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第10話 価値の尺度


 部屋の空気が一気に重苦しくなった。


 先ほどまでとは違う。

 あれは不快の色ではない。

 怒りだ。明確な、押し殺しきれぬ怒りだ。


 カーライル閣下の指が、木肘を握りしめて白くなっている。

 だがその手は震えてはいなかった。震えるのを、意志の力でねじ伏せているのだ。


 この方は毎朝、あの安楽椅子から、あの絵を眺めていた。


 それを――雑品、と。


 私は無意識に、リンちゃんとの距離を半歩詰めた。


 だが、クラウス子爵はその変化を前にしても、眉ひとつ動かさなかった。

 むしろ、興味深い観察対象でも見るように、薄く目を細めた。


「おや、何かお気に障りましたかな」


「貴様は、なんでもそうやって勘定にかけねば気が済まんのか」


「勘定ではありません。価値の算定です」


 クラウス子爵は実に淡々と言い放った。


「金銭的価値、史料的価値、美術的価値、これらは全てが非常にわかりやすい。

 貨幣換算金額、当時の王家ゆかりの由緒ある品、高名な絵師の真作。

 価値とは、万人に訴求できる、あるいは共有できる、つまり数字、尺度で決まるのです」


 嘲りはなかった。

 生徒に自明の理を説く教師のような、実直な口調。

 それが却って、この男の芯の硬さを物語っていた。


 カーライル閣下は、一瞬止まった。

 そして薄い笑みを貼り付けた唇が動いた。


「……なるほど……、上澄みだけ掬って、泉の深さまで知ったつもりでいるか……」


 初めてクラウス子爵の眉間にシワが寄った。


「……どういう意味でしょうか……」


 険のある視線を、カーライル閣下は軽く受け流した。


「己が感性では価値を測れぬ故に、他人の物差しに自分の名札を貼って価値を語るとはな。

 ご高説が実は多数決の言い換えでしかないとは、滑稽極まる」


 クラウス子爵が固く口を結んだ。

 歯をすり潰すような音が聞こえた。

 しかしすぐにクラウス子爵が僅かに唇の端を上げた。

 

「他人の物差し……ですか。

 ですが万人にわからぬ測りでは、人は価値を認めませんよ。それは独善的な執着でしかない」


 眼鏡の縁を、指先でついと押し上げる。


「私は幾度も見てきました。偏愛の蒐集家が世を去り、遺された品が『誰にも価値がわからぬ』というだけの理由で、散り散りになり、反故にされていくのを。

 尺度とは、持ち主が消えた後も、その品を『残すべきものだ』と他者に説明できる、唯一の言葉なのですよ」


 詭弁ではない。

 むしろ一片の真実を含んでいる。

 だからこそ、腹の底が冷えた。


「博物館は、何を残し何を切るかを決めなければならない。文化の保全を使命とする以上、やむを得ない事でしょう」


「貴様の博物館に文化の保全などという意義はない。

 数字、格、由緒、権威。もっともらしい名札を下げた品を棚に並べて悦に入るだけだ」


 両者が睨み合った。


「感傷ですな」

「感傷で結構」


 短い応酬。


 カーライル閣下の手にまた力がこもった。


「少なくとも私は、失われたものにそんな名札を貼る趣味はない」


 その言葉に、エリシア様の目が僅かに見開いた。

 私もまた、息を呑んだ。

 リンちゃんの指が、エリシア様の袖を固く握りしめている。


 カーライル閣下は、まだ止まらなかった。


「名匠の筆ではない、王家の印もない、万人が驚嘆する財でもない、そんな品があったとする」


 一歩、クラウス子爵に近づく。


「貴様はそれを何の価値もない雑品と断ずるだろう。

 だが、貴様には生涯わからぬ価値というものがある」


 クラウス子爵の笑みが、すっと消えた。

 そして、静かに言う。


「……価値とは、他者と共有できてこそ価値でしょう。あなただけの執着に、何の意味が?」


 その瞬間、リンちゃんがびくりと肩を震わせた。

 クラウス子爵の視線が、ほんの一瞬だけそちらへ流れた。

 だが、怒声に竦んだ子供、程度の認識だったのだろう。すぐにカーライル閣下へ戻る。

 

 それでいい、と私は思った。今は。

 さりげなくリンちゃんの横に立った。


 カーライル閣下は、その小さな反応を横目で見て、なおもクラウス子爵から目を逸らさない。


「執着であろうと構わん」


 声は低い。しかし、その一語一語は、不思議なほど明瞭だった。


「この世には、他人から見れば取るに足らぬものでも、たったひとりにとって世界の全てに等しいものがある」


 私の胸が、強く打った。


 カーライル閣下の視線が優しさを湛え、そこで初めてリンちゃんへ向いた。


 しかし、カーライル閣下の言葉にも、クラウス子爵は肩をすくめるだけだった。


「やはりご理解はいただけぬようだ。

 まあいい、あなたにどう評価されようと結構。

 私は万人が認める価値ある物を保全し、後世に伝える役どころに着く。

 やがて皆が私をこう呼ぶことでしょう。

 『文化の守護者』と。

 そして私はまた一段階段を登るのです」


 また嫌な感じがした。

 だが、これまでとは少し違う。

 なんだ……


 違和感の正体を掴みきれない私の耳に、小さな声が届いた。


「……違う……」


 リンちゃんだった。


 クラウス子爵の視線がまた流れた。

 エリシア様も、カーライル閣下も、リンちゃんを見つめた。


「ほう……、何が違うのかな、お嬢さん」


 リンちゃんが、また肩を震わせた。

 怒気も、恫喝もない。

 蔑みの圧だった。


 リンちゃんの前に身体を入れようとした時、またリンちゃんが言った。


「……だいじにしてない……」


 カーライル閣下の目が大きく見開かれた。


「子爵様……、集めた物、だいじにしてない」


 クラウス子爵がまた、眼鏡の縁を摘む。


「大事にしてるさ。きれいにして、光を当てて、並べて、みんなに見てもらうんだからね」


 リンちゃんが首を振った。


「でも、子爵様、どれも好きじゃないでしょ……」


 その言葉。

 カーライル閣下は口元を押さえ、エリシア様はソッとリンちゃんの肩に手をやり、クラウス子爵は―――鼻で笑った。


「これは好き嫌いで決める事ではないんだ。

 誰もが認めて初めて残すべき品になる。

 ただひとりの拘りなど、何の役にも立たない。子供にはわからんだろうがね」


「みんながそう言わなきゃ……ダメなの?」


「もちろんだ。その数こそが力になる」


 リンちゃんが難しい顔をしている。

 気持ちをなんとか自分の言葉にしたいようだ。


 ひとつ頷く。

 小さな口が、また動いた。


「……それじゃ、博物館じゃなくても……歴史的……いぶつ?じゃなくても……いいんだ。

 すごいって言ってくれる人の数が好きなんだ」


 ――これか。

 これが、あの嫌な感じの正体か。


 この男は、史物に愛着なんてないんだ。

 最初に言っていた。

 誰かに勧められて始めたと。

 最後に言っていた。

 また一段階段を登ると。


 当のクラウス子爵は、わざとらしくやれやれとため息を吐いた。

 

「子供との議論はこれだから困る。合理の欠片もない」


 その視線が、ふとエリシア様へ向いた。

 いや、正確にはその向こう側――

 テーゼという都市そのものへ、というべきか。


「……このような子供との舌戦は領主閣下にはお耳障りでしたな、申し訳ございませんでした」


 口元に、僅かな笑みが浮かぶ。


「よい機会ですので、ぜひともお聞きいただきたい。

 私は貴都市に少なからず興味を覚えておりましてな」


 エリシア様の笑みが、薄く、硬くなった。


「ほう……」


「聞けば、独立都市テーゼには、なかなかに優れた実務家がおられるとか。

 数字に明るく、物流を押さえ、人と物と金の流れを読み、都市運営を盤石なものとし、各国の宰相クラスの方々からも『辣腕』と評される――」


 そこでクラウス子爵は、わざとらしいほど穏やかな声音で続けた。


「……私によく似た方が居られると聞きますが――」



 



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