EP 3
【 役所に走る理由】
照りつける八月の太陽が、容赦なくアスファルトを焦がしていた。
錆びついた古いママチャリのペダルを漕ぐたびに、キコキコと耳障りな金属音が住宅街に響く。
額から流れ落ちる汗が目に入って沁みたが、拭う暇も惜しかった。
ハンドルを握る両手には、じっとりと冷たい汗が滲んでいる。
六年間、俺はこの街の昼間の風景を見てこなかった。
すれ違う買い物帰りの主婦、背広を着て歩く会社員、炎天下で道路工事をする作業員たち。
誰もが当たり前のように自分の持ち場で生きている。
その当たり前の世界に、スウェットから急ぎ着替えたヨレたポロシャツ姿で紛れ込んでいる自分が、ひどく場違いで落ち着かなかった。
それでも、ペダルを漕ぐ足を止めるわけにはいかなかった。
胸のポケットには、自室のプリンターで印刷した数枚の紙が四つ折りにされて収まっている。
限度額適用認定の申請手順、市の条例から抜き出した国民健康保険料の減免要綱、そしてクロードが整えてくれた窓口相談用の文面だ。
白石さんから渡された資料と、昨夜から今朝にかけて三つのAIを突き合わせて調べ上げた情報が、今の俺の唯一の武器だった。
市の総合庁舎は、築数十年の無機質なコンクリート造りだった。
自動ドアをくぐると、外の熱気が嘘のように引いて、冷房の冷気と独特の紙の匂いが全身を包む。
正面のエントランスには、書類を抱えて行き交う職員や、番号札を握りしめて待つ市民の姿があった。
胃のあたりがキュッと縮み上がる。
他人に用件を伝えるという行為自体が、六年間の引きこもり生活を経た俺には巨大な壁に見えた。
案内板の前で深呼吸を一つし、二階にある『国民健康保険課』のフロアへと階段を上がった。
窓口の天井から吊り下げられた番号札の発券機でカードを引く。
三十番台。表示板の数字を見つめながら、待合用の長椅子に腰を下ろした。
心臓がトクトクと耳の奥で脈打っている。
ポケットから取り出したメモ用紙を広げ、震える指先で何度も文字を目で追った。
母は我が家の世帯主であり、国民健康保険の被保険者だ。
パート勤務で生計を立てていたが、今回の胃がんによる緊急入院で、今月の収入はほぼ途絶える。
病院の窓口で莫大な立て替え払いを防ぐための『限度額適用認定証』を受け取ること。
そしてもう一つ、世帯主の病気による急激な減収を理由とした『保険料の減免申請』について相談すること。
この二つが、今日の俺の目的だった。
「三十五番の番号札をお持ちの方、三番窓口へどうぞ」
機械的なアナウンスがスピーカーから流れ、俺は弾かれたように立ち上がった。
足が少しもつれそうになりながら、三番窓口のカウンターへと進み出る。
窓口の向こうには、眼鏡をかけた中年女性の職員が座っていた。
「こんにちは。本日はどのようなご用件でしょうか」
淡々とした、しかし穏やかな問いかけに、喉がカラカラに渇いて声が詰まりそうになる。
俺は咳払いを一つして、クロードが作成してくれたメモの冒頭をなぞるように、必死で言葉を絞り出した。
「あの……世帯主である母が、昨日の夕方に吐血して緊急入院しました。胃がんの疑いがあると診断されて、手術になる予定です。病院のソーシャルワーカーさんから、窓口での支払いを抑えるために、限度額適用認定証を申請するように言われて来ました」
一気にまくし立ててしまったが、職員の女性は慣れた手つきで頷いてくれた。
「お母様が倒れられたのですね。大変でしたね。お母様の保険証と、窓口に来られたあなた様のご本人確認書類はお持ちですか」
「はい、あります。母の保険証と、母の自署でもらった委任状、それから俺の運転免許証です」
カバンから透明なクリアファイルを取り出し、カウンターの上へ差し出した。
身分証として運転免許証を差し出すとき、更新だけは母に背中を押されて続けていた過去の自分に、初めて小さく感謝した。
職員は書類を丁寧に確認し、端末を操作し始めた。
「佐伯澄子さんですね。世帯状況と前年の所得データを確認いたします……はい、住民税非課税世帯の区分に該当しますね。このまま窓口で限度額適用認定証を発行できますので、こちらの申請用紙にお名前とご住所、連絡先をご記入いただけますか」
渡された一枚の申請用紙に、ボールペンで住所と名前を書き込む。
手がわずかに震えて文字が歪んだが、書き終えて用紙を戻すと、職員は数分と経たずにラミネート加工された小さな紙の証書を持って戻ってきた。
『国民健康保険限度額適用・標準負担額減額認定証』。
そこには母の名前と、適用区分がしっかりと印字されていた。
「こちらをお母様が入院されている病院の受付窓口へ、速やかにご提示ください。これにより、窓口での月ごとの保険診療分の自己負担額が、非課税世帯の上限額までとなります。また、入院中の一食ごとの食事代についても、標準負担額が減額された金額で計算されます」
証書の文字を見つめた瞬間、胸の奥底に溜まっていた重たい塊が、すっと軽くなるのを感じた。
あの白石さんの言葉は本当だった。
そして、AIが教えてくれた手続きは、現実の窓口で間違いなく機能したのだ。
自分の手で動いて、母を守るための公的な書類を手に入れた。
この六年間、一度も味わったことのない確かな実感が、指先からじんわりと全身に広がっていった。
だが、俺の用件はここで終わりではなかった。
窓口の女性が一礼して手続きを終えようとしたとき、俺はポケットからもう一枚のプリントを取り出した。
「あの……すみません。もう一つ、ご相談したいことがあります」
「はい、何でしょうか」
「母はスーパーのパート収入だけで暮らしていました。今回の入院と手術で、少なくとも一か月以上は働くことができず、今後のパート収入がほぼゼロになってしまいます。市のホームページで、病気や災害などで収入が激しく減少した場合の『国民健康保険料の減免制度』があるのを見たのですが……母の保険料について、減免の相談をさせていただくことはできますでしょうか」
ジェミニが探し出してくれた市の要綱と、ジーピーが整理した要件リストを指先で押さえながら、俺は職員の目を見て尋ねた。
職員の表情が、先ほどの定型手続きの時よりも少しだけ引き締まった。
「国民健康保険料の減免ですね。少々お待ちください。担当の係の者と交代いたします」
職員が奥のデスクへと戻り、数分後、ネームプレートをつけた男性職員がカウンターの椅子に腰掛けた。
机の上には、厚みのある規程集のようなファイルが置かれている。
「佐伯さんですね。お母様のご状況について伺いました。突然のことでご心労いかばかりかとお察しします。当市の国民健康保険料の減免要綱についてご説明いたしますね」
男性職員は穏やかな口調で、手元の資料を広げた。
「おっしゃる通り、当市の条例では、世帯主が重い傷病により入院し、その年の所得が前年に比べて大幅に減少する見込みがある場合、申請に基づいて保険料の一部または全部を減免する制度がございます。ただし、ここで幾つか大切な要件がございます」
男性職員は手元のペン先で資料の項目を指し示した。
「まず、減免の対象となるのは『前年の合計所得金額が一定基準以下』であり、かつ『今年の所得見込みが前年の半分以下に減少する場合』などの基準が定められています。佐伯様のお宅の場合、お母様は非課税世帯とのことですので所得要件自体は関係してきますが、そもそも非課税世帯の場合、保険料のうち『所得割』と呼ばれる部分はすでにゼロで計算されていることが多いのです」
「所得割が、ゼロ……?」
俺は思わず聞き返した。
AIから仕入れた知識の中にも、保険料が所得割と均等割に分かれているという話はあったが、その意味を深く理解していなかったことに気づかされる。
「はい。国民健康保険料は、前年の所得に応じてかかる『所得割』と、加入者一人ひとりにかかる『均等割』などの合計で決まります。非課税世帯の方に対しては、法律に基づき、すでに均等割の七割または五割といった軽減があらかじめ適用された金額で賦課されているケースがほとんどです」
職員は計算式の具体例を紙の裏に書きながら、分かりやすく説明を続けてくれた。
「そのため、条例に基づく特別な減免が適用できるかどうかは、お母様の傷病による減収がどの程度生活に影響を与えるか、世帯全体の預貯金や資産の状況、休業補償の有無などを個別に審査したうえでの判断となります。申請を出せば必ず全額が免除される、という性質のものではございません」
職員の言葉に、俺は背筋を正した。
AIが提示してくれた情報は決して間違いではなかったが、制度の現場には、条文の文字面だけでは読み取れない『運用の詳細』と『審査の厳格さ』が存在していた。
安易に「申請すればタダになる」と思い込まず、一次資料を握りしめて直接窓口に来て本当によかった。
AIの言葉を鵜呑みにせず、現場で確認することの重みを肌で知った瞬間だった。
「分かりました。必ず減免されるわけではないのですね。それでも、母が退院したあとの生活費を考えると、少しでも固定費の負担を減らしたいです。審査のために必要な書類を教えていただけますか」
俺の真っ直ぐな言葉に、男性職員は丁寧に頷いた。
「もちろんです。申請を希望される場合は、お母様の入院期間が分かる書類、医師の診断書や入院証明書ですね。それから、休業によって給与が支払われていないことを証明する直近数か月分の給与明細や休業証明書、そして世帯全体の資産状況が分かる預貯金通帳の写しなどをご準備いただくことになります。来月の納期限までに書類を揃えてご提出いただければ、そこからの審査となります」
職員は必要な書類の一覧にマーカーを引いて、俺に手渡してくれた。
「お母様の治療が最優先ですから、焦らずに準備してください。何かわからないことがあれば、いつでも窓口へお電話くださいね」
「ありがとうございます。書類を揃えて、必ずまた来ます」
深く一礼して、国民健康保険課のカウンターを後にした。
手には、即日で発行してもらえた『限度額適用認定証』と、減免申請のための書類リストが握られていた。
市役所の外に出ると、正午を過ぎた熱風が肌を叩いた。
額からは相変わらず汗が吹き出していたが、朝ここへ向かった時のような、足元が崩れ落ちるような恐怖は消えていた。
自分は無力な引きこもりかもしれない。
だが、調べ、足を運び、人と対話することで、母の医療費の負担を劇的に減らす切符を手に入れた。
小さな一歩だが、それは紛れもなく、俺が自分の足で勝ち取った現実の結果だった。
自転車に飛び乗り、今度は母のいる総合病院へと向かった。
一階の入退院受付で、発行されたばかりの限度額適用認定証を提示する。
事務スタッフが慣れた手つきで確認し、端末に入力してくれた。
「確かに承りました。これで今月末の入院費用のご請求は、高額療養費の自己負担限度額と食事代等の合算で計算させていただきますね」
その事務的な一言が、俺の耳にはこの上なく頼もしく響いた。
エレベーターで四階へ上がり、母の病室へと向かう。
個室ではない四人部屋の、窓際のベッド。
カーテンの隙間から覗くと、母はベッドの上で上体を少し起こし、窓の外をぼんやりと眺めていた。
昨夜よりも顔の土気色が薄れ、点滴の管が繋がれた腕で、ゆっくりと湯呑みのお茶を口に運んでいた。
「母さん」
小さく声をかけると、母は驚いたようにこちらを振り返った。
「湊……来てくれたのかい」
病室の丸椅子を引き寄せて腰を下ろす。
母の痩せた顔を見ると、昨夜の吐血の恐怖が胸の奥でチクリと疼いた。
「体調は、どうだ?」
「うん……止血の点滴が効いているみたいで、胸のムカムカはずいぶん治まったよ。お医者さんからも、来週詳しい内視鏡とCTの検査をして、手術の日程を決めましょうって言われたところ」
母はそう言って弱々しく微笑んだが、その瞳の奥には、手術への恐怖と、それ以上に重たい家計への心配の色が張り付いていた。
母が何を言おうとしているのか、痛いほど分かった。
「湊……ごめんね。あたしがこんなことになって。入院なんてしたら、お金がいくらかかるか……。スーパーの店長にも休むって電話したけど、今月の給料もどうなるか分からないし……」
「母さん、心配しなくていい」
俺は母の言葉を遮り、カバンから限度額適用認定証の控えを見せた。
「役所に行って、限度額適用の手続きをしてきた。病院の受付にもさっき出してきたよ。どんなに医療費がかかっても、窓口で払うお金には法律で上限が決まってる。うちの場合は、月に数万円で済むんだ。食事代は別にかかるけど、それも減額の認定をもらってきたから」
母は丸く見開いた目で証書を見つめ、それから震える指でその紙に触れた。
「数万円……? 何十万も取られるんじゃないのかい?」
「取られないよ。ちゃんと公的な制度があるんだ。それから、母さんが働けない間の健康保険料の減免も、市役所で相談してきた。必要な書類を集めて申請する。だから、お金の心配はしなくていい。母さんは、自分の身体のことだけを考えてくれ」
母の目から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
点滴の刺さった手の甲で涙を拭いながら、母は何度も小さく頷いた。
「湊が……一人で役所まで行ってくれたのかい。こんな、ちゃんと調べて……。ありがとうね、湊……情けない母親でごめんね……」
「情けなくなんかないよ。今まで俺を養ってくれたのは母さんだろ。これくらい、当たり前だ」
母の手を握ると、昨夜の冷たさが嘘のように、かすかな温もりが伝わってきた。
六年間、部屋の暗闇の中で母の足音を聞きながら、見ないふりをして過ごしてきた。
その母が今、俺の行動に涙を流して感謝している。
胸の奥が締め付けられるように痛く、そして熱かった。
面会時間を終え、夕暮れの病院を後にした。
西日が街をオレンジ色に染め、駅前を行き交う人々の影を長く伸ばしている。
空腹を覚え、駅前のコンビニで一番安いおにぎりを一つ買って口に放り込んだ。
米の甘みが、乾いた喉に沁み渡る。
制度の手続きは進んだ。
だが、おにぎりを噛み締めながら、俺は再び冷徹な現実に引き戻されていた。
限度額適用で医療費が抑えられるとはいえ、数万円の支払いは確実に発生する。
一日三食の入院時食事代、病衣のレンタル料、日用品代。
退院したあとも、母がすぐに元のパートに戻れるはずがない。
家賃、光熱費、日々の食費。
我が家の預金残高は、今月と来月の支払いを乗り切るだけで完全に底をつく。
母を安心させるために「心配するな」と言った。
けれど、その言葉を現実に変えるための金は、まだ一円も存在していないのだ。
「俺が、稼がなきゃいけない」
駅前の雑踏の中、独り言が口からこぼれた。
公的な支援を調べることはできた。
しかし、制度は減額や猶予をしてくれるだけで、俺たちの通帳に現金を振り込んでくれるわけではない。
生きるためには、母を支え続けるためには、俺自身が社会から対価を得なければならないのだ。
高卒、職歴なし、六年間の引きこもり。
手元にあるのは、埃をかぶった古いパソコンと、わずかに使い始めた三つのAIだけ。
世間がそんな男に、一体いくらの価値をつけてくれるというのか。
胸ポケットのメモを強く握りしめ、俺は沈みゆく夕日に向かって、再び自転車のペダルを強く踏み込んだ。
読んでいただきありがとうございます。
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