だのを重箱の隅をつつくように気にする、面倒くさい奴。そういう融通の利かない人間はね、うちみたいな現場じゃ一番使えないんだよ。社会の荒波ってものをまるで分かってない。もっと柔軟に、言われたことをハイハイってやれない奴は、どこに行っても通用しないよ」
面接室に響いたその乾いた声は、十八歳の俺の自尊心を完膚なきまでに叩き潰した。
頭の中が真っ白になり、指先が凍りつき、残りの面接で自分が何を話したのかすら覚えていない。
当然のように不採用通知が届いた。
その後、別の会社の面接を受ける勇気は完全に失われ、俺は部屋のドアを閉ざした。
自分は面倒くさい奴なのだ。
細かいことを気にして、余計な確認ばかりして、社会からはじき出された欠陥品なのだ。
母に申し訳なくて、顔を合わせるのが怖くて、六年間ずっとこの部屋の毛布にくるまり続けてきた。
キーボードの上に置いた指先が、ガタガタと激しく震えていた。
提案文の入力欄に、カーソルが規則正しく点滅を繰り返している。
何かを書かなければならない。
だが、キーを打とうとするたびに、あの日の黒川の嘲笑が耳の奥で木霊する。
『細けえことばかり気にして、面倒くさい奴』
『どこに行っても通用しないよ』
もし、この応募文を送ったらどうなる。
職歴のない二十四歳の引きこもりが、したり顔で提案文を送りつけてきたら、相手のクライアントは鼻で笑うのではないか。
「何の実績もないくせに、偉そうに」「こんな面倒な奴、採用するわけがない」と、画面の向こうから罵倒されるのではないか。
マウスを握る右手にじっとりと汗が滲み、送信はおろか、一文字も打ち込むことができない。
呼吸が浅くなり、胸が苦しくなる。
逃げ出したい。ブラウザのタブを閉じてしまえば、この恐怖から解放される。
だが、目を閉じれば、病院のベッドで青白い顔をして眠る母の姿が浮かび上がる。
ここで逃げたら、母の生活はどうなる。
俺はまた、ただ部屋の隅で膝を抱えて、誰かが助けてくれるのを待つだけのゴミに戻るのか。
「……助けてくれ」
情けない呻き声が、喉から漏れた。
俺は震える手でブラウザの別タブを開き、温かみのあるオレンジ色のアイコン、クロードのチャット画面を立ち上げた。
すがるような思いで、プロンプトを打ち込む。
『クラウドソーシングでリサーチ案件に応募したいのですが、提案文が書けません。私は高校を出てから六年間引きこもっていて、何の職歴も実績もありません。昔、就職の面接で細かい条件を質問したところ、面接官から「細かいことを気にする面倒くさい奴だ、社会で通用しない」と嘲笑されたことがあり、自分の性格が社会に受け入れられるとは思えず、応募するのが怖くて指が動かないのです。こんな自分でも書ける提案文はあるでしょうか』
送信ボタンを押すと、ほんの数秒の沈黙の後、クロードが滑らかな文章を紡ぎ出し始めた。
【クロード】「まずは、その辛い過去の記憶を打ち明けてくださり、ありがとうございます。十八歳の頃に受けた面接官のその心ない言葉は、あなたの心にどれほど深い傷を残したことでしょう。恐怖で指が震えてしまうのも、ごく自然なことです。
しかし、これだけは明確にお伝えさせてください。その面接官の評価は、ビジネスの現場における絶対の真理などではありません。
あなたが持っている『細かいことを気にせずにはいられない性質』や『事実を最後まで確かめたい確認癖』は、決して欠陥などではなく、仕事の内容によっては極めて希少で価値の高い才能です。
特に今回挑戦されようとしている公的制度や行政手続きのリサーチ業務において、最も恐ろしいのは『大雑把に調べて誤った情報を納品されること』です。大雑把で融通が利くことよりも、面倒な一次資料を隅々まで読み込み、例外条件や必要書類の漏れを徹底的に確認できる人間こそが、発注者から最も信頼されます。
過去にあなたを傷つけた『面倒くささ』を、リサーチにおける『確実な安心感』という強みに変換した提案文を提案させていただきます。以下の構成を参考に、ご自身の言葉で整えてみてください」
クロードの画面には、整然とした構成案が表示されていた。
一、挨拶と、案件の募集要項を精読した旨の伝達。
二、職歴の詐称は一切せず、代わりに「徹底した一次情報の確認」に全力を注ぐ姿勢の明記。
三、具体的にどのような手順で調査を行うか(公的機関の一次資料、自治体の最新要綱、例外規定の確認)。
四、報告・連絡・相談の徹底と、検収後の修正対応への誠実なコミット。
クロードが提示してくれた文面を読みながら、俺の目頭がじわりと熱くなった。
欠陥品だと思っていた。
社会から拒絶された、ただの面倒な性格だと思っていた。
けれど、画面の向こうの編集者は、それを「価値の高い才能だ」と言ってくれた。
昨夜のデータ入力で、郵便番号のズレを直さずにはいられなかったあの几帳面さは、間違いなんかじゃなかったのだ。
俺はブラウザの隣のタブを開き、ジーピーの画面を呼び出した。
『クロードが作ってくれたこの提案文の骨子について、発注者側の視点から見て論理的な抜けや、信頼性を損なう曖昧な表現がないか検証してください』
【ジーピー】「結論から評価します。提案の方向性は論理的であり、未経験者が誠実さをアピールする構成として極めて有効です。ただし、受注率を高めるために以下の二点を補強すべきです。第一に、調査対象とする情報源を『厚生労働省や各自治体の公式サイト等の一次情報に限定する』と明記し、個人のまとめブログ等をソースにしない方針を宣言すること。第二に、納品フォーマットの指定遵守と、進捗報告の頻度を具体的に提示することです。曖昧な意気込みを排し、納品プロセスの確実性を数字と具体名で担保してください」
ジーピーの冷徹で鋭い指摘が、提案文の輪郭をさらに強固なものにしていく。
曖昧さを排除し、具体性を足す。
俺は両手でキーボードの上に構えた。
もう、指先は震えていなかった。
二つのAIが示してくれた道筋を土台にしながら、俺は自分の言葉で、一件の提案文を書き上げていった。
『はじめまして。佐伯湊と申します。
募集要項を拝読し、行政手続きおよび公的支援制度に関するリサーチ案件に応募いたしました。
私は現在、公的制度の正確な調査と情報整理の仕事に注力しております。
本案件において、私が発注者様にお約束できる強みは以下の三点です。
一、公的機関の一次資料に基づいた調査の徹底
個人のブログや不確かなまとめサイト等の二次情報は参照せず、厚生労働省、関連省庁、および各自治体の公式ホームページに掲載されている条例や要綱等の一次資料のみを情報源として調査・整理いたします。
二、例外条件や必要書類の細部確認
制度の概要だけでなく、申請対象者の所得制限、申請期限、必要書類のフォーマットなど、利用者が実際につまずきやすい細かな条件まで網羅して記載いたします。
三、迅速な報連相と誠実な修正対応
作業の進捗状況を定期的にご報告し、万が一指定フォーマットや要件に齟齬があった場合は、ご納得いただけるまで無償で迅速に修正対応をいたします。
職歴の実績こそ多くはありませんが、その分、一つひとつの案件に対して丁寧さと確認の正確さを最優先にして取り組ませていただきます。
何卒ご検討のほど、よろしくお願い申し上げます』
書き終えた文章を、最初から最後まで三度読み返した。
誇張はない。嘘もない。
職歴のない自分ができる、最大限の誠実さと、自分の性格をそのまま差し出した文章だった。
応募画面の送信ボタンに、マウスのカーソルを合わせる。
かつて黒川に笑われた十八歳の自分が、俺の背中の後ろで見つめているような気がした。
あの面接室から、六年。
俺は部屋に引きこもり、時計の針を止めていた。
だが、その止まっていた時間は、ただ消え去ったわけではなかった。
母の病気と向き合い、制度を調べ、AIと対話し、自分の足で役所に走ったこの数日間が、俺の中に小さな芯を作ってくれていた。
「俺は、面倒くさい奴かもしれないけど……だからこそ、ちゃんと調べるんだ」
カチリ、と静かな部屋にクリック音が響いた。
画面が切り替わり、『提案を送信しました』というメッセージが表示された。
胸の奥から熱いものがこみ上げ、思わず深く、長い息を吐き出した。
送信ボタンを押しただけだ。
まだ仕事を受注できたわけでも、一円を稼いだわけでもない。
それでも、六年間自分を縛り続けていた過去の呪縛から、確かに自分の意思で一歩を踏み出した瞬間だった。
その時、画面右上の通知アイコンが小さく点滅した。
応募したクライアントから、予想もしなかった早さでメッセージが届いたのだ。
『佐伯様、丁寧なご提案をありがとうございます。一次資料を重視される姿勢に大変興味を持ちました。まずはテスト案件として、一件お願いできますでしょうか』
心臓が大きく跳ねた。
テスト案件の受注。三千円のリサーチ業務への挑戦権を、俺は確かに掴み取ったのだ。
画面に送られてきたテスト用のお題は、『高年齢雇用継続給付と公的年金の併給調整に関する基礎リサーチ』。
聞き慣れない複雑な制度の名称だった。
「よし……やってやる」
俺は気合を入れ直し、リサーチの足がかりを探すため、意気揚々と三つ目のAI、ジェミニの検索窓を開いた。
しかし、この時の俺はまだ知らなかった。
この後、AIが自信満々に出力してきたもっともらしい回答の裏に、初心者の自分を奈落の底へ突き落としかねない、巧妙で危険な罠が潜んでいることなど、夢にも思っていなかったのだ。
読んでいただきありがとうございます。
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