↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【最新作】普通を演じる元天才子役は、隣室の美少女優等生に生活を管理される  作者: 優
第一章 嘘の平凡と、隣の優等生

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/61

第8話 彼女の初恋と、彼の偽名

 翌朝、悠真が目を覚ますと、美咲からメッセージが届いていた。


 送信時刻は午前七時ちょうど。


『おはよう。昨日の宿題、答えは決まった?』


 昨日出された宿題。


 今日の夕食に食べたいものを、一つ決めること。


 悠真はベッドに横になったまま、しばらく考えた。


 美咲の作る料理なら、おそらく何を食べても美味しい。だから本音を言えば、昨日と同じく「何でもいい」と答えたい。


 しかし、その返事は禁止されている。


 適当な料理名を挙げればいいのだが、それすらなかなか思いつかない。


 悠真はスマートフォンを持ったまま、子供の頃に好きだった料理を思い出そうとした。


 ハンバーグ。


 カレー。


 エビフライ。


 どれも嫌いではない。


 けれど、一番最初に浮かんだのは別の料理だった。


『唐揚げ』


 短く入力し、送信する。


 数秒後に既読がついた。


『唐揚げが好きなの?』


『嫌いじゃない』


『好きなものを聞いてるのに、どうして嫌いじゃないって言い方をするの?』


 画面を見ながら、悠真は僅かに眉を寄せた。


 どうやら、曖昧な言い方では認めてもらえないらしい。


『好きだと思う』


『思う?』


『好きだ』


 送信した直後、自分が何をしているのか分からなくなった。


 唐揚げが好きだと認めるだけの会話に、なぜこれほど時間を使っているのか。


『分かりました。今日は唐揚げにします』


 嬉しそうな動物の絵文字が続けて送られてくる。


『でも、帰りに一緒に買い物へ行ってほしいな』


『どうして?』


『鶏肉が足りないから。それに、水瀬くんが好きな味つけを聞きたいの』


『普通でいい』


『また普通って言ってる』


 悠真は返信する言葉を失った。


『放課後、昇降口で待ってるね』


『一人で行けるだろ』


『荷物を持ってくれる人がいると助かります』


『俺は荷物持ちか』


『駄目?』


 続けて、寂しそうな動物の絵文字が送られてくる。


 美咲本人が、わざと眉尻を下げている姿まで簡単に想像できた。


『分かった』


『ありがとう。楽しみにしてるね』


 悠真はスマートフォンを置き、ベッドから起き上がった。


 ただスーパーへ買い物に行くだけだ。


 美咲が夕食を作るための食材を買い、悠真は荷物を持つ。


 それ以上の意味はない。


「……楽しみにするようなことか?」


 呟きながらキッチンへ向かう。


 冷蔵庫には、昨日美咲から渡された小さな保存容器が入っていた。


 中身は、昨夜作ったオムライスの余りだった。


『朝、温めて食べてね』


 そう言われていたことを思い出す。


 悠真は電子レンジへ容器を入れた。


 加熱時間が分からず、操作パネルの前で数秒迷う。


 結局、一分を選んで開始ボタンを押した。


 温め終えたオムライスを食べ、証拠として写真を撮る。


『朝食』


 美咲へ送ると、すぐに返信が来た。


『ちゃんと温められた?』


『一分』


『冷たくなかった?』


『少し』


『そういうときは、十秒ずつ追加で温めるんだよ』


『次からそうする』


『食べる前に聞いてくれれば教えたのに』


 悠真は空になった容器を見る。


 少し冷たかったが、食べられないほどではなかった。


『食べられたから問題ない』


『問題はなくても、美味しいほうがいいでしょう?』


 その言葉に、悠真の指が止まる。


 食べられればいい。


 生きていければいい。


 これまでの悠真は、ずっとそう考えてきた。


 けれど美咲は、問題がないだけでは不十分だと言う。


 温かいほうが美味しい。


 誰かと食べるほうが楽しい。


 失敗しても、一緒にできるようになればいい。


 どれも悠真が長い間、考えようとしなかったことだった。


『次は聞く』


 悠真が返信すると、美咲から喜ぶ動物の絵文字が送られてきた。


 ◇


 放課後。


 悠真が昇降口へ向かうと、美咲はすでに靴箱の前で待っていた。


 友人と話しているが、何度も校舎の奥へ視線を向けている。


 悠真の姿に気づいた瞬間、彼女の表情が明るくなった。


「あ、水瀬くん」


 美咲は友人へ小さく手を振り、悠真のもとへ歩いてきた。


「お待たせ」


「私も今来たところだよ」


 美咲はそう言ったが、悠真が教室を出たときには、すでに彼女の姿がなかった。


 少なくとも数分は待っていたはずだ。


「どこのスーパーへ行くんだ?」


「駅の近く。昨日、特売のチラシが入ってたの」


「チラシまで見てるのか」


「食費は大切だよ」


 美咲は真面目な表情で言ったあと、悪戯っぽく目を細めた。


「水瀬くんみたいに、毎日コンビニで買ってたら高くなるでしょう?」


「食費の計算はしてない」


「今度、一緒に計算してみる?」


「遠慮する」


「無駄遣いが分かるかもしれないよ」


「知らなければ傷つかない」


「そうやって現実から逃げたら駄目」


 美咲は頬を膨らませた。


 二人は並んで駅へ向かう。


 学校から離れるにつれ、美咲の表情は少しずつ柔らかくなっていった。


 教室では、誰に対しても愛想よく、背筋を伸ばしている。


 今は歩調も少し軽く、時折、歩道の模様を踏むように足を運んでいた。


「楽しそうだな」


 悠真が言う。


 美咲は驚いたように顔を上げた。


「そう見える?」


「ああ」


「うん。少し楽しみだったから」


「買い物が?」


「それもあるけど」


 美咲は視線を前へ戻した。


 頬にかかった髪を指先で耳へかける。


「放課後に、クラスの人と一緒に買い物へ行くことが、あまりなかったの」


「友達と行けばいいだろ」


「今は誘ってもらえるけど、昔はそういう相手がいなかったから」


 美咲は僅かに俯いた。


「だから今でも、こういうことがあると嬉しいの」


「買い物に行くだけだぞ」


「水瀬くんにとっては、そうかもしれないね」


 美咲は寂しそうに笑った。


 その表情を見て、悠真の胸に小さな痛みが走る。


 言い方を間違えたらしい。


「別に、嫌という意味じゃない」


 悠真が続けると、美咲の瞳がこちらへ動いた。


「そうなの?」


「ああ。俺もスーパーへ行く機会は少ないからな」


「コンビニばかりだもんね」


「そこは忘れろ」


 美咲の口元に笑みが戻った。


「それじゃあ、今日は私が買い物の仕方を教えてあげるね」


「買い物くらいできる」


「野菜の選び方は?」


「見た目で決める」


「お肉の値段は?」


「書いてある」


「百グラムあたりの値段と、パックの値段の違いは?」


「……書いてあるだろ」


 悠真の返事に自信がなくなる。


 美咲は楽しそうに笑った。


「やっぱり、私が教えないとね」


 ◇


 駅前のスーパーは、夕食の買い物をする客で賑わっていた。


 入口には特売品の写真が並び、店内からは明るい音楽が聞こえてくる。


 美咲は買い物かごを手に取った。


 悠真が受け取ろうとすると、彼女は首を横へ振る。


「今は私が持つよ」


「荷物持ちとして呼ばれたんじゃないのか?」


「重くなったらお願いするね」


 二人は野菜売り場から回った。


 美咲はキャベツを一玉手に取り、重さを確かめる。


 葉の状態を見たあと、別のキャベツと比べ始めた。


「何が違うんだ?」


 悠真が横から覗き込む。


「春キャベツは、ふんわりしていて軽いものを選ぶといいんだよ」


「重いほうが中身が詰まってるんじゃないのか?」


「普通のキャベツならそうだけど、春キャベツは葉が柔らかいから違うの」


「複雑だな」


「慣れれば分かるよ」


 美咲は選んだキャベツをかごへ入れた。


 次にレタス、トマト、キュウリを選ぶ。


「唐揚げだけじゃないのか?」


「サラダも作るよ」


「野菜が多くないか?」


「昨日まで少なすぎたの」


 美咲は真剣な表情で悠真を見る。


「水瀬くんには、しばらく野菜を多めに食べてもらいます」


「健康診断でも始めるつもりか」


「食生活の改善です」


「誰の許可を取った?」


「水瀬くん」


「取られた覚えがない」


「毎日夕食を食べることは、もう決まったでしょう?」


「いつ決まったんだ」


 悠真が眉を寄せる。


 美咲は楽しそうに目元を細めた。


「昨日、明日も食べようって言ったとき」


「俺は断ったはずだ」


「でも、今日は唐揚げって答えてくれたよ?」


 悠真は言葉を詰まらせた。


「それは宿題だと言われたからだ」


「宿題をちゃんとやってくれて、嬉しかったよ」


 美咲は柔らかく笑った。


 その笑顔を見せられると、強く否定しづらくなる。


「……好きにしろ」


「うん。好きにするね」


 美咲は弾んだ声で答え、精肉売り場へ向かった。


 ◇


「唐揚げの味つけ、どっちが好き?」


 美咲は鶏もも肉のパックをかごへ入れながら尋ねた。


「どっちって?」


「醤油を強めにするか、塩味にするか」


「醤油」


「ニンニクは?」


「入ってたほうがいい」


「ショウガも大丈夫?」


「ああ」


 美咲は一つずつ確認し、必要な調味料を選んでいく。


 悠真が答えるたび、彼女は嬉しそうに頷いた。


「何だ?」


「水瀬くんの好きなものが、一つ増えたなと思って」


「唐揚げだけだろ」


「醤油味が好きで、ニンニクもショウガも大丈夫」


「細かすぎないか?」


「そういう小さいことを知るのが楽しいの」


 美咲は商品棚へ視線を向けたまま、穏やかに言った。


「誰かのことを知るって、こういうことなのかなって」


 悠真は返事をしなかった。


 美咲はまだ、彼のことをほとんど知らない。


 学校では平均的な生徒を演じていること。


 本当は授業を受けなくても試験問題を解けること。


 幼い頃、偽名を使って芸能界にいたこと。


 多くの人間から天才子役と呼ばれていたこと。


 それらを知ったとき、美咲は今と同じように笑うのだろうか。


「水瀬くん?」


 美咲が顔を覗き込んでくる。


「急に黙って、どうしたの?」


「何でもない」


「疲れた?」


「まだ何も持ってない」


「そうだったね」


 美咲は笑い、かごを悠真へ差し出した。


「それじゃあ、そろそろお願いします」


「はいはい」


 悠真がかごを受け取る。


 それなりに商品が入っているものの、重いとは感じなかった。


 二人は調味料の棚へ向かった。


 その途中、隣接する休憩スペースの前を通る。


 置かれたテレビにはある番組が流れていた。


『続いては、放送開始から十周年を迎えた名作ドラマの特集です』


 明るいナレーションが聞こえた瞬間、悠真の足が止まった。


 画面に映ったのは、十年前に放送された家族向けドラマ。


 そして、画面中央にいる一人の少年。


 当時五歳だった悠真だ。


 ただし、そこに本名は表示されていない。


 画面の端には、白い文字で別の名前が映し出されていた。


 ――天宮レイ。


 それが、子役として活動していた頃の悠真の名前だった。


 明るい茶色に染められた髪。


 今より幼く、化粧によって整えられた顔。


 衣装は名門小学校の制服で、現在の目立たない悠真とは印象が大きく違う。


 少年は涙を流しながら、母親役の女優へしがみついていた。


『お母さん、行かないで……。僕、もっといい子になるから』


 震える声。


 頬を伝う涙。


 五歳の子供が見せる演技とは思えないほど、完成された表情。


 スタジオの出演者たちが、感心したような声を上げる。


『天宮レイくんといえば、当時“泣かせる天才子役”と呼ばれていました』


『本当にすごいですよね。このシーンなんて、何度見ても泣いちゃいます』


『しかし、人気絶頂の中で突然引退。その後は一度も公の場へ姿を見せていません』


 悠真の指に力が入った。


 かごの持ち手が、小さく軋む。


 テレビから流れる自分の声。


 何度も撮り直した場面。


 監督の指示。


 照明の熱。


 泣けと命じる大人たち。


 忘れたつもりはない。


 けれど、思い出したいとも思わなかった。


「懐かしい……」


 隣から、美咲の声が聞こえた。


 悠真は僅かに息を止める。


 美咲はテレビを見つめていた。


 その瞳には、驚きと懐かしさ、そして別の何かが浮かんでいる。


「知ってるのか?」


 悠真はできるだけ平静な声で尋ねた。


「うん」


 美咲は画面を見たまま頷いた。


「このドラマ、小さい頃に何度も見てたの」


「有名だったらしいな」


「天宮レイくん、本当にすごかったんだよ」


 美咲の口元に、柔らかな笑みが浮かぶ。


 それは学校で成績を褒められたときとも、悠真の部屋で料理をしているときとも違う表情だった。


 大切な思い出に触れたような、温かくて少し切ない笑顔。


「今、何をしてるのかな」


「引退したなら、普通に暮らしてるんじゃないか?」


「そうだといいな」


 美咲は胸元で両手を重ねた。


「幸せに暮らしていてくれたら、それでいい」


 悠真の胸が、強く鳴った。


 自分の正体に気づかれたわけではない。


 美咲は画面に映る天宮レイと、隣に立つ水瀬悠真を結びつけていない。


 それでも、彼女が自分の過去について語っている。


「好きだったのか?」


 気づけば、悠真はそう尋ねていた。


 美咲の肩が小さく跳ねた。


 頬がゆっくり赤くなる。


「どうして?」


「何度も見てたと言ったから」


「それは……」


 美咲は恥ずかしそうに視線を落とした。


 靴先を僅かに動かし、言葉を探している。


「笑わない?」


「内容による」


「そこは笑わないって言ってよ」


 美咲は頬を膨らませた。


 けれど、やがて覚悟を決めたように顔を上げる。


「私の、初恋だったの」


 時間が止まったように感じた。


 周囲には多くの買い物客がいる。


 店内放送も流れている。


 テレビでは十年前のドラマが続いている。


 それでも悠真の耳には、美咲の言葉だけがはっきりと残った。


「初恋?」


「うん」


 美咲は顔を赤くしたまま、小さく頷いた。


「変だよね。テレビの中の人なのに」


「別に、変ではないだろ」


「本当?」


「ああ」


 悠真の声は、自分でも驚くほど平静だった。


 表情も変わっていないはずだ。


 けれど、かごを握る指には、普段より力が入っている。


「私が人と話せなかった頃、このドラマに助けてもらったの」


 美咲はテレビへ目を戻した。


「レイくんが演じていた男の子も、最初は誰とも話せなかった。でも少しずつ勇気を出して、友達を作っていくの」


 画面では、幼い悠真が同年代の子役たちと笑っていた。


 台本どおりの笑顔。


 監督に指定された角度。


 カメラの位置を確認してから作った表情。


 けれど、美咲にとっては違ったらしい。


「私も変われるかもしれないって思った」


 美咲は目元を柔らかく細めた。


「それから勉強も運動も頑張ったの。人と話す練習もした。いつかレイくんに会えたとき、恥ずかしくない自分になりたかったから」


「会えたのか?」


「ううん」


 美咲は寂しそうに首を横へ振った。


「頑張り始めた少しあとに、引退しちゃったから」


 悠真は答えられなかった。


 自分が芸能界を去った頃、美咲はどこかでその知らせを聞いていた。


 理由も知らず、会ったこともない子役のために悲しんでいたのかもしれない。


「だから、初恋はそこで終わり」


 美咲は小さく笑った。


「今は、昔の大切な思い出だよ」


「……そうか」


「水瀬くんは?」


「何が?」


「初恋」


 美咲が少し興味深そうに顔を覗き込む。


「好きな人、いたことある?」


「ない」


 悠真はすぐに答えた。


 撮影現場には同年代の子役もいたが、誰かを好きになる余裕などなかった。


 相手役として好意を演じたことはある。


 台本に書かれた言葉を読み、恋をしている少年の表情を作った。


 だが、自分自身の気持ちとして誰かに恋をしたことはない。


「即答なんだ」


 美咲は少し驚いたように瞬きをする。


「本当に?」


「ああ」


「気になった人も?」


「いない」


「そっか」


 美咲はなぜか、少し安心したように息を吐いた。


「どうして嬉しそうなんだ?」


「嬉しそうに見えた?」


「ああ」


「それは……気のせいだよ」


 美咲は慌ててテレビへ視線を戻した。


 頬だけでなく、耳まで赤くなっている。


「今、目を逸らしたな」


「テレビを見ただけです」


「急に敬語になった」


「気のせいです」


 美咲はますます顔を赤くした。


 悠真はそれ以上追及しなかった。


 追及すれば、自分も初恋について詳しく聞かれるかもしれない。


 それよりも、胸の奥に生まれた奇妙な感情の正体が分からなかった。


 美咲の初恋の相手は、かつての自分だった。


 嬉しいような、困るような。


 遠い昔の他人について聞かされているようでいて、同時に自分自身のことでもある。


「行こう」


 悠真はテレビから視線を外した。


「まだ買うものがあるんだろ」


「あ、うん。片栗粉と油を買わないと」


 美咲もテレビから名残惜しそうに視線を外し、その場を離れた。


 昔の大切な思い出へ、静かに別れを告げるような仕草だった。


 悠真は隣を歩く美咲の横顔を見る。


 彼女はもう、自分が初恋を語ったことを恥ずかしがっているらしく、頬を赤くしたまま商品棚だけを見ていた。


「一ノ瀬さん」


「何?」


「その子役の、どこが好きだった?」


 聞くつもりのなかった言葉が、口から出た。


 美咲は驚いたように目を丸くする。


「興味あるの?」


「少し気になっただけだ」


「そうだなあ……」


 美咲は歩きながら考え込んだ。


「演技が上手で、笑顔が綺麗で、何でもできるところも好きだったけど」


 指を一本ずつ折りながら挙げていく。


 やがて、美咲は柔らかく微笑んだ。


「一番好きだったのは、誰かを安心させるように笑うところかな」


「笑顔?」


「うん。大丈夫だよって、画面の向こうから言ってもらえてる気がしたの」


 悠真は何も言えなかった。


 あの笑顔は演技だった。


 照明の位置を確認し、カメラに映りやすい角度を選び、監督の求める表情を作っただけ。


 誰かを安心させようとしたわけではない。


 それでも美咲は、画面越しの笑顔に救われたという。


「変だった?」


 黙り込んだ悠真を、美咲が不安そうに見つめる。


「いや」


 悠真は小さく首を横へ振った。


「いい理由だと思う」


 美咲は安心したように頬を緩めた。


「ありがとう」


 ◇


 会計を終えると、悠真は両手に買い物袋を持った。


 美咲も一つ持とうとしたが、悠真は渡さなかった。


「俺を荷物持ちとして呼んだんだろ」


「でも、全部持つと重いよ」


「このくらいなら問題ない」


「本当に?」


「ああ」


 悠真が歩き出す。


 美咲はその隣へ並び、何度も荷物を気にするように視線を向けた。


「重くなったら言ってね」


「言わない」


「どうして?」


「マンションまで十分もかからないだろ」


「でも、水瀬くんは体育で――」


 言いかけて、美咲の口が止まる。


 体育では、悠真は平均的な記録しか出していない。


 本来なら、それほど力があるようには見えないはずだ。


 しかし今の悠真は、重い買い物袋を両手に持っても、歩く速度も呼吸も変わっていない。


 美咲の瞳に、また小さな疑問が浮かんだ。


「何だ?」


「ううん」


 美咲は首を横へ振った。


 けれど、その視線は悠真の腕や足元を観察している。


「持とうか?」


「必要ない」


「本当に重くない?」


「ああ」


「……そっか」


 美咲はそれ以上尋ねなかった。


 だが、納得していないことは表情を見れば分かった。


「水瀬くんって、不思議だね」


「どこが?」


「学校にいるときと、二人でいるときで、違う人みたい」


 悠真の歩調が、ほんの僅かに乱れる。


「誰でも家と学校では違うと言っただろ」


「うん。でも、それだけじゃない気がする」


 美咲は前を向いたまま、静かに続けた。


「ときどき、本当の水瀬くんが少しだけ見える気がするの」


「今見えている俺が、本当の俺だ」


「それなら、学校にいる水瀬くんは?」


「同じだ」


「そうかな」


 美咲は困ったように笑った。


 けれど、すぐに悠真へ柔らかな視線を向ける。


「どっちでもいいけどね」


「どっちでも?」


「うん。学校の水瀬くんも、今の水瀬くんも、どちらも水瀬くんでしょう?」


 美咲は背中の後ろで両手を組み、半歩だけ悠真の前へ出た。


 こちらを振り返りながら、穏やかに微笑む。


「いつか両方とも、本当の水瀬くんになるといいね」


 悠真には、その言葉の意味が分からなかった。


 美咲自身も、深い意味まで考えて言ったわけではないのかもしれない。


 ただ、その微笑みが、昔の自分について語ったときよりも優しく見えた。


 美咲の初恋は、天宮レイ。


 今、彼女の隣を歩いているのは、水瀬悠真。


 どちらも同じ人間でありながら、彼女にとっては別人だった。


 悠真はまだ、自分の正体を話すつもりはない。


 けれど、いつか知られたとき、美咲がどんな表情をするのか。


 そのことを、ほんの少しだけ考えてしまった。

読んでくださってありがとうございます。

面白いと思っていただけたら、

★評価やブックマークで応援していただけると更新の励みになります!


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。