第9話 初恋の面影
マンションへ戻るまでの間、美咲はどこか上の空だった。
隣を歩きながら、ときどき悠真の横顔を見ている。
視線に気づいて悠真が顔を向けると、美咲は慌てて前を向く。数分後には、また同じことを繰り返した。
「一ノ瀬さん」
「な、何?」
「さっきから、何度も俺を見てるだろ」
美咲の肩が小さく跳ねた。
「見てないよ」
「今も見てた」
「それは、水瀬くんが重そうな荷物を持ってるから」
「マンションまで持てると言っただろ」
「本当に大丈夫かなって、確認してただけ」
美咲は胸の前で両手を振り、必死に否定する。
けれど、その頬は僅かに赤くなっていた。
「他に何かあるんじゃないのか?」
「ないよ」
「初恋の相手を思い出してたとか?」
何気なく尋ねた瞬間、美咲は足を止めた。
悠真も数歩先で立ち止まり、振り返る。
美咲は驚いたように目を大きく開いていた。やがて、恥ずかしそうに視線を足元へ落とす。
「どうして分かったの?」
「本当に考えてたのか」
「水瀬くんが言ったんでしょう?」
「適当に言っただけだ」
「……ずるい」
美咲は唇を尖らせた。
悠真が歩き出すと、彼女も少し遅れて隣へ戻ってくる。
「さっきのテレビを見たから、昔のことを思い出してたの」
「初恋は、もう終わったんじゃなかったのか?」
「終わったよ」
美咲はすぐに答えた。
しかし、自分の言い方が冷たく聞こえたと思ったのか、少し困ったように眉尻を下げる。
「忘れたという意味じゃなくてね。今でも大切な思い出だけど、いつまでもテレビの中の人を追いかけているわけにはいかないでしょう?」
「会えるかもしれないぞ」
「もう引退してるから」
「街ですれ違う可能性もある」
「もし会っても、気づかないと思う」
美咲は寂しそうに微笑んだ。
「十年も経ってるし、今はどんな顔になってるか分からないもの」
「仮に、気づいたら?」
「お礼を言いたいかな」
「好きだったとは言わないのか?」
「言えないよ」
美咲は顔を赤くし、髪を耳へかけた。
「会ったこともない女の子から、初恋でしたって言われても困るでしょう?」
「そうかもしれない」
「それに、本人にとっては昔の仕事の一つだと思うから」
美咲は前を向いた。
「私が勝手に救われただけ。だから、ありがとうって言えたら、それで十分なの」
悠真は黙って彼女の横顔を見た。
美咲は自分が何も返せなかったと思っている。
けれど、もし天宮レイとしての活動に何か意味があったのだとすれば、彼女のような人間が一人でもいたことが、その答えなのかもしれない。
悠真にとって過去の仕事は、消してしまいたい記憶に近かった。
期待を押しつけられ、誰かの望む子供を演じ続けた日々。
けれど、すべてが無意味だったわけではない。
そう思えたことが、少しだけ不思議だった。
「水瀬くん?」
「何だ?」
「また難しい顔をしてる」
美咲が顔を覗き込んでくる。
「天宮レイくんのこと、気になるの?」
「少しな」
「もしかして、知ってた?」
「あの頃は有名だったんだろ」
「うん。でも、私たちが五歳くらいのときだよ?」
「再放送を見たことがある」
悠真は平然と嘘をついた。
美咲は少しだけ不思議そうに首を傾げたが、すぐに納得したように頷く。
「そっか」
追及されなかったことに安堵する一方、胸のどこかに小さな痛みを感じた。
美咲は天宮レイのことを話すとき、特別な表情をする。
過去を懐かしむ、優しくて大切そうな笑顔。
それを向けられている相手は自分でありながら、水瀬悠真ではない。
その事実が、なぜか少しだけ面白くなかった。
◇
部屋へ戻ると、美咲はすぐに調理の準備を始めた。
淡い黄色のエプロンを着け、後ろで髪を一つに束ねる。
悠真は買い物袋から食材を取り出し、彼女の指示に従って冷蔵庫へ入れていった。
「鶏肉は出したままでいいのか?」
「うん。今から切るから、調理台に置いて」
「野菜は?」
「キャベツとトマトだけ使うよ。キュウリは冷蔵庫にお願い」
「分かった」
悠真が食材を片づける。
美咲はその様子を横目で見ながら、嬉しそうに口元を緩めていた。
「何だ?」
「ちゃんと手伝ってくれてるなと思って」
「俺の夕食でもあるからな」
「昨日より積極的だね」
「袋から出してるだけだ」
「それでも進歩だよ」
また褒められる。
悠真は少し居心地が悪くなり、冷蔵庫の中へ視線を向けた。
「これはどこに置く?」
手にしていたマヨネーズを見せる。
「扉のところでいいよ」
「分かった」
「水瀬くん」
「何だ?」
「ちょっと嬉しそう」
「気のせいだ」
「褒められるの、本当は嫌いじゃないでしょう?」
「好きでもない」
悠真は冷蔵庫の扉を閉じた。
美咲は小さく笑い、鶏肉の調理へ戻る。
「唐揚げは、切ったお肉を調味料に漬けるところから始めるの」
「すぐ揚げないのか?」
「味を染み込ませる時間が必要だから」
「どのくらい?」
「今日は三十分くらいかな」
「意外と時間がかかるんだな」
「だから、待ってる間にサラダを作ろうね」
「俺も作るのか?」
「一緒に作る約束でしょう?」
「そんな約束はしてない」
「昨日、考えておくって言ったよ」
「今すぐとは言ってない」
美咲は少し頬を膨らませる。
「水瀬くんは、言葉の隙を見つけて逃げるのが上手だね」
「約束してないものは約束してない」
「それなら、今から約束しよう」
「しない」
「やっぱり逃げた」
美咲は呆れたように笑った。
けれど悠真がキッチンから離れようとすると、エプロンの裾を軽くつまむ。
「待って」
「何だ?」
「キャベツを洗うだけでいいから」
「それなら包丁は使わないな」
「うん。水で洗って、食べられないところを取ってくれればいいよ」
「分かった」
悠真が承諾すると、美咲の表情が明るくなった。
「ありがとう」
「礼を言われるほどのことじゃない」
「一緒に作ってくれるのが嬉しいの」
美咲は手を離した。
エプロンの裾には、彼女の指でつままれた小さな皺が残っている。
悠真はそれを指先で直しながら、キャベツを手に取った。
◇
調味料へ漬けた鶏肉を冷蔵庫へ入れたあと、二人はサラダを作り始めた。
悠真がキャベツを洗い、美咲が細く切る。
作業はそれだけだった。
「終わったぞ」
「うん。ありがとう」
美咲はキャベツを受け取り、まな板の上へ置いた。
包丁が規則正しい音を立てる。
悠真は隣に立ち、その手元を見つめていた。
「見てるだけ?」
「手伝いは終わっただろ」
「切ってみる?」
「遠慮する」
「私が隣で見てるよ」
「それが嫌だ」
「どうして?」
「失敗したら笑うだろ」
「笑わないって言ったでしょう?」
美咲は包丁を止め、悠真の顔を見る。
その目は真剣だった。
「水瀬くんが失敗しても、馬鹿にしたりしないよ」
「昨日の卵は笑ってた気がするけど」
「あれは……」
美咲の頬が僅かに赤くなる。
「殻を追いかけてる水瀬くんが、ちょっと可愛かったから」
「今、馬鹿にしただろ」
「してないよ。可愛いって思っただけ」
「高校生の男子に言う言葉じゃない」
悠真が眉を寄せる。
美咲は口元へ手を当て、楽しそうに笑った。
「そういう顔も可愛いよ」
「帰るか?」
「ここ、水瀬くんの部屋だよ?」
美咲はますます楽しそうに笑う。
悠真は反論できず、少し乱暴に椅子へ座った。
「サラダができるまで待ってる」
「拗ねたの?」
「拗ねてない」
「水瀬くんって、意外と子供っぽいところがあるね」
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言ったから」
美咲は笑いながら、再び包丁を動かし始めた。
◇
三十分後。
鶏肉に片栗粉をまぶし、油を温める。
美咲は菜箸の先を油へ入れ、温度を確かめていた。
「それで何が分かるんだ?」
「細かい泡が出るでしょう? これで、だいたいの温度が分かるの」
「数字で表示されないのか」
「このコンロには揚げ物用の設定がないからね」
「料理は感覚が多すぎるな」
「何度かやれば慣れるよ」
美咲は鶏肉を一つずつ油へ入れていく。
激しい音とともに、細かな油の泡が広がった。
悠真は少し離れたところから眺めている。
「近づかないの?」
「油が跳ねてる」
「熱いから気をつけてね」
美咲が唐揚げを裏返そうとした、その瞬間だった。
菜箸でつかんだ鶏肉が滑り、油の中へ落ちる。
「あっ」
油が大きく跳ねた。
美咲は反応できず、その場で目を閉じる。
悠真の身体は、考えるより先に動いていた。
彼女の肩を抱き寄せ、自分の身体を油との間へ入れる。
反対の手でコンロの火を弱めた。
跳ねた油の一部が、悠真の手の甲へ当たる。
「水瀬くん!」
美咲が目を開いた。
自分が悠真の胸元へ抱き寄せられていることに気づき、瞳を大きくする。
「大丈夫か?」
悠真は美咲の顔と腕を確認した。
「火傷は?」
「私はしてない。でも、水瀬くんの手に……」
美咲の視線が、悠真の右手へ落ちる。
手の甲が少し赤くなっていた。
「これくらい大丈夫だ」
「大丈夫じゃないよ」
美咲は悠真の腕をつかみ、水道の前へ引いた。
蛇口を開け、冷たい水を手の甲へ当てる。
「すぐ冷やさないと」
「少し跳ねただけだ」
「火傷はあとから痛くなることもあるの」
美咲は心配そうに眉を寄せ、悠真の手を両手で支えていた。
指先が僅かに震えている。
「一ノ瀬さん」
「何?」
「近い」
悠真が言うと、美咲はようやく二人の距離に気づいた。
肩が触れるほど近くに立ち、悠真の手を包み込むように握っている。
美咲の頬が、一気に赤くなった。
「ご、ごめん」
そう言いながらも、手は離さなかった。
「まだ冷やさないといけないから」
「自分でできる」
「私がやる」
「どうして?」
「私のせいで火傷したんだから」
美咲は唇を引き結び、赤くなった手の甲を見つめる。
「ごめんなさい」
「一ノ瀬さんが謝ることじゃない」
「でも、私が落としたから」
「あれくらいなら、誰にでもあるだろ」
「水瀬くんが庇わなかったら、私が火傷してた」
「なら、庇って正解だった」
悠真が平然と答える。
美咲の指が僅かに動いた。
顔を上げた彼女の瞳が、不安そうに揺れている。
「どうして、そんなにすぐ動けたの?」
「たまたま近くにいたから」
「私より先に火を弱めてたよね?」
「危ないと思っただけだ」
「それに……」
美咲は悠真の胸元へ視線を移した。
「私を抱き寄せて、自分が前に出た」
「そのほうが早かった」
「水瀬くんは、怖くなかったの?」
「油が跳ねただけだろ」
悠真は何でもないことのように答えた。
けれど美咲は納得していない。
悠真の反応は、普通の高校生にしては早すぎた。
幼い頃から撮影現場では、周囲の状況を瞬時に把握することを求められた。立ち位置、カメラの向き、共演者の動き、照明機材の位置。
さらに、アクション作品へ出演した際には、転び方や相手を庇う動作も教え込まれている。
それらが、今でも身体に残っていた。
「また、今度は何を隠してるのかって聞くつもりか?」
悠真が尋ねる。
美咲は目を伏せた。
「聞きたいけど、聞かない」
「どうして?」
「今聞いたら、水瀬くんが困るでしょう?」
美咲は冷たい水を止めた。
それから悠真の手の甲を、傷つけないようにそっと確認する。
「話せるときに話すって、昨日言ってくれたから」
「覚えてたのか」
「もちろん」
美咲は顔を上げ、柔らかく微笑んだ。
「待ってるね」
その言葉を聞き、悠真の胸に罪悪感が生まれた。
自分は美咲へ、いくつもの嘘をついている。
学力を隠している。
運動能力も隠している。
過去も、本当の自分も。
何より、美咲が大切な初恋として語った天宮レイが、自分であることを黙っている。
けれど、今さら簡単には話せない。
正体を明かせば、引退した理由についても尋ねられるだろう。
あの日のことを言葉にする準備は、まだできていなかった。
「そろそろ唐揚げを見たほうがいいんじゃないか?」
悠真は話題を変えた。
「あっ!」
美咲が慌ててコンロを振り返る。
「焦げちゃう!」
彼女は急いで菜箸を持ち、唐揚げを裏返した。
幸い、火を弱めていたため焦げてはいない。
「よかった……」
美咲は胸を撫で下ろした。
「今度は落とすなよ」
「気をつけます」
美咲は少し恥ずかしそうに答える。
悠真は念のため彼女の隣に立った。
「そこにいるの?」
「また油が跳ねたら困るからな」
「今度は大丈夫だよ」
「信用できない」
「それ、いつも私が水瀬くんに言ってる言葉だね」
美咲は小さく笑った。
「でも、ありがとう」
◇
完成した唐揚げは、綺麗なきつね色に揚がっていた。
キャベツとトマトを添え、味噌汁とご飯もテーブルへ並べる。
二人は向かい合って座った。
「いただきます」
悠真が唐揚げを一つ口へ運ぶ。
表面は香ばしく、中の鶏肉は柔らかい。噛むと肉汁が広がり、醤油とニンニク、ショウガの味が感じられた。
「どう?」
美咲はまだ食べず、不安そうに悠真の反応を待っている。
「美味い」
悠真が答えると、美咲の目元が柔らかくなる。
「本当?」
「ああ。今まで食べた唐揚げの中で、一番美味いかもしれない」
考えるより先に、本音が出ていた。
美咲は目を大きく開いた。
そのあと、頬を赤くしながら俯く。
「それは、少し大げさじゃない?」
「大げさじゃない」
「お店の唐揚げとか、もっと美味しいものもあると思うよ」
「俺は、これが一番好きだ」
悠真は唐揚げをもう一つ口へ運ぶ。
美咲はしばらく動かなかった。
俯いたまま、胸元で箸を強く握っている。
「食べないのか?」
悠真が尋ねると、美咲はゆっくり顔を上げた。
頬は赤いままだが、表情は嬉しそうに緩んでいる。
「食べるよ」
美咲は自分の唐揚げへ箸を伸ばす。
「水瀬くん」
「何だ?」
「もう一回、言ってくれる?」
「何を?」
「一番好きだって」
「唐揚げが?」
「……うん。唐揚げが」
一瞬だけ、美咲の目に別の感情が浮かんだ気がした。
けれど、悠真にはその正体が分からなかった。
「この唐揚げが、一番好きだ」
もう一度告げる。
美咲は照れくさそうに唇を結び、頬を緩めた。
「ありがとう」
「どうして一ノ瀬さんが礼を言うんだ」
「私が作ったから」
「そうだったな」
「また作るね」
「ああ」
今度は悠真も断らなかった。
◇
食事の途中、美咲は何度も悠真の手を気にしていた。
「まだ痛い?」
「痛くない」
「本当に?」
「ああ」
「赤くなってない?」
「さっきより薄くなった」
「あとで薬を持ってこようか?」
「必要ない」
「でも――」
「一ノ瀬さん」
悠真は箸を置いた。
「本当に大丈夫だ。心配しすぎるな」
美咲は口を閉じる。
けれど、瞳の中の不安は消えなかった。
「誰かが自分のせいで怪我をするの、嫌なの」
「一ノ瀬さんのせいじゃない」
「私が失敗したからでしょう?」
「失敗してもいいと言ったのは、一ノ瀬さんだろ」
悠真が言うと、美咲は驚いたように瞬きをした。
「俺が失敗しても笑わない。上手くできるまで一緒にやればいい。昨日、そう言ったよな」
「うん」
「なら、一ノ瀬さんが失敗しても同じだろ」
悠真は唐揚げを一つ取った。
「落としたくらいで気にするな。料理は美味くできてる」
美咲は何も言わなかった。
長い睫毛が下がり、視線が皿へ落ちる。
泣きそうなのかと思ったが、口元には小さな笑みが浮かんでいた。
「水瀬くんって、ずるいね」
「何が?」
「そういうことを、何でもないみたいに言うところ」
「当たり前のことを言っただけだ」
「それが、ずるいの」
美咲は指先で目元へ触れた。
泣いているわけではない。ただ、僅かに滲んだものを隠すような仕草だった。
「ありがとう」
今度の礼に、悠真は何も返さなかった。
代わりに、最後の唐揚げへ箸を伸ばす。
同時に、美咲の箸も同じ唐揚げをつかんだ。
二人の箸先が触れ合う。
「あ」
美咲が手を止める。
悠真も唐揚げを挟んだまま動かなかった。
「食べたいなら、どうぞ」
悠真が箸を離そうとする。
「待って」
美咲は唐揚げを見つめ、少し考え込んだ。
「半分にする?」
「もう一つ揚げればいいだろ」
「今から?」
「冷蔵庫に残ってる」
「でも、油をまた温めるのは大変だから……」
美咲は箸で唐揚げを押さえ、菜箸を使って半分に分けた。
大きいほうを悠真の皿へ、小さいほうを自分の皿へ置く。
「どうして俺のほうが大きい?」
「水瀬くんが好きだって言ってくれたから」
「作った人間が食べればいいだろ」
「私は、また作れるから」
美咲は小さいほうの唐揚げを口へ運び、嬉しそうに笑った。
「それに、水瀬くんが美味しそうに食べてるのを見るほうが好き」
悠真は大きいほうの唐揚げを見つめた。
美咲の好意は、素直で分かりやすい。
ただし、それがクラスメイトや隣人へ向けるものなのか、別の感情なのかは、まだ誰にも分からなかった。
◇
食事を終え、二人で食器を洗う。
美咲が水気を拭き、悠真が食器棚へ戻した。
「一ノ瀬さん」
「何?」
「さっきの初恋の話だけど」
美咲の手が止まる。
「まだ聞きたいことがあるの?」
「あの子役が今、昔と全然違う人間になっていたらどうする?」
「全然違う?」
「目立たなくて、愛想もなくて、料理もできないような人間」
自分で言いながら、最後の一つは子役時代と関係がないと思う。
美咲は食器を拭く布巾を持ったまま、しばらく考えた。
「それでも、いいんじゃないかな」
「好きだった人と違っても?」
「私が好きだったのは、テレビで見ていた頃のレイくんだよ。今も同じでいてほしいって望むのは、勝手でしょう?」
美咲は食器を置き、柔らかく微笑んだ。
「今の本人には、今の生活があるから」
「失望しないのか?」
「少し驚くかもしれないけど、失望はしないと思う」
「どうして?」
「昔のレイくんに助けてもらった事実は、変わらないから」
美咲は胸へ手を添えた。
「今の彼がどんな人でも、私にとって大切な思い出であることは同じだよ」
悠真の胸の奥に、温かいものが広がった。
同時に、話したいという衝動が生まれる。
自分が天宮レイだと。
あなたの初恋の相手は、今目の前にいるのだと。
けれど、言葉は喉の奥で止まった。
「そうか」
結局、それだけを返した。
美咲は少し不思議そうに悠真を見る。
その瞬間、悠真の口元が僅かに緩んだ。
作った笑顔ではない。
誰かを安心させるためでも、カメラに見せるためでもない。
美咲の言葉に救われ、自然に生まれた小さな笑みだった。
美咲の瞳が、大きく開かれる。
「……水瀬くん?」
「何だ?」
「今の顔」
「顔?」
美咲は悠真から目を離さなかった。
懐かしい何かを探すように、眉を僅かに寄せている。
「どこかで見たことがある気がする」
悠真の笑みが消えた。
「同じクラスなんだから、毎日見てるだろ」
「そうじゃなくて……もっと前に」
美咲は記憶を辿るように、悠真の目元や口元へ視線を動かした。
「ずっと昔に、同じ笑い方を見たような……」
悠真の心臓が強く鳴る。
スーパーのテレビに映っていた、幼い天宮レイ。
美咲が一番好きだったと言った、誰かを安心させる笑顔。
「気のせいだろ」
悠真は表情を消した。
「俺と一ノ瀬さんは、高校で初めて会ったんだから」
「うん。そうだよね」
美咲は納得しようとするように頷いた。
けれど、その視線には疑問が残っている。
「ごめんね。変なこと言って」
「気にしてない」
悠真は洗い終えた皿を食器棚へ入れた。
背中を向けたことで、美咲から表情が見えなくなる。
胸の鼓動は、まだ速かった。
髪型も、服装も、雰囲気も変わっている。
十年前の子供と、今の自分を結びつけることなどできないはずだ。
それでも、美咲は一瞬だけ面影を見つけた。
「水瀬くん」
背後から声が聞こえる。
「何だ?」
「もう一回、笑ってみてくれる?」
「嫌だ」
悠真は即答した。
「どうして?」
「理由もないのに笑えるか」
「それなら、面白い話をする」
「しなくていい」
「私、頑張って考えるよ?」
「必要ない」
美咲は不満そうに唇を尖らせた。
「今の笑顔、もう一度見たかったのに」
「また、そのうち見られるだろ」
悠真が何気なく答える。
美咲は驚いたように瞬きをした。
それから、ゆっくりと頬を緩める。
「うん」
彼女は胸元で両手を組み、嬉しそうに笑った。
「楽しみにしてるね」
悠真は返事をしなかった。
水瀬悠真として自然に笑った顔に、天宮レイの面影を見つけられた。
それは恐ろしいことのはずだった。
過去へ近づかれたくない。
正体を知られたくない。
それなのに、彼女だけなら気づいてもいいと、心のどこかで思い始めている。
その気持ちを、悠真はまだ認められなかった。
読んでくださってありがとうございます。
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