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【最新作】普通を演じる元天才子役は、隣室の美少女優等生に生活を管理される  作者: 優
第一章 嘘の平凡と、隣の優等生

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第7話 オムライスに書かれた文字

 午後六時四十分。


 悠真はソファに座り、何度目か分からないほどスマートフォンの時刻を確認した。


 美咲が来るのは七時だ。


 まだ二十分もある。


 それなのに、映画を観る気にも、ゲームを始める気にもなれなかった。


「……別に、待ってるわけじゃないんだけどな」


 誰もいない部屋で呟く。


 返事をする者はいない。


 ローテーブルの上には、昨夜読みかけた雑誌が一冊置かれている。手に取ってみたものの、数ページめくっただけで元の場所へ戻した。


 夕食を待っているだけなら、昨日も同じだった。


 しかし今日は、美咲に『待ってる』と送ってしまった。


 何気なく入力した短い言葉。それが妙に頭に残っている。


 悠真は立ち上がり、キッチンへ向かった。


 シンクには何も残っていない。


 ローテーブルも拭いた。


 床に落ちていた物は片づけ、ソファに脱ぎっぱなしだった服もクローゼットへ移した。


 掃除機まではかけていないが、美咲から注意されるような場所は、ほとんど見当たらない。


「これなら、うるさく言われないだろ」


 悠真は小さく頷いた。


 片づけた理由は、あくまで注意されないためだ。


 美咲に褒められたいからではない。


 そう自分へ言い聞かせた直後、スマートフォンが震えた。


『今、図書室を出たよ。少し遅れるかもしれない』


 美咲からのメッセージだった。


 時刻は午後六時四十三分。


 学校からマンションまでは、急いでも三十分ほどかかる。七時に間に合わせるのは難しいだろう。


『急がなくていい』


 悠真はすぐに返信した。


『でも、待っててくれてるでしょう?』


 返事を読み、指が止まる。


 確かに待っている。


 だからといって、急いで帰ってきてほしいわけではない。


『走るなよ』


『大丈夫。転ばないから』


『そういう問題じゃない』


『分かりました。気をつけて帰ります』


 最後に、敬礼をする動物の絵文字が送られてきた。


 悠真は画面を閉じる。


 七時を過ぎるなら、その間に何かできることはないだろうか。


 美咲が作ると言っていたのは、オムライスだ。


 材料も彼女が用意しているはずなので、悠真に料理を手伝うことはできない。


 冷蔵庫を開ける。


 昨日から残っている卵とキャベツしか入っていない。


「せめて、飲み物くらいは買っておくか」


 悠真は財布を持ち、近くのコンビニへ向かった。


 ◇


 午後七時十五分。


 インターホンが鳴った。


 悠真が玄関の扉を開けると、美咲が息を切らしながら立っていた。


 制服姿のまま、両手には食材の入った買い物袋を抱えている。


 額には薄く汗が滲み、丁寧に整えられていた黒髪も少し乱れていた。


「……走っただろ」


 悠真が眉を寄せる。


「走ってないよ」


 美咲は呼吸を整えながら、無理に笑顔を作った。


「駅から少し急いで歩いただけ」


「それを走ったと言うんじゃないか?」


「歩幅を大きくしただけです」


「どうして敬語なんだ」


「怒ってるように見えるから」


 美咲は不安そうに悠真の顔を覗き込んだ。


「待たせて、ごめんね」


「たった十五分だ」


「でも、七時って約束したでしょう?」


「俺が勝手に待ってただけだろ」


 悠真が答えると、美咲は何度か瞬きをした。


 それから、少し嬉しそうに目元を緩める。


「やっぱり、待っててくれたんだ」


「夕食がないからな」


「それだけ?」


「他に何がある」


 美咲は小さく笑った。


 どこか満足そうな表情だった。


「そういうことにしておくね」


「何でもいいから入れ。廊下で話すことでもないだろ」


「うん。お邪魔します」


 美咲が靴を脱ぎ、悠真の部屋へ入る。


 彼女はリビングへ向かいかけ、ふと足を止めた。


 床を見て、ソファを見る。


 次にローテーブルへ視線を移し、最後にキッチンを確認する。


「……綺麗になってる」


「昨日よりはな」


「昨日どころじゃないよ。物が落ちてない」


「俺の部屋を何だと思ってるんだ」


「物がたくさん落ちてる部屋?」


「否定はしない」


 美咲は買い物袋をキッチンへ置くと、改めて部屋を見回した。


 口元が少しずつ緩んでいく。


「もしかして、私が来る前に片づけてくれたの?」


「注意されるのが面倒だったからだ」


「うん」


「嬉しそうにするな」


「だって、私が来ることを考えて片づけてくれたんでしょう?」


「結果的にはそうなる」


「それなら、嬉しくてもいいよね」


 美咲は胸元で両手を合わせ、柔らかく笑った。


 学校で見せる完璧な微笑みではない。


 頬が緩み、瞳が僅かに細くなっている。喜びを隠すことさえ忘れているような表情だった。


 それを見た悠真は、なぜか正面から目を合わせていられなくなった。


「制服のままで作るのか?」


 話題を変えるように尋ねる。


「一度、部屋に戻って着替えてくるね」


「荷物は置いていけばいい」


「うん。すぐ戻るから」


 美咲はキッチンから離れ、玄関へ向かった。


 靴を履く直前、何かを思い出したように振り返る。


「水瀬くん」


「何だ?」


「袋の中、勝手に触らないでね」


「触らない」


「卵も割らないでね」


「割らない」


「火もつけたら駄目だよ」


「俺を何だと思ってる」


「卵を黒い物体に変える人」


 美咲は楽しそうに笑い、隣室へ戻っていった。


 ◇


 数分後。


 私服へ着替えた美咲が戻ってきた。


 白いブラウスの上から淡い黄色のエプロンを着け、黒髪を後ろで一つに結んでいる。


 料理をする準備は整っていた。


「エプロンまで持ってきたのか」


「制服を汚したくなかったから、一度戻ったの」


 美咲はキッチンへ立つと、買い物袋から食材を取り出し始めた。


 鶏肉、タマネギ、卵、ケチャップ。


 保存容器には、あらかじめ炊いたご飯が入っている。


「水瀬くんは座って待ってて」


「何か手伝うか?」


 悠真が尋ねると、美咲の手が止まった。


 彼女は驚いたように目を丸くし、悠真の顔を見る。


「……今、何て言ったの?」


「何か手伝うか、と言った」


「自分から?」


「嫌なら座ってる」


「あ、待って。嫌じゃないよ」


 美咲は慌てて首を横へ振った。


 そのあと、嬉しそうに口元を緩める。


「それじゃあ、タマネギを切ってくれる?」


「分かった」


「やっぱり駄目」


「どっちだ」


「包丁を持たせるのは、まだ怖いから」


 美咲は真剣な表情で悠真を見る。


「卵を溶いてもらおうかな」


「それくらいならできる」


「昨日は殻が入ってたよ?」


「今日は入れない」


「本当に?」


「信用しろ」


 悠真が卵へ手を伸ばすと、美咲は不安そうにその手元を見つめた。


「器の縁で強く叩きすぎないでね」


「分かってる」


「割れ目に指を入れて、ゆっくり開くの」


「説明されなくても――」


 卵を器の縁へ当てる。


 力が強すぎたらしく、殻が大きく割れた。


 悠真の指先に、中身が少しかかる。


 美咲は目を丸くした。


 悠真は無言で卵を見つめる。


「……大丈夫?」


「問題ない」


 慎重に殻を開き、どうにか中身を器へ落とす。


 細かな殻が一つ入った。


 悠真が指で取ろうとすると、殻は器の中を逃げるように動く。


「貸して」


 美咲が隣から手を伸ばした。


 悠真の手首を軽く押さえ、自分の指先を器へ入れる。


 すぐに殻をつまみ上げた。


「こうやって、大きい殻を使ってすくっても取れるよ」


「最初からやってくれればよかっただろ」


「水瀬くんが自分でやるって言ったんでしょう?」


 美咲は呆れたように笑う。


 二人はキッチンに並んで立っていた。


 普段一人で使うには十分な広さだが、二人で立つと少し狭い。


 美咲が身体を動かすたび、肩や腕が触れそうになる。


「次の卵は、もう少し優しくね」


「ああ」


 悠真は二つ目の卵を手に取った。


 今度は力を弱めて、器の縁へ当てる。


 殻に細い亀裂が入った。


 そこへ指を添え、ゆっくり開く。


 中身だけが器へ落ち、殻は入らなかった。


「できた」


 悠真が呟く。


 美咲の顔が明るくなった。


「うん、上手だよ」


「卵を割っただけだぞ」


「昨日から比べたら、すごい進歩だよ」


 美咲は本気で喜んでいるらしい。


 胸の前で小さく拍手までしている。


「そのくらいで褒めるな」


「褒められるの、嫌?」


「子供扱いされてるみたいだ」


「子供扱いしてるんじゃなくて、できたことを褒めてるの」


 美咲は少しだけ首を傾け、悠真の顔を見上げた。


「水瀬くんは、褒められるのが苦手?」


 悠真の手が止まった。


 褒められることは、昔から多かった。


 撮影が終われば、大人たちは口々に褒めた。


 天才だ。


 期待している。


 君なら、もっとできる。


 その言葉は、いつしか褒め言葉ではなくなった。


 期待に応え続けろという命令。


 失敗することは許さないという圧力。


 悠真にとって、誰かに褒められることは、次の役割を押しつけられるのと同じだった。


「別に」


 悠真は短く答え、菜箸で卵を混ぜ始める。


「慣れてないだけだ」


「そうなの?」


「ああ」


「勉強や運動で、褒められたことは?」


「普通の成績だからな」


 美咲は何かを言いたそうに唇を開いた。


 数学のプリントを思い出したのだろう。


 けれど、問い詰めることはしなかった。


「それなら、これから私が褒めるね」


「どうしてそうなる」


「ちゃんと料理ができるようになったら、たくさん褒めてあげる」


「料理を続けるとは言ってない」


「今日は手伝ってくれたでしょう?」


「一度だけだ」


「次は卵焼きかな」


「話を聞け」


 美咲は楽しそうに笑いながら、タマネギを切り始めた。


 包丁を動かす音が、一定の間隔で響く。


 悠真はその隣で卵を溶き続けた。


 ほんの数日前まで、このキッチンへ他人が立つことなど想像もしていなかった。


 まして、自分が誰かと一緒に料理をするとは思っていなかった。


「水瀬くん」


「何だ?」


「混ぜすぎだよ」


 美咲が笑いを堪えながら言った。


 見ると、卵の表面には細かな泡が大量に浮かんでいる。


「止めるタイミングを言わなかっただろ」


「普通は、そこまで混ぜないよ」


「普通を知らない」


「じゃあ、これから覚えようね」


「一ノ瀬さんは、ずいぶん楽しそうだな」


「うん。楽しいよ」


 美咲は迷うことなく答えた。


「誰かと一緒に料理するの、初めてだから」


 その横顔には、穏やかな笑みが浮かんでいる。


 悠真は返事の代わりに、菜箸を置いた。


 ◇


 美咲がケチャップライスを作り、悠真が溶いた卵を焼く。


 その予定だった。


 しかし、フライパンを前にした悠真を見て、美咲はすぐに考えを変えた。


「やっぱり、卵は私が焼くね」


「信用がなさすぎるだろ」


「火加減を最大にしようとしたでしょう?」


「早く焼けると思った」


「それを昨日も言ってたよ」


 美咲はコンロの火を弱めた。


 フライパンへ油を薄く引き、溶いた卵を流し入れる。


「卵は焦げやすいから、中火より少し弱いくらいでいいの」


「時間がかかりそうだな」


「強火で炭にするよりはいいでしょう?」


 美咲は菜箸で卵を大きく混ぜながら、半熟の状態で火を止めた。


 皿に盛ったケチャップライスの上へ、卵を滑らせる。


 形を整えれば、綺麗なオムライスの完成だった。


「簡単そうに見えるな」


「見るだけならね」


 美咲は少し得意そうに胸を張った。


「今度は水瀬くんが作る?」


「遠慮する」


「失敗しても、私が隣にいるよ」


「余計に見られたくない」


「どうして?」


「失敗するところを見られるのは、気分がよくない」


 悠真が答えると、美咲は少し驚いたように瞬きをした。


「失敗してもいいんだよ」


「簡単に言うな」


「私だって、たくさん失敗したから」


 美咲は二つ目のオムライスを作りながら、穏やかな声で続ける。


「料理もそうだし、勉強も運動も、人と話すことも。最初からできたわけじゃないの」


「前にも聞いた」


「だから、水瀬くんも大丈夫」


「何が?」


「失敗しても、私は笑わないよ」


 美咲は悠真へ顔を向けた。


 冗談もからかいもない、真剣な表情だった。


「上手くできるまで、一緒にやればいいでしょう?」


 その言葉が、悠真の胸の奥へ静かに落ちた。


 失敗してもいい。


 できるまで一緒にやればいい。


 子供の頃、誰かにそう言ってもらった記憶はなかった。


 撮影現場では、限られた時間の中で結果を求められる。監督が納得しなければ何度でも撮り直すが、失敗してもいいと言う者はいない。


 失敗すれば、周囲の大人の時間と金を奪う。


 期待に応えられなければ、代わりの子役に居場所を奪われる。


 悠真は、失敗しない人間であることを求められてきた。


「……考えておく」


 悠真が答えると、美咲の瞳が大きくなる。


「本当?」


「今すぐとは言ってない」


「それでも、前より進歩だね」


 美咲は嬉しそうに笑った。


「楽しみにしてる」


「期待するな」


「卵を割れるようになった水瀬くんなら、きっとできるよ」


「それは期待の基準が低すぎるだろ」


 二人目のオムライスも完成する。


 美咲はケチャップを取り出し、一本を悠真へ差し出した。


「仕上げは、自分でやってね」


「何を描けばいい?」


「好きなものを書けばいいよ」


 悠真はケチャップを持ち、オムライスの上へ向ける。


 絵を描く気にはなれず、単純に一本の線を引こうとした。


 その隣で、美咲も自分のオムライスに何かを書いている。


「できた」


 彼女がケチャップを置いた。


 美咲のオムライスには、小さな笑顔のマークが描かれていた。


「子供みたいだな」


「いいでしょう? オムライスらしくて」


 美咲は少し恥ずかしそうに笑う。


「水瀬くんは?」


「今からだ」


 悠真はしばらく考え、オムライスへ文字を書いた。


 ケチャップを使って文字を書くのは思ったより難しい。線の太さが安定せず、少し歪んでしまう。


 完成したものを見た美咲が、首を傾げた。


「これ、何て書いたの?」


「『普通』」


「どうして?」


「何でもいいと言っただろ」


「言ったけど……」


 美咲は困ったように眉を下げた。


 笑うべきか迷っているらしい。


「水瀬くん、本当に普通って言葉が好きだね」


「普通で困ることはない」


「そうかな」


 美咲は悠真のオムライスを見つめた。


 その瞳には、数学のプリントを見たときと同じ疑問が浮かんでいる。


「普通になりたいの?」


 何気ない問いだった。


 けれど悠真の指が、僅かに動きを止めた。


「どういう意味だ?」


「水瀬くん、自分から何度も普通だって言うでしょう?」


 美咲はケチャップで書かれた二文字を指さした。


「普通の人は、自分が普通だって、そこまで意識しないんじゃないかな」


 悠真は答えなかった。


 美咲の指摘は正しい。


 普通であることを意識している時点で、自然な普通ではない。


「考えすぎだ」


 悠真はオムライスの皿を持ち、リビングへ向かった。


「冷める前に食べよう」


「あ……うん」


 美咲もそれ以上は尋ねなかった。


 鍋に入ったスープを運び、二人でローテーブルを挟んで座る。


 ◇


「いただきます」


 二人で手を合わせ、オムライスを食べ始める。


 卵は柔らかく、内側には半熟の部分が残っている。


 ケチャップライスには鶏肉とタマネギが入り、優しい味つけだった。


「美味いな」


 悠真が呟くと、美咲は嬉しそうに微笑んだ。


「よかった。水瀬くんが卵を上手に混ぜてくれたからだね」


「混ぜすぎだと言ってなかったか?」


「細かいことは気にしないの」


「都合がいいな」


 美咲は笑いながら、自分のオムライスを口へ運ぶ。


 しばらくして、彼女の視線が悠真の皿へ止まった。


 ケチャップで書かれた『普通』の文字。


 悠真が中央からスプーンを入れたことで、『通』の一部が消えている。


「水瀬くん」


「何だ?」


「普通が崩れてるよ」


「食べ物なんだから、食べれば崩れるだろ」


「そうなんだけど」


 美咲はどこか意味深に目を細めた。


「そのほうが、いいかもしれないね」


「何が?」


「水瀬くんの普通も、少しくらい崩れたほうが」


 美咲は柔らかく笑う。


「だって、今の水瀬くんは、学校にいるときより楽しそうだから」


「気のせいだ」


「学校では、あまり笑わないでしょう?」


「必要がないからな」


「今は必要があるの?」


「笑ってない」


「さっき、私が卵の殻を取ったとき、少し笑ってたよ」


 悠真は記憶を辿る。


 確かに、美咲が卵の殻を取るのに苦労する自分を見て笑ったとき、つられて口元が緩んだかもしれない。


「一ノ瀬さんは、人の顔を見すぎだ」


「水瀬くんの表情は、見ていて面白いから」


「失礼だな」


「学校では、ずっと同じ顔をしてるのに」


 美咲はスプーンを置き、頬杖をついた。


「ここでは、思ったより表情が変わるんだね」


 悠真の胸に、小さな警戒心が生まれた。


 学校での自分と、部屋での自分。


 その違いへ、美咲は気づき始めている。


「誰だって、学校と家では違うだろ」


「それはそうだけど……」


 美咲はまだ何か言いたそうだった。


 けれど悠真の表情が僅かに硬くなったことに気づき、口を閉じる。


「ごめんね」


「どうして謝る?」


「聞かれたくなさそうだったから」


 美咲は視線を自分の皿へ落とした。


「水瀬くんのこと、知りたいと思っただけなの」


「俺のことを知っても、面白くないぞ」


「それは私が決めることだよ」


 美咲は顔を上げ、真っすぐに悠真を見つめた。


「私は、知りたい」


 穏やかだが、迷いのない声だった。


「好きな食べ物も、嫌いなものも、学校では何を考えてるのかも。どうして目立ちたくなさそうにしてるのかも」


 悠真はスプーンを持ったまま動けなかった。


 美咲は、すでにそこまで気づいている。


「なぜ、目立ちたくないと思った?」


「今日の数学」


「それだけか?」


「それだけじゃないよ」


 美咲は指先を胸元で組み合わせた。


「体育のときも、誰かに見られているときだけ動きが少し変わるの。疲れていないのに疲れたような顔をしたり、ボールを取れそうなのに、わざと一歩遅れたり」


 悠真は表情を変えなかった。


 内心では、美咲への評価を改めていた。


 彼女は、ただ成績がいいだけではない。


 人をよく見ている。


 おそらく、昔は人と話すことが苦手だったからこそ、周囲の様子を観察する癖がついたのだろう。


「考えすぎだ」


「そうかもしれない」


 美咲はあっさりと引いた。


「だから、今は無理に聞かないよ」


「今は、か」


「うん。いつか、水瀬くんが話してもいいと思ったときに教えて」


 彼女は少し寂しそうに笑った。


「私も、昔のことを全部話したわけじゃないから」


 美咲にも隠している過去がある。


 人と話すことが苦手だった頃のこと。


 自分を変えようとした理由。


 そして、幼い頃に見た一人の子役への初恋。


 もちろん悠真は、まだ何も知らない。


「分かった」


 悠真が答える。


「いつか話せることがあれば、話す」


「本当?」


「ああ」


「約束?」


「約束まではしない」


「そこは慎重なんだね」


 美咲は少しだけ頬を膨らませた。


 それでも、表情には安堵が滲んでいる。


「じゃあ、私もいつか話すね」


「何を?」


「私が変わろうと思った、本当の理由」


 美咲は照れくさそうに頬を緩めた。


「少し恥ずかしいから、今は秘密だけど」


「そうか」


「聞きたくない?」


「話したくなったら聞く」


「水瀬くんらしいね」


 美咲は柔らかく微笑んだ。


 ◇


 食事を終えると、悠真が食器を洗った。


 美咲はその隣で、使ったフライパンや調理器具を片づける。


 二人で作業をすれば、あっという間にキッチンが綺麗になった。


「終わったね」


 美咲は満足そうにシンクを見つめた。


「ああ」


「二人だと早いね」


「一人分より洗い物は増えてるけどな」


「でも、昨日より手際がよくなってたよ」


「それはどうも」


「もう少し嬉しそうにしてくれてもいいのに」


「褒められるのは慣れてないと言っただろ」


「それじゃあ、慣れるまで毎日褒めるね」


「やめろ」


 悠真が嫌そうに眉を寄せる。


 美咲は楽しそうに笑いながら、エプロンを外した。


「明日は何を作ろうか?」


「もう決めるのか」


「食べたいものを考えておいてね」


「何でもいい」


「その答えは禁止」


 美咲は人差し指を立て、悠真へ向ける。


「明日の朝までに、一つ決めること」


「宿題か?」


「うん。私から水瀬くんへの宿題」


「定期試験前に余計な宿題を増やすな」


「試験勉強をしてない人が言っても説得力がないよ」


 悠真は言葉を詰まらせた。


 美咲は勝ち誇ったように笑う。


「朝、連絡するからね」


「早すぎる時間には送るなよ」


「水瀬くんが起きる時間にする」


「七時くらいだな」


「分かった」


 美咲は玄関へ向かい、靴を履いた。


 扉を開ける前に、何かを思い出したように振り返る。


「そうだ。今日、どうして佐伯くんに嘘をついたの?」


「設備点検の話か」


「うん」


 美咲は胸の前で指を組み、少し申し訳なさそうに視線を落とした。


「私が余計なことを言ったせいだよね。ごめんなさい」


「別にいい」


「本当のことを知られたくなかった?」


「一緒に夕食を食べると言えば、面倒なことを聞かれるだろ」


「やっぱり、私と噂になるのは嫌?」


 美咲の瞳が不安そうに揺れる。


 昼休みと同じ質問だった。


「嫌ではない」


 悠真は今度こそ、はっきり答えた。


「ただ、周りに騒がれたくないだけだ」


「……そっか」


 美咲の肩から力が抜ける。


 口元に、小さく嬉しそうな笑みが浮かんだ。


「それならよかった」


「そんなに気にすることか?」


「気にするよ」


「どうして?」


 悠真が尋ねると、美咲は答えようとして口を開いた。


 けれど、すぐに閉じる。


 自分の胸へ片手を添え、気持ちを確かめるように少し俯いた。


「まだ、分からない」


「何が?」


「どうして気になるのか」


 美咲は困ったように笑った。


「分かったら、教えるね」


「別に無理に考えなくていい」


「うん。でも、考えてみる」


 美咲は扉を開け、廊下へ出た。


「おやすみ、水瀬くん」


「おやすみ」


「明日の朝、宿題の答えを聞くからね」


「忘れてたら適当に決める」


「ちゃんと考えて」


 美咲は頬を膨らませたあと、小さく手を振った。


 隣室の扉が閉まる。


 悠真も自分の部屋へ戻った。


 ローテーブルの上には、何も残っていない。


 ただ、悠真が使ったオムライスの皿には、ケチャップが僅かに付着していた。


 そこに書かれていた『普通』という二文字は、もう跡形もない。


 悠真は水切り籠に置かれた皿を見つめる。


 普通でいたい。


 目立たず、誰にも期待されず、過去を知られずに暮らしたい。


 その思いは今も変わらない。


 けれど、美咲と一緒にいる時間だけは、平凡を演じることを少しずつ忘れ始めていた。


 本人がその変化を認めるのは、まだ先のことだった。

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