EP 4
【 時給百円の現実】
深夜一時、薄暗い自室にカタカタという乾いたタイピング音だけが響いていた。
開け放した窓からは、ぬるい夜風とともに遠くの幹線道路を走るトラックの重低音が流れ込んでくる。
扇風機が首を振るたびに、汗ばんだ首筋を微温い風が撫でていった。
母の入院と限度額適用の手続きから二日が過ぎていた。
病室の母は点滴で容態が安定し、来週予定されている精密検査と手術の説明を待っている状態だ。
病院に行けば白石さんが優しく声をかけてくれ、看護師たちも手厚く母を看てくれている。
けれど、病院の自動ドアを出てアパートに帰ってきた瞬間、俺を待っているのは冷酷な現実の数字だった。
限度額適用認定証によって、医療費の窓口負担は月数万円に抑えられる。
だが、それはゼロになるわけではない。
入院中の一日三食の食事代、病衣のレンタル料、日用品の消耗品代。
そして母が働けない間の我が家の家賃四万二千円と、光熱費、食費。
母の通帳に残された預金は、端数を合わせても十万円をわずかに超える程度だった。
次の月末には、確実に底をつく。
「俺が、稼がなきゃいけないんだ」
埃をかぶったデスクの上で、古びたノートパソコンの液晶画面が青白く光っている。
画面に映し出されているのは、国内最大手と呼ばれるクラウドソーシングサイトの登録画面だった。
昨夜、掲示板の過去ログやネットの情報を漁り、職歴のない人間でも即日で仕事を始められる場所として見つけ出したものだ。
プロフィール作成の画面で、俺の指はピタリと止まった。
年齢、二十四歳。
最終学歴、高等学校卒業。
保有資格、普通自動車第一種運転免許。
職歴の入力欄が、白くぽっかりと口を開けてこちらを見下ろしている。
六年間の空白。履歴書に書くことのできる職務経歴は、一行たりとも存在しなかった。
高校を卒業してから、俺は社会に対して何一つ価値を提供してこなかった。
誰とも関わらず、責任も負わず、母が買ってきた米を食べ、母が払ってくれた電気代でパソコンを弄っていただけだ。
胸の奥を重たい鉛で押し潰されるような惨めさが込み上げてくる。
それでも、ここで逃げ出せば母の命が危ない。
俺は唇を強く噛み締め、自己PR欄に「正確丁寧な作業を心がけます。納期は必ず守ります」とだけ打ち込み、登録ボタンを押した。
サイトの仕事一覧ページには、無数の案件がずらりと並んでいた。
システム開発、デザイン、動画編集、専門的なWebライティング。
どれも一件あたり数万円から数十万円の報酬が提示されているが、応募要件には専門スキルの実務経験がずらりと並んでいる。
自分にはどれも到底手の出せない、別世界の話だった。
スクロールを続け、たどり着いたのは『タスク・データ入力』という最下層のカテゴリだった。
『指定された名刺画像の文字起こし』
『ECサイトの指定商品データの検索と転記』
『指定されたフォーマットへのURLと住所のコピペ入力』
特別なスキルは不要、誰でもすぐに作業可能、と書かれている。
単価は、一行あたり数円から数十円。
今の俺が手を出せるのは、これしかなかった。
俺はブラウザのタブを切り替え、三つのAIの画面を開いた。
少しでも効率よく作業を進める方法はないか、ジーピーに尋ねてみる。
【ジーピー】「データ入力作業における生産性の鍵は、作業プロセスの標準化とショートカットキーの徹底活用です。マウス操作を最小限に抑え、画面分割による視線移動の削減、単語登録辞書の活用を行うことで、入力速度を理論上二倍から三倍に引き上げることが可能です」
ジーピーは相変わらず冷徹に、最も合理的な作業環境の構築手順を箇条書きで示してきた。
画面の左半分に作業用のスプレッドシートを配置し、右半分に入力元の画像や資料を並べる。
コピーとペースト、タブキーによるセルの移動を左手だけで完結させる運指の練習。
言われた通りに画面の配置を整えると、確かに無駄な動作が減る感覚があった。
俺が選んだのは、ある業者が募集していた『指定されたネット通販サイトの店舗情報入力』という案件だった。
指定されたリストのURLを一つひとつ開き、会社名、代表者名、電話番号、郵便番号、所在地、問い合わせ用メールアドレスをスプレッドシートにコピペしていく。
一件あたりの単価は、五円。
百件入力すれば五百円になる計算だ。
「よし、やるぞ」
画面のストップウォッチを起動し、俺は作業を開始した。
URLをクリックしてサイトを開く。
『特定商取引法に基づく表記』のリンクを探してクリックし、会社概要のページへ飛ぶ。
会社名をドラッグしてコピーし、シートに貼り付ける。
代表者名をコピーして貼り付ける。
電話番号、住所、メールアドレスを順に転記していく。
最初は順調に思えた。
だが、十件ほど進めたところで、現場の泥臭い壁が次々と立ちはだかった。
サイトによって会社概要の表記場所がまったく違うのだ。
フッターの小さな文字に隠れていることもあれば、トップページのバナーの奥深くにあることもある。
電話番号が画像化されていてコピーできず、手入力しなければならないサイトもあった。
住所の表記も、都道府県が抜けていたり、ビル名が別の行に分かれていたりとバラバラだった。
確認癖のある俺の性格が、ここで仇となった。
「この住所、郵便番号と番地が一致していない気がする」
気になって郵便局のサイトで検索し、正しい表記を確認してしまう。
「代表者名にフリガナの指定があるのに、元サイトに書かれていない」
サイトの別ページを探し回り、代表者のインタビュー記事を見つけてようやく読み方を突き止める。
不完全なデータをそのまま納品することが気持ち悪くて、どうしても細部を確かめずにはいられなかった。
一時間が経過した。
肩がガチガチに凝り固まり、奥歯を噛み締めすぎて顎が痛い。
目頭を指で押さえると、液晶画面の光で網膜がチカチカと焼けるように痛んだ。
作業実績を確認する。
一時間で完了した入力件数は、わずか二十一件だった。
二十一件。
一件五円だから、合計で百五円。
一時間必死に集中して、神経をすり減らして得られた対価が、百五円だった。
「ひゃく、ごえん……」
乾いた声が、静かな部屋にぽつりと落ちた。
机の脇に置いてある、昼間にコンビニで買った百三十円のお茶のペットボトルが目に入る。
一時間休まずに手を動かし続けても、ペットボトル一本すら買えない。
駅前のスーパーでレジを打っていた母の姿が脳裏をよぎる。
母は時給千円のパートで、一日八時間、立ちっぱなしで客に頭を下げ、重いカゴを運び続けていた。
母が一時間で稼いでいた千円を稼ぐためには、俺はこの作業を十時間ぶっ続けでやらなければならない。
時給百円。
それが、二十四歳まで自室に引きこもり、社会から逃げ続けてきた俺という人間の、現実の市場価値だった。
世間はお前のことなど何も評価していない。
お前の差し出せる労働力には、一時間あたり百円の価値しかないのだと、冷たい数字の塊を突きつけられたようだった。
胃の底から苦いものがせり上がってくる。
情けなさと、無力さと、母への申し訳なさで、視界が滲んで歪んだ。
キーボードの上に突っ伏したまま、俺は動けなくなった。
こんなことをして、一体何になる。
月に数万円の入院費や生活費を稼ぐのに、何百時間キーボードを叩けばいいのか。
やっぱり俺には無理だったんじゃないか。
初めから社会に居場所なんてなかったんじゃないか。
掲示板の画面を開いた。
昨夜ブックマークしたスレッドの入力欄に、弱音を書き殴りそうになる。
だが、スクロールした画面に残っていたレスが、俺の指を押しとどめた。
『情けないのは事実だが、今さら自分を責めても一円にもならんぞイッチ。親を助けたいなら手を動かせ』
『調べる入口にして一次資料で裏を取れ』
スレ民の言葉が、耳の奥で冷水を浴びせかけるように響く。
自分を責めるのは一番楽な逃げ道だ。
落ち込んで、布団を被って泣いていれば、何もしなくて済む。
だが、その間にも母の病室の生体モニターは動き続け、月末の請求書は容赦なく近づいてくるのだ。
俺は顔を上げ、涙を手の甲で乱暴に拭った。
チャット画面のクロードを開き、震える指でプロンプトを打ち込んだ。
『データ入力の作業をしています。一件五円で、一時間に二十件程度しか進みません。時給換算で百円程度にしかなりません。作業を早くする方法や、受注側として価値を高める考え方はありますか』
数秒の後、クロードから返信が返ってきた。
【クロード】「まずは最初の一歩を踏み出されたこと、心から敬意を表します。画面に向かって手を動かし、二十一件のデータを完成させたことは、紛れもなくご自身で社会から獲得した成果です。時給の低さに落胆されるお気持ちは痛いほど分かりますが、悲観しすぎる必要はありません。現在の単価が低いのは、発注者が『誰でもできる単純作業』として発注しており、品質や確認作業の手間を想定していないからです。しかし、あなたが時間をかけて確認された『郵便番号の整合性』や『表記ゆれの修正』は、データを利用する側にとって極めて価値の高い作業です。この丁寧さを強みとして伝えることが、次の単価アップや別案件の獲得に繋がります」
クロードの言葉を読み、俺はハッと息を呑んだ。
誰でもできる単純作業だから、安い。
そして、自分がやってしまった「余計な確認」は、発注者にとっては本来、後から誰かがやらなければならない手間だったのだ。
俺はもう一度、作業用のスプレッドシートを見つめ直した。
二十一件のデータ。
郵便番号と住所の不一致はすべて修正し、備考欄に「公式サイトの表記と郵便局の正規表記に差異があったため修正済み」と注記してある。
電話番号の手入力ミスがないか、二重にチェックを済ませた。
ただコピペしただけのゴミのようなデータではなく、受け取った相手がそのまま使える綺麗なデータになっている。
時計の針は午前二時半を回っていた。
身体は重く、目はかすんでいたが、俺は再びマウスを握り直した。
次の二十件。さらに次の二十件。
ショートカットキーを駆使しながら、一文字一文字を丁寧にシートへ流し込んでいく。
東の空が白み始め、蝉の声がかすかに聞こえ始める頃、ちょうど百件の入力が完了した。
五百円。
一晩かけて稼いだ金額は、ワンコインにすぎない。
それでも、納品ボタンをクリックし、ステータスが『検収待ち』に変わった画面を見たとき、胸の奥底から込み上げてくるものがあった。
母の金ではない。誰かに恵んでもらった金でもない。
二十四年間、部屋の暗闇に閉じこもっていた男が、自分の指を動かし、自分の目で確かめて、初めてこの手で稼ぎ出した五百円だった。
自分の市場価値は、時給百円からのスタートだ。
底辺も底辺、これ以上落ちようのない場所からの出発だった。
だが、ゼロではない。
一円も稼げなかった昨日までの自分とは、決定的に違う場所に立っている。
朝の光が、カーテンの隙間から部屋の中へと差し込んできた。
俺はパソコンを閉じ、泥のような眠気に身を任せながら、静かに目を閉じた。
今日、病院に行ったら、母に少しだけ胸を張って顔を合わせられる気がしていた。
もっと速く、もっと正確に、そしてもっと価値のある仕事を見つけなければならない。
時給百円の冷たい現実が、俺の胸の中に小さく、けれど消えない火を灯していた。
読んでいただきありがとうございます。
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