第6話 平凡な彼の、不自然な間違い
翌朝、悠真が目を覚ますと、スマートフォンに一件のメッセージが届いていた。
『おはよう。朝ご飯、ちゃんと食べてね』
送信時刻は午前六時二十二分。
現在の時刻は七時十分だ。
「……起きるの早すぎるだろ」
美咲は朝の五時半から勉強していると言っていた。
おそらく、一時間の勉強を終えたあとに送ったのだろう。
悠真はベッドの上で身体を起こし、返信欄を開く。
『分かった』
そこまで入力したところで指が止まった。
昨日も同じような返事をした気がする。このまま送れば、何を食べたのか聞かれる可能性が高い。
悠真は入力した文字を消し、スマートフォンをベッドへ置いた。
返信する前に、朝食を用意することにした。
キッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。
卵が三つ。
半分残ったキャベツ。
賞味期限の切れた牛乳は、昨日捨てた。
他に食べられそうなものはない。
「食パンも切れてるな」
昨日の朝、最後の一枚を食べたことを思い出した。
朝食を抜く選択肢が頭に浮かぶ。
しかし美咲に正直に話せば、また心配されるだろう。嘘をついたところで、何を食べたのか細かく尋ねられれば面倒なことになる。
「買いに行くか」
悠真は部屋着の上にパーカーを羽織り、マンション近くのコンビニへ向かった。
買ったのは、おにぎり二つとインスタントの味噌汁。
帰宅後、湯を沸かして味噌汁を作り、おにぎりと一緒にローテーブルへ並べる。
これなら、美咲にも朝食として認められるはずだ。
食べる前に、スマートフォンで写真を撮る。
美咲とのメッセージ画面を開き、写真を送信した。
『食べてる』
数秒後、既読がついた。
『本当に食べてる!』
続いて、驚いた動物の絵文字が送られてくる。
「どういう意味だ……」
最初から、朝食を抜くと思われていたらしい。
『お味噌汁もあるね。偉いよ』
『インスタントだけどな』
『昨日までは食パンと水だったんだから、大きな進歩だよ』
褒められているはずなのに、なぜか馬鹿にされているような気がする。
『でも、おにぎり二個だけだと野菜が足りないかも』
『朝から十分だろ』
『お昼は野菜も食べてね』
美咲からの返信は早い。
朝の支度は終わっているのか、それとも悠真とのやり取りをしながら進めているのか。
時計を見ると、そろそろ制服へ着替える時間だった。
『七時に夕食を持っていくから、今日は寄り道しないでね』
『どうして寄り道まで制限されるんだ』
『七時に帰ってきてくれれば、寄り道してもいいよ』
『分かった』
『素直でよろしいです』
得意そうな動物の絵文字が送られてくる。
画面を見つめながら、悠真は小さく息を吐いた。
昨日まで、朝に誰かと連絡を取ることなどなかった。
目を覚まし、適当に朝食を済ませ、一人で学校へ向かう。それが悠真の日常だった。
けれど今日は、美咲に言われて朝食を買いに行き、その証拠まで写真で送っている。
「完全に管理され始めてるな……」
そう呟きながらも、不快には感じていなかった。
◇
マンションの廊下へ出ると、ほぼ同じタイミングで隣室の扉が開いた。
「あ」
姿を現した美咲が、悠真を見る。
彼女は一瞬驚いたあと、すぐに嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「おはよう、水瀬くん」
「おはよう」
「今から学校?」
「制服を着てるんだから、そうだろ」
「一緒だね」
美咲は自分の部屋に鍵をかけ、悠真の隣へ並んだ。
「まさか、待ってたのか?」
「待ってないよ。偶然」
「本当か?」
「本当だよ」
そう答えた美咲の視線が、ほんの少しだけ右へ逸れた。
「今、目を逸らしたな」
「水瀬くんみたいに、嘘をついたからじゃないよ」
「まだ嘘だとは言ってない」
「……あ」
美咲は口元を押さえた。
自分から認めてしまったことに気づき、頬を赤くする。
「何分待ってた?」
「待ってないってば」
「正直に言え」
「二分くらい……」
美咲は観念したように肩を落とした。
「水瀬くんが出てくる音が聞こえたから、少しだけタイミングを合わせただけ」
「それを待ってたと言うんじゃないか?」
「一緒に学校へ行きたかったの」
小さな声で言ってから、美咲は恥ずかしそうに俯いた。
髪を耳へかけるふりをして、赤くなった頬を隠そうとしている。
悠真は何と返せばいいのか分からず、先にエレベーターへ向かった。
「来ないのか?」
数歩進んだところで振り返る。
美咲は目を丸くしたあと、すぐに表情を明るくした。
「行く」
彼女は軽い足取りで悠真の隣へ追いついた。
◇
学校へ着いた二人は、昇降口で少し距離を空けた。
昨日、並んで帰っているだけでも何人かの生徒から視線を向けられていた。
美咲は学年一位の優等生で、入学直後から目立っている。対して悠真は、クラス内でも存在感の薄い男子生徒だ。
二人が毎日一緒に登下校していると知られれば、余計な噂が立つ可能性がある。
「別々に入ったほうがいいよね?」
美咲は少し残念そうに笑った。
「ああ」
「私は少しあとから行くね」
「分かった」
悠真が先に階段へ向かおうとすると、美咲が制服の袖を軽くつまんだ。
「水瀬くん」
「何だ?」
「夕食、七時だからね」
「朝から何度も聞いた」
「忘れないように言ってるの」
「分かってる」
「絶対に帰ってきてね」
美咲は念を押すように悠真の顔を見上げた。
瞳の奥には、わずかな不安が浮かんでいる。
約束を破られると思っているというより、一緒に食事をすることを楽しみにしているように見えた。
「帰る」
悠真が答えると、美咲の指から力が抜けた。
彼女は悠真の袖を離し、安心したように微笑む。
「うん。待ってるね」
その言葉を聞いた瞬間、悠真の胸の奥が僅かに揺れた。
誰かに帰りを待たれる。
それは悠真にとって、ずいぶん久しぶりのことだった。
「……隣の部屋で、だろ」
「何か言った?」
「何でもない」
悠真は美咲へ背を向け、階段を上がった。
◇
四時間目の数学。
教室内には、普段より張り詰めた空気が漂っていた。
試験まで一週間を切っていることもあり、教師が定期試験を想定した演習問題を配ったからだ。
「今から二十分間、自力で解いてみろ」
教師は黒板の前に立ち、教室全体を見渡した。
「今回は基本問題だけではない。後半には、試験と同程度の応用問題も入れてある。教科書やノートは見ないこと」
生徒たちが一斉にプリントへ目を落とす。
悠真もシャープペンシルを手に取った。
問題は全部で八問。
前半の五問は基礎。
後半の三問は応用問題だった。
八問目には二次関数と図形の性質が組み合わされており、複数の条件を順番に整理しなければ答えに辿り着けない。
昨日の宿題にあった最後の問題よりも、さらに難しい。
「嘘だろ、これ……」
前の席から、孝太郎の小さな呟きが聞こえた。
周囲でも、何人かの生徒が困ったように眉を寄せている。
悠真は一問目から順番に解き始めた。
基礎問題なら、途中式を書く必要もない。
問題文を見た時点で、答えはほとんど分かっている。
しかし、すぐに書いてはいけない。
悠真は適度な時間を空けながら、わざと遠回りな式を書いた。
三問目では、一度計算を間違えたように数字を消す。
五問目まで解き終えたところで、残り時間は十分。
ここから先は、どの問題を間違えるか考える必要がある。
今回の演習問題は成績に含まれない。
それでも、教師が回収して採点する可能性はある。全問正解すれば、試験で平均点を取ったときに不自然に思われるだろう。
六問目は正解。
七問目では途中式を間違え、答えをずらす。
八問目は途中まで書いて、分からなかったことにする。
それが一番自然だった。
悠真は八問目の解答欄に、途中式を書き始める。
そのときだった。
斜め前の席から、一枚の消しゴムが床へ落ちた。
美咲のものだった。
白い消しゴムは床で一度跳ね、悠真の机の横まで転がってくる。
悠真は身体を屈め、それを拾った。
「一ノ瀬さん」
小声で呼ぶ。
美咲が振り返り、申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめん。ありがとう」
悠真が消しゴムを差し出す。
美咲はそれを受け取ろうとして、ふと悠真のプリントへ視線を落とした。
八問目の解答欄。
そこには、答えへ辿り着く直前までの式が書かれている。
美咲の指が止まった。
「水瀬くん、これ……」
「私語をするな」
教師の声が飛んできた。
「すみません」
美咲は慌てて前へ向き直る。
悠真も視線をプリントへ戻した。
残り時間は五分。
途中式をどこまで残すか考え、悠真は最後の一行だけ消した。
これで、解き方を途中まで考えたものの、答えには届かなかったように見えるはずだ。
「時間だ。ペンを置け」
二十分後、教師が告げた。
悠真はシャープペンシルを机へ置く。
プリントは隣の生徒と交換し、その場で答え合わせをすることになった。
悠真のプリントは、斜め前の美咲へ渡った。
偶然ではない。
教師が列ごとに斜め前へ回すよう指示した結果だった。
「一ノ瀬さんのが俺に来るのか」
「うん。よろしくね」
美咲は少し緊張したように笑い、自分のプリントを差し出した。
悠真は美咲の解答へ目を通す。
全問正解。
途中式も整理されており、採点する側が見やすいよう丁寧に書かれている。
さすがは学年一位だった。
一方、美咲は悠真のプリントを見つめたまま、なかなか採点を始めなかった。
特に八問目へ視線を固定している。
やがて教師が黒板へ解答を書き始めると、美咲も赤ペンを動かした。
正解は六問。
七問目と八問目が不正解。
得点にすれば七十五点ほどだ。
この問題の難易度を考えれば、平均より少し上くらいだろう。
「それじゃあ、本人に返せ」
教師の指示で、美咲がプリントを差し出してくる。
「はい」
「ありがとう」
悠真が受け取ろうとすると、美咲はすぐに手を離さなかった。
二人で同じプリントの端を持った状態になる。
「一ノ瀬さん?」
「あ、ごめん」
美咲は我に返ったように指を離した。
その表情には、先ほどから消えない疑問が浮かんでいる。
「何かあるのか?」
「ううん。今はいい」
美咲は小さく首を横へ振り、前を向いた。
その言い方が、悠真には引っかかった。
今はいい。
つまり、あとで聞くつもりなのだろう。
◇
昼休み。
悠真が購買で買ったパンを持って席へ戻ると、美咲が机の横に立っていた。
両手には弁当箱を持っている。
「水瀬くん」
「何だ?」
「今日のお昼、それだけ?」
美咲の視線が、悠真の手元へ落ちる。
焼きそばパンとクリームパン。
飲み物は水だった。
「朝は野菜も食べてって言ったよね?」
「購買に野菜を使ったパンがなかった」
「焼きそばにキャベツが入ってるから、野菜だと思った?」
「違うのか?」
「量が少なすぎるよ」
美咲は呆れたように肩を落とした。
それから自分の弁当箱を見つめ、少し迷うように唇を結ぶ。
「これ、食べる?」
「一ノ瀬さんの昼食だろ」
「少し作りすぎたの」
「昨日も聞いた言葉だな」
「今日は本当だよ」
美咲の頬がわずかに赤くなる。
悠真が弁当箱を覗くと、二段に分かれていた。
上段には白いご飯。
下段には卵焼き、鶏肉の照り焼き、ほうれん草のおひたし、ミニトマトが綺麗に詰められている。
どう見ても一人分だ。
「作りすぎたようには見えない」
「卵焼きなら一つくらい大丈夫」
「それだと一ノ瀬さんの分が減るだろ」
「私は少食だから」
「昨日、俺と同じくらい食べてたぞ」
美咲が言葉を詰まらせる。
彼女は弁当箱を胸元へ引き寄せ、少し恥ずかしそうに悠真を見た。
「……細かいところを覚えてるね」
「目の前で食べてたからな」
「それじゃあ、一つだけ」
美咲は箸で卵焼きをつまみ、小さなカップへ移した。
それを悠真の机へ置く。
「味見してほしいの」
「昨日の夕食のお礼なら、食べ物を追加するのは逆だろ」
「私が食べてほしいからいいの」
美咲は柔らかく微笑んだ。
断っても引かないことは、すでに分かっている。
「ありがとう」
悠真が礼を言うと、美咲の顔が明るくなった。
「どういたしまして」
「ここで食べるのか?」
「駄目?」
美咲は悠真の前にある孝太郎の席を指さした。
教室の後ろでは、彼が男子生徒たちと机を囲んで昼食を食べている。
「佐伯くんには、あとで言っておくから」
「俺は構わないけど」
「じゃあ、決まりね」
美咲は嬉しそうに椅子を引き、悠真の正面へ座った。
学年一位の美咲が、目立たない悠真と向かい合って昼食を食べる。
周囲から何人もの視線が向けられた。
「一ノ瀬さん」
「何?」
「目立ってるぞ」
悠真が声を潜める。
美咲は一度、周囲へ視線を動かした。
女子生徒の何人かが、興味深そうにこちらを見ている。悠真と目が合うと、慌てて顔を逸らした。
「嫌だった?」
美咲の表情が曇る。
「学校では、私とあまり話したくない?」
「そういうわけじゃない。ただ、妙な噂が立つかもしれない」
「私たちは同じクラスで、隣に住んでるだけだよ」
「他の人間は、隣人だと知らないだろ」
「知られたら困る?」
美咲は箸を置き、悠真を真っすぐ見つめた。
その声には、僅かな不安が混じっている。
悠真はすぐに返事をしなかった。
隣人であること自体は、知られても大きな問題ではない。
ただ、美咲との関係を周囲に詮索されるのが面倒だった。
「困りはしない」
悠真が答えると、美咲の肩から力が抜けた。
「それならいいよね」
「噂になっても知らないぞ」
「水瀬くんは、私と噂になるのが嫌なの?」
「面倒だとは思う」
「嫌ではない?」
美咲は少し身を乗り出した。
期待するように瞳を輝かせている。
「面倒だ」
「同じ答えで誤魔化したね」
「誤魔化してない」
「じゃあ、嫌?」
「どうしてそこにこだわるんだ」
悠真が眉を寄せると、美咲は自分でも理由が分からないように瞬きをした。
「どうしてだろう……」
彼女は頬へかかった髪を指先で触り、視線を弁当箱へ落とす。
「水瀬くんに嫌がられるのは、何となく嫌だから」
小さな声だった。
その言葉を聞いた悠真の胸に、温かいものと居心地の悪さが同時に広がる。
「別に嫌ってはいない」
悠真は焼きそばパンの袋を開けながら答えた。
「それでいいだろ」
「うん」
美咲は顔を上げ、安心したように笑った。
「それで十分」
◇
「卵焼き、どう?」
美咲が期待するように尋ねる。
悠真は小さなカップに入れられた卵焼きを口へ運んだ。
ふんわりとしており、ほのかに甘い。
「美味い」
「よかった」
美咲は嬉しそうに目元を緩めた。
「甘い卵焼きでも大丈夫?」
「ああ。嫌いじゃない」
「覚えておくね」
「何のために?」
「また作るときのため」
美咲は当然のように答え、自分の弁当を食べ始めた。
悠真は焼きそばパンを口へ運びながら、数学のプリントへ視線を落とす。
先ほど机へ置いたままになっていた。
八問目には、美咲の赤ペンで途中まで丸がつけられている。
最後の答えは書かれていないため、問題全体としては不正解だ。それでも、途中式はほとんど正しい。
「水瀬くん」
美咲の声に、悠真は顔を上げた。
彼女も同じプリントを見ていた。
「この八問目なんだけど」
「分からなかった問題か?」
「うん」
美咲は箸を置き、プリントを自分のほうへ引き寄せた。
「ここまでは全部合ってるよ」
細い指が、途中式の最後の部分を示す。
「あと一行書けば、答えが出たと思う」
「時間が足りなかった」
「本当に?」
美咲は悠真の顔を見た。
疑っていることを隠そうともしない、真剣な目だった。
「残り時間は五分くらいあったよね?」
「他の問題を見直していた」
「七問目?」
「ああ」
「でも、七問目の間違いは途中式の最初のほうだよ。一度見直したら、すぐに気づくと思う」
悠真は黙った。
美咲の指摘は正しい。
七問目でわざと作った間違いは、単純な符号のミスだった。見直したと言えば、不自然になる。
「気づかなかっただけだ」
「水瀬くんが?」
「俺だって間違える」
「そうだけど……」
美咲は納得できないように眉を寄せた。
試験勉強をしないのに、難しい応用問題は答えの直前まで解けている。
単純な計算問題で間違えているのに、複雑な途中式には一つのミスもない。
普段の成績が平均的な生徒の答案としては、確かに不自然だった。
「もしかして」
美咲が何かを言いかける。
悠真は無意識に身体へ力を入れた。
「何だ?」
「……ううん」
美咲は小さく首を横へ振った。
先ほどまでの鋭い視線を和らげ、プリントから手を離す。
「今は聞かないことにする」
「そうか」
「でも、いつか教えてね」
「何を?」
「水瀬くんが、何を隠してるのか」
悠真の手が止まった。
美咲は穏やかに微笑んでいる。
問い詰めるような口調ではなかった。
だからこそ、悠真は返事に困った。
「何も隠してない」
数秒遅れて、ようやく答える。
「そういうことにしておくね」
美咲は箸を持ち直した。
悠真の言葉を信じたわけではない。
それでも、これ以上踏み込めば悠真が距離を取ると感じたのだろう。
「ねえ、水瀬くん」
美咲はミニトマトを箸でつまみながら、話題を変えた。
「今日の夕食、何が食べたい?」
「何でもいい」
「それが一番困る答えだよ」
「一ノ瀬さんが食べたいものでいい」
「水瀬くんの好きなものが知りたいの」
美咲は少し頬を膨らませる。
「好きな料理は?」
「特にない」
「嫌いなものは?」
「ない」
「昨日も同じことを言ってたね」
「事実だからな」
「それじゃあ、カレーは?」
「食べる」
「ハンバーグ」
「食べる」
「オムライス」
「食べる」
「全部食べるしか言ってないよ」
美咲は困ったように笑った。
しばらく考えたあと、何かを思いついたらしく、表情を明るくする。
「今日はオムライスにしよう」
「どうして?」
「卵料理の見本を見せてあげる」
「昨日の黒い卵を、まだ引きずってるのか」
「衝撃的だったから」
「忘れろ」
悠真が低い声で言うと、美咲は楽しそうに肩を揺らした。
「七時に持っていくね」
「分かった」
悠真が素直に答える。
美咲は一瞬、驚いたように目を丸くした。
「今日は断らないんだ?」
「断っても来るだろ」
「うん。行くよ」
「それなら、最初から答えは決まってる」
「諦めてくれたんだね」
美咲は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、悠真も小さく息を吐く。
諦めたわけではない。
美咲と食べる夕食を、少し楽しみにしている自分へ気づいてしまっただけだ。
それを認めるつもりはなかった。
◇
放課後。
帰り支度をしていた悠真の机へ、孝太郎がやってきた。
「水瀬」
「何だ?」
「今日こそ勉強して帰らないか?」
「断る」
「また即答かよ。試験、本当に大丈夫なのか?」
「赤点は取らない」
「その自信が羨ましいよ」
孝太郎は肩を落とした。
「一ノ瀬にも教えてもらえたらなあ」
その名前が聞こえたのか、少し離れた席で鞄を整理していた美咲が顔を上げる。
「佐伯くん、分からないところがあるの?」
「数学が全体的に分からない」
「全体的に?」
美咲は困ったように笑った。
「それなら、基礎から復習したほうがいいかも」
「今日、教えてくれない?」
「今日は……」
美咲の視線が、悠真へ向けられた。
七時に一緒に夕食を食べる予定がある。
勉強を教えても、十分間に合うはずだ。それでも彼女は、一瞬だけ迷うような表情を見せた。
「一時間くらいなら大丈夫だよ」
美咲は孝太郎へ微笑んだ。
「本当か? 助かる!」
「図書室でいい?」
「ああ。水瀬も来いよ」
「俺は帰る」
「何でだよ。一ノ瀬に教えてもらえるんだぞ?」
「用事がある」
「昨日も言ってたな。何の用事?」
悠真が答える前に、美咲が口を開いた。
「水瀬くんは、七時までに帰らないといけないから」
孝太郎が動きを止めた。
悠真も美咲を見る。
教室の空気まで、一瞬だけ静かになったように感じた。
「何で一ノ瀬が知ってるんだ?」
孝太郎の視線が、悠真と美咲の間を何度も往復する。
「それは……」
美咲はようやく自分の発言の意味に気づいたらしい。
頬がみるみる赤くなっていく。
「ち、違うの。変な意味じゃなくて」
「変な意味って?」
「だから、その……」
美咲は助けを求めるように悠真を見た。
大きな瞳が不安そうに揺れている。
悠真は小さくため息をついた。
「隣に住んでるんだ」
「隣?」
「ああ。一ノ瀬さんの部屋と、俺の部屋が隣同士だった」
孝太郎は目を丸くした。
「マジで?」
「昨日、プリントを届けに来たときに分かった」
「それで七時までに帰るって、どういうことだよ?」
「夕食を――」
美咲が言いかける。
悠真は彼女の言葉を遮った。
「マンションの設備点検がある」
「設備点検?」
「ああ。立ち会いが必要らしい」
「七時に?」
「管理会社の都合だ」
悠真は表情を変えず、自然な調子で答えた。
もちろん、そんな予定はない。
しかし孝太郎は、あっさり納得したように頷いた。
「そういうことか。隣なら一ノ瀬も知ってるよな」
「ああ」
「それなら仕方ないな。じゃあ、また明日誘うから」
「誘わなくていい」
「遠慮するなよ」
孝太郎は笑いながら、美咲と一緒に図書室へ向かった。
教室を出る直前、美咲が振り返る。
悠真へ小さく頭を下げ、唇だけを動かした。
――ありがとう。
そう言っているように見えた。
悠真は片手を上げて応じ、鞄を肩へ掛けた。
そのとき、机の上に残された数学のプリントが目に入る。
八問目。
答えの直前で止めた途中式。
美咲は、そこにある不自然さへ気づいた。
今は聞かないと言っていたが、忘れたわけではないだろう。
「何を隠してるのか、か」
悠真は小さく呟いた。
隠していることなら、いくつもある。
本当の学力。
本当の運動能力。
かつて別の名前で生きていた過去。
そして、芸能界を去ることになった、あの日の出来事。
どれも、美咲に話すつもりはなかった。
彼女とは、偶然隣に住んでいたクラスメイト。
一緒に夕食を食べるようになっただけの隣人。
それ以上の関係になるつもりはない。
そう考えながら、悠真はプリントを鞄へ入れた。
けれど彼のスマートフォンには、美咲から次のメッセージが届いていた。
『勉強を教えたら、すぐ帰るね。オムライス、楽しみにしてて』
メッセージの最後には、笑顔の絵文字が添えられている。
悠真は画面をしばらく見つめたあと、短く返信した。
『分かった。待ってる』
送信してから、自分が書いた言葉を見直す。
待っている。
昨日までの悠真なら、誰かに対して使わなかった言葉だ。
消すことはできない。
すぐに既読がつき、美咲から返信が届いた。
『うん。急いで帰るね』
その文章を読んだとき、悠真の口元には本人も気づかないほど小さな笑みが浮かんでいた。
読んでくださってありがとうございます。
面白いと思っていただけたら、
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