第8話 彼女の初恋と、彼の偽名
翌朝、悠真が目を覚ますと、美咲からメッセージが届いていた。
送信時刻は午前七時ちょうど。
『おはよう。昨日の宿題、答えは決まった?』
昨日出された宿題。
今日の夕食に食べたいものを、一つ決めること。
悠真はベッドに横になったまま、しばらく考えた。
美咲の作る料理なら、おそらく何を食べても美味しい。だから本音を言えば、昨日と同じく「何でもいい」と答えたい。
しかし、その返事は禁止されている。
適当な料理名を挙げればいいのだが、それすらなかなか思いつかない。
悠真はスマートフォンを持ったまま、子供の頃に好きだった料理を思い出そうとした。
ハンバーグ。
カレー。
エビフライ。
どれも嫌いではない。
けれど、一番最初に浮かんだのは別の料理だった。
『唐揚げ』
短く入力し、送信する。
数秒後に既読がついた。
『唐揚げが好きなの?』
『嫌いじゃない』
『好きなものを聞いてるのに、どうして嫌いじゃないって言い方をするの?』
画面を見ながら、悠真は僅かに眉を寄せた。
どうやら、曖昧な言い方では認めてもらえないらしい。
『好きだと思う』
『思う?』
『好きだ』
送信した直後、自分が何をしているのか分からなくなった。
唐揚げが好きだと認めるだけの会話に、なぜこれほど時間を使っているのか。
『分かりました。今日は唐揚げにします』
嬉しそうな動物の絵文字が続けて送られてくる。
『でも、帰りに一緒に買い物へ行ってほしいな』
『どうして?』
『鶏肉が足りないから。それに、水瀬くんが好きな味つけを聞きたいの』
『普通でいい』
『また普通って言ってる』
悠真は返信する言葉を失った。
『放課後、昇降口で待ってるね』
『一人で行けるだろ』
『荷物を持ってくれる人がいると助かります』
『俺は荷物持ちか』
『駄目?』
続けて、寂しそうな動物の絵文字が送られてくる。
美咲本人が、わざと眉尻を下げている姿まで簡単に想像できた。
『分かった』
『ありがとう。楽しみにしてるね』
悠真はスマートフォンを置き、ベッドから起き上がった。
ただスーパーへ買い物に行くだけだ。
美咲が夕食を作るための食材を買い、悠真は荷物を持つ。
それ以上の意味はない。
「……楽しみにするようなことか?」
呟きながらキッチンへ向かう。
冷蔵庫には、昨日美咲から渡された小さな保存容器が入っていた。
中身は、昨夜作ったオムライスの余りだった。
『朝、温めて食べてね』
そう言われていたことを思い出す。
悠真は電子レンジへ容器を入れた。
加熱時間が分からず、操作パネルの前で数秒迷う。
結局、一分を選んで開始ボタンを押した。
温め終えたオムライスを食べ、証拠として写真を撮る。
『朝食』
美咲へ送ると、すぐに返信が来た。
『ちゃんと温められた?』
『一分』
『冷たくなかった?』
『少し』
『そういうときは、十秒ずつ追加で温めるんだよ』
『次からそうする』
『食べる前に聞いてくれれば教えたのに』
悠真は空になった容器を見る。
少し冷たかったが、食べられないほどではなかった。
『食べられたから問題ない』
『問題はなくても、美味しいほうがいいでしょう?』
その言葉に、悠真の指が止まる。
食べられればいい。
生きていければいい。
これまでの悠真は、ずっとそう考えてきた。
けれど美咲は、問題がないだけでは不十分だと言う。
温かいほうが美味しい。
誰かと食べるほうが楽しい。
失敗しても、一緒にできるようになればいい。
どれも悠真が長い間、考えようとしなかったことだった。
『次は聞く』
悠真が返信すると、美咲から喜ぶ動物の絵文字が送られてきた。
◇
放課後。
悠真が昇降口へ向かうと、美咲はすでに靴箱の前で待っていた。
友人と話しているが、何度も校舎の奥へ視線を向けている。
悠真の姿に気づいた瞬間、彼女の表情が明るくなった。
「あ、水瀬くん」
美咲は友人へ小さく手を振り、悠真のもとへ歩いてきた。
「お待たせ」
「私も今来たところだよ」
美咲はそう言ったが、悠真が教室を出たときには、すでに彼女の姿がなかった。
少なくとも数分は待っていたはずだ。
「どこのスーパーへ行くんだ?」
「駅の近く。昨日、特売のチラシが入ってたの」
「チラシまで見てるのか」
「食費は大切だよ」
美咲は真面目な表情で言ったあと、悪戯っぽく目を細めた。
「水瀬くんみたいに、毎日コンビニで買ってたら高くなるでしょう?」
「食費の計算はしてない」
「今度、一緒に計算してみる?」
「遠慮する」
「無駄遣いが分かるかもしれないよ」
「知らなければ傷つかない」
「そうやって現実から逃げたら駄目」
美咲は頬を膨らませた。
二人は並んで駅へ向かう。
学校から離れるにつれ、美咲の表情は少しずつ柔らかくなっていった。
教室では、誰に対しても愛想よく、背筋を伸ばしている。
今は歩調も少し軽く、時折、歩道の模様を踏むように足を運んでいた。
「楽しそうだな」
悠真が言う。
美咲は驚いたように顔を上げた。
「そう見える?」
「ああ」
「うん。少し楽しみだったから」
「買い物が?」
「それもあるけど」
美咲は視線を前へ戻した。
頬にかかった髪を指先で耳へかける。
「放課後に、クラスの人と一緒に買い物へ行くことが、あまりなかったの」
「友達と行けばいいだろ」
「今は誘ってもらえるけど、昔はそういう相手がいなかったから」
美咲は僅かに俯いた。
「だから今でも、こういうことがあると嬉しいの」
「買い物に行くだけだぞ」
「水瀬くんにとっては、そうかもしれないね」
美咲は寂しそうに笑った。
その表情を見て、悠真の胸に小さな痛みが走る。
言い方を間違えたらしい。
「別に、嫌という意味じゃない」
悠真が続けると、美咲の瞳がこちらへ動いた。
「そうなの?」
「ああ。俺もスーパーへ行く機会は少ないからな」
「コンビニばかりだもんね」
「そこは忘れろ」
美咲の口元に笑みが戻った。
「それじゃあ、今日は私が買い物の仕方を教えてあげるね」
「買い物くらいできる」
「野菜の選び方は?」
「見た目で決める」
「お肉の値段は?」
「書いてある」
「百グラムあたりの値段と、パックの値段の違いは?」
「……書いてあるだろ」
悠真の返事に自信がなくなる。
美咲は楽しそうに笑った。
「やっぱり、私が教えないとね」
◇
駅前のスーパーは、夕食の買い物をする客で賑わっていた。
入口には特売品の写真が並び、店内からは明るい音楽が聞こえてくる。
美咲は買い物かごを手に取った。
悠真が受け取ろうとすると、彼女は首を横へ振る。
「今は私が持つよ」
「荷物持ちとして呼ばれたんじゃないのか?」
「重くなったらお願いするね」
二人は野菜売り場から回った。
美咲はキャベツを一玉手に取り、重さを確かめる。
葉の状態を見たあと、別のキャベツと比べ始めた。
「何が違うんだ?」
悠真が横から覗き込む。
「春キャベツは、ふんわりしていて軽いものを選ぶといいんだよ」
「重いほうが中身が詰まってるんじゃないのか?」
「普通のキャベツならそうだけど、春キャベツは葉が柔らかいから違うの」
「複雑だな」
「慣れれば分かるよ」
美咲は選んだキャベツをかごへ入れた。
次にレタス、トマト、キュウリを選ぶ。
「唐揚げだけじゃないのか?」
「サラダも作るよ」
「野菜が多くないか?」
「昨日まで少なすぎたの」
美咲は真剣な表情で悠真を見る。
「水瀬くんには、しばらく野菜を多めに食べてもらいます」
「健康診断でも始めるつもりか」
「食生活の改善です」
「誰の許可を取った?」
「水瀬くん」
「取られた覚えがない」
「毎日夕食を食べることは、もう決まったでしょう?」
「いつ決まったんだ」
悠真が眉を寄せる。
美咲は楽しそうに目元を細めた。
「昨日、明日も食べようって言ったとき」
「俺は断ったはずだ」
「でも、今日は唐揚げって答えてくれたよ?」
悠真は言葉を詰まらせた。
「それは宿題だと言われたからだ」
「宿題をちゃんとやってくれて、嬉しかったよ」
美咲は柔らかく笑った。
その笑顔を見せられると、強く否定しづらくなる。
「……好きにしろ」
「うん。好きにするね」
美咲は弾んだ声で答え、精肉売り場へ向かった。
◇
「唐揚げの味つけ、どっちが好き?」
美咲は鶏もも肉のパックをかごへ入れながら尋ねた。
「どっちって?」
「醤油を強めにするか、塩味にするか」
「醤油」
「ニンニクは?」
「入ってたほうがいい」
「ショウガも大丈夫?」
「ああ」
美咲は一つずつ確認し、必要な調味料を選んでいく。
悠真が答えるたび、彼女は嬉しそうに頷いた。
「何だ?」
「水瀬くんの好きなものが、一つ増えたなと思って」
「唐揚げだけだろ」
「醤油味が好きで、ニンニクもショウガも大丈夫」
「細かすぎないか?」
「そういう小さいことを知るのが楽しいの」
美咲は商品棚へ視線を向けたまま、穏やかに言った。
「誰かのことを知るって、こういうことなのかなって」
悠真は返事をしなかった。
美咲はまだ、彼のことをほとんど知らない。
学校では平均的な生徒を演じていること。
本当は授業を受けなくても試験問題を解けること。
幼い頃、偽名を使って芸能界にいたこと。
多くの人間から天才子役と呼ばれていたこと。
それらを知ったとき、美咲は今と同じように笑うのだろうか。
「水瀬くん?」
美咲が顔を覗き込んでくる。
「急に黙って、どうしたの?」
「何でもない」
「疲れた?」
「まだ何も持ってない」
「そうだったね」
美咲は笑い、かごを悠真へ差し出した。
「それじゃあ、そろそろお願いします」
「はいはい」
悠真がかごを受け取る。
それなりに商品が入っているものの、重いとは感じなかった。
二人は調味料の棚へ向かった。
その途中、隣接する休憩スペースの前を通る。
置かれたテレビにはある番組が流れていた。
『続いては、放送開始から十周年を迎えた名作ドラマの特集です』
明るいナレーションが聞こえた瞬間、悠真の足が止まった。
画面に映ったのは、十年前に放送された家族向けドラマ。
そして、画面中央にいる一人の少年。
当時五歳だった悠真だ。
ただし、そこに本名は表示されていない。
画面の端には、白い文字で別の名前が映し出されていた。
――天宮レイ。
それが、子役として活動していた頃の悠真の名前だった。
明るい茶色に染められた髪。
今より幼く、化粧によって整えられた顔。
衣装は名門小学校の制服で、現在の目立たない悠真とは印象が大きく違う。
少年は涙を流しながら、母親役の女優へしがみついていた。
『お母さん、行かないで……。僕、もっといい子になるから』
震える声。
頬を伝う涙。
五歳の子供が見せる演技とは思えないほど、完成された表情。
スタジオの出演者たちが、感心したような声を上げる。
『天宮レイくんといえば、当時“泣かせる天才子役”と呼ばれていました』
『本当にすごいですよね。このシーンなんて、何度見ても泣いちゃいます』
『しかし、人気絶頂の中で突然引退。その後は一度も公の場へ姿を見せていません』
悠真の指に力が入った。
かごの持ち手が、小さく軋む。
テレビから流れる自分の声。
何度も撮り直した場面。
監督の指示。
照明の熱。
泣けと命じる大人たち。
忘れたつもりはない。
けれど、思い出したいとも思わなかった。
「懐かしい……」
隣から、美咲の声が聞こえた。
悠真は僅かに息を止める。
美咲はテレビを見つめていた。
その瞳には、驚きと懐かしさ、そして別の何かが浮かんでいる。
「知ってるのか?」
悠真はできるだけ平静な声で尋ねた。
「うん」
美咲は画面を見たまま頷いた。
「このドラマ、小さい頃に何度も見てたの」
「有名だったらしいな」
「天宮レイくん、本当にすごかったんだよ」
美咲の口元に、柔らかな笑みが浮かぶ。
それは学校で成績を褒められたときとも、悠真の部屋で料理をしているときとも違う表情だった。
大切な思い出に触れたような、温かくて少し切ない笑顔。
「今、何をしてるのかな」
「引退したなら、普通に暮らしてるんじゃないか?」
「そうだといいな」
美咲は胸元で両手を重ねた。
「幸せに暮らしていてくれたら、それでいい」
悠真の胸が、強く鳴った。
自分の正体に気づかれたわけではない。
美咲は画面に映る天宮レイと、隣に立つ水瀬悠真を結びつけていない。
それでも、彼女が自分の過去について語っている。
「好きだったのか?」
気づけば、悠真はそう尋ねていた。
美咲の肩が小さく跳ねた。
頬がゆっくり赤くなる。
「どうして?」
「何度も見てたと言ったから」
「それは……」
美咲は恥ずかしそうに視線を落とした。
靴先を僅かに動かし、言葉を探している。
「笑わない?」
「内容による」
「そこは笑わないって言ってよ」
美咲は頬を膨らませた。
けれど、やがて覚悟を決めたように顔を上げる。
「私の、初恋だったの」
時間が止まったように感じた。
周囲には多くの買い物客がいる。
店内放送も流れている。
テレビでは十年前のドラマが続いている。
それでも悠真の耳には、美咲の言葉だけがはっきりと残った。
「初恋?」
「うん」
美咲は顔を赤くしたまま、小さく頷いた。
「変だよね。テレビの中の人なのに」
「別に、変ではないだろ」
「本当?」
「ああ」
悠真の声は、自分でも驚くほど平静だった。
表情も変わっていないはずだ。
けれど、かごを握る指には、普段より力が入っている。
「私が人と話せなかった頃、このドラマに助けてもらったの」
美咲はテレビへ目を戻した。
「レイくんが演じていた男の子も、最初は誰とも話せなかった。でも少しずつ勇気を出して、友達を作っていくの」
画面では、幼い悠真が同年代の子役たちと笑っていた。
台本どおりの笑顔。
監督に指定された角度。
カメラの位置を確認してから作った表情。
けれど、美咲にとっては違ったらしい。
「私も変われるかもしれないって思った」
美咲は目元を柔らかく細めた。
「それから勉強も運動も頑張ったの。人と話す練習もした。いつかレイくんに会えたとき、恥ずかしくない自分になりたかったから」
「会えたのか?」
「ううん」
美咲は寂しそうに首を横へ振った。
「頑張り始めた少しあとに、引退しちゃったから」
悠真は答えられなかった。
自分が芸能界を去った頃、美咲はどこかでその知らせを聞いていた。
理由も知らず、会ったこともない子役のために悲しんでいたのかもしれない。
「だから、初恋はそこで終わり」
美咲は小さく笑った。
「今は、昔の大切な思い出だよ」
「……そうか」
「水瀬くんは?」
「何が?」
「初恋」
美咲が少し興味深そうに顔を覗き込む。
「好きな人、いたことある?」
「ない」
悠真はすぐに答えた。
撮影現場には同年代の子役もいたが、誰かを好きになる余裕などなかった。
相手役として好意を演じたことはある。
台本に書かれた言葉を読み、恋をしている少年の表情を作った。
だが、自分自身の気持ちとして誰かに恋をしたことはない。
「即答なんだ」
美咲は少し驚いたように瞬きをする。
「本当に?」
「ああ」
「気になった人も?」
「いない」
「そっか」
美咲はなぜか、少し安心したように息を吐いた。
「どうして嬉しそうなんだ?」
「嬉しそうに見えた?」
「ああ」
「それは……気のせいだよ」
美咲は慌ててテレビへ視線を戻した。
頬だけでなく、耳まで赤くなっている。
「今、目を逸らしたな」
「テレビを見ただけです」
「急に敬語になった」
「気のせいです」
美咲はますます顔を赤くした。
悠真はそれ以上追及しなかった。
追及すれば、自分も初恋について詳しく聞かれるかもしれない。
それよりも、胸の奥に生まれた奇妙な感情の正体が分からなかった。
美咲の初恋の相手は、かつての自分だった。
嬉しいような、困るような。
遠い昔の他人について聞かされているようでいて、同時に自分自身のことでもある。
「行こう」
悠真はテレビから視線を外した。
「まだ買うものがあるんだろ」
「あ、うん。片栗粉と油を買わないと」
美咲もテレビから名残惜しそうに視線を外し、その場を離れた。
昔の大切な思い出へ、静かに別れを告げるような仕草だった。
悠真は隣を歩く美咲の横顔を見る。
彼女はもう、自分が初恋を語ったことを恥ずかしがっているらしく、頬を赤くしたまま商品棚だけを見ていた。
「一ノ瀬さん」
「何?」
「その子役の、どこが好きだった?」
聞くつもりのなかった言葉が、口から出た。
美咲は驚いたように目を丸くする。
「興味あるの?」
「少し気になっただけだ」
「そうだなあ……」
美咲は歩きながら考え込んだ。
「演技が上手で、笑顔が綺麗で、何でもできるところも好きだったけど」
指を一本ずつ折りながら挙げていく。
やがて、美咲は柔らかく微笑んだ。
「一番好きだったのは、誰かを安心させるように笑うところかな」
「笑顔?」
「うん。大丈夫だよって、画面の向こうから言ってもらえてる気がしたの」
悠真は何も言えなかった。
あの笑顔は演技だった。
照明の位置を確認し、カメラに映りやすい角度を選び、監督の求める表情を作っただけ。
誰かを安心させようとしたわけではない。
それでも美咲は、画面越しの笑顔に救われたという。
「変だった?」
黙り込んだ悠真を、美咲が不安そうに見つめる。
「いや」
悠真は小さく首を横へ振った。
「いい理由だと思う」
美咲は安心したように頬を緩めた。
「ありがとう」
◇
会計を終えると、悠真は両手に買い物袋を持った。
美咲も一つ持とうとしたが、悠真は渡さなかった。
「俺を荷物持ちとして呼んだんだろ」
「でも、全部持つと重いよ」
「このくらいなら問題ない」
「本当に?」
「ああ」
悠真が歩き出す。
美咲はその隣へ並び、何度も荷物を気にするように視線を向けた。
「重くなったら言ってね」
「言わない」
「どうして?」
「マンションまで十分もかからないだろ」
「でも、水瀬くんは体育で――」
言いかけて、美咲の口が止まる。
体育では、悠真は平均的な記録しか出していない。
本来なら、それほど力があるようには見えないはずだ。
しかし今の悠真は、重い買い物袋を両手に持っても、歩く速度も呼吸も変わっていない。
美咲の瞳に、また小さな疑問が浮かんだ。
「何だ?」
「ううん」
美咲は首を横へ振った。
けれど、その視線は悠真の腕や足元を観察している。
「持とうか?」
「必要ない」
「本当に重くない?」
「ああ」
「……そっか」
美咲はそれ以上尋ねなかった。
だが、納得していないことは表情を見れば分かった。
「水瀬くんって、不思議だね」
「どこが?」
「学校にいるときと、二人でいるときで、違う人みたい」
悠真の歩調が、ほんの僅かに乱れる。
「誰でも家と学校では違うと言っただろ」
「うん。でも、それだけじゃない気がする」
美咲は前を向いたまま、静かに続けた。
「ときどき、本当の水瀬くんが少しだけ見える気がするの」
「今見えている俺が、本当の俺だ」
「それなら、学校にいる水瀬くんは?」
「同じだ」
「そうかな」
美咲は困ったように笑った。
けれど、すぐに悠真へ柔らかな視線を向ける。
「どっちでもいいけどね」
「どっちでも?」
「うん。学校の水瀬くんも、今の水瀬くんも、どちらも水瀬くんでしょう?」
美咲は背中の後ろで両手を組み、半歩だけ悠真の前へ出た。
こちらを振り返りながら、穏やかに微笑む。
「いつか両方とも、本当の水瀬くんになるといいね」
悠真には、その言葉の意味が分からなかった。
美咲自身も、深い意味まで考えて言ったわけではないのかもしれない。
ただ、その微笑みが、昔の自分について語ったときよりも優しく見えた。
美咲の初恋は、天宮レイ。
今、彼女の隣を歩いているのは、水瀬悠真。
どちらも同じ人間でありながら、彼女にとっては別人だった。
悠真はまだ、自分の正体を話すつもりはない。
けれど、いつか知られたとき、美咲がどんな表情をするのか。
そのことを、ほんの少しだけ考えてしまった。
読んでくださってありがとうございます。
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