第5話 二人分の夕食
隣室から聞こえていた包丁の音が止まった。
それから数分もしないうちに、悠真の部屋のインターホンが鳴る。
美咲が自分の部屋へ戻ってから、十五分ほどしか経っていない。
「十分で戻るって言ってた気がするけどな」
予定より五分遅れている。
とはいえ、夕食を用意する時間として考えれば、十分でも十五分でも異常なほど早い。
悠真はシンクに残っていた水滴を布巾で拭き、玄関へ向かった。
途中、室内を見渡す。
床に落ちていた物は拾った。
ローテーブルに残っていたコップも洗った。
ソファに置かれていた部屋着はクローゼットへ押し込んである。見えないところへ移しただけなので、片づけたと呼べるかは怪しい。
それでも、昨日よりは人を入れられる状態になっている。
「……いや、入れるとは言ってない」
誰に対してでもなく呟き、悠真は玄関の扉を開けた。
「お待たせ、水瀬くん」
扉の向こうには、私服へ着替えた美咲が立っていた。
薄い桃色のシャツに、白いロングスカート。長い黒髪は後ろで一つに束ねられている。前髪の横から細い毛束が落ち、頬にかかっていた。
両手には鍋とフライパンを持っている。
昨日よりも荷物が多い。
「……一ノ瀬さん」
「何?」
「どうしてフライパンまで持ってきた?」
「野菜炒めが入ってるから」
「保存容器に移せばよかっただろ」
「そうしようと思ったんだけど、洗い物が増えるでしょう?」
美咲は両手の調理器具を少し持ち上げ、困ったように笑った。
「それに、フライパンのまま持ってきたほうが温かいから」
「そうか」
「うん」
そこで会話が途切れる。
美咲は玄関の前に立ったまま、悠真を見つめている。
悠真も彼女を見返した。
「……重いんだけど」
「受け取る」
悠真が手を伸ばすと、美咲は半歩だけ後ろへ下がった。
「受け取ったら、また玄関で扉を閉めるつもりでしょう?」
「よく分かったな」
「昨日と同じだから」
「俺は一人で食べられる」
「でも、今日は水瀬くんの冷蔵庫を確認する約束だよ」
「そんな約束はしてない」
「確認するって言ったでしょう?」
「一ノ瀬さんが一方的に宣言しただけだ」
美咲は少し考えるように首を傾けた。
それから、何かに納得した様子で頷く。
「それじゃあ、今から約束しよう」
「断る」
「まだ内容を言ってないよ?」
「冷蔵庫を確認する約束だろ」
「分かってるなら話が早いね」
美咲は嬉しそうに目を細めた。
「冷蔵庫を確認させてくれたら、今日の夕食を渡します」
「交渉のつもりか?」
「うん」
「なら、夕食はいらない」
「えっ」
美咲の表情が固まった。
まさか断られるとは思っていなかったらしい。
悠真が扉を閉めようとすると、彼女は慌てて身体を前へ寄せる。
「待って。本当にいらないの?」
「ああ」
「野菜炒めだよ?」
「聞いた」
「お味噌汁もあるよ?」
「それも聞いた」
「水瀬くんの分も作ったのに……」
美咲は手元の鍋へ視線を落とした。
眉尻が下がり、唇がわずかに結ばれる。
長い睫毛の下には、はっきりと落胆の色が浮かんでいた。
「……食べてくれると思ってたから、二人分作ったのに」
「二人分?」
悠真が聞き返すと、美咲は顔を上げた。
「うん。私も一緒に食べようと思って」
「聞いてないぞ」
「言ってないから」
「どうして俺の部屋で食べることになってるんだ」
「だって、昨日は水瀬くんが食べるところを見てるだけだったでしょう?」
美咲は少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
鍋の取っ手を握る指先に、そっと力が入る。
「一人で食べるより、一緒に食べたほうが美味しいかなって思って」
小さな声だった。
先ほどまでの強引さはなく、断られることを怖がっているようにも聞こえる。
悠真の胸に、わずかな迷いが生まれた。
美咲の行動は、やはり理解できない。
同じクラスで、偶然隣に住んでいただけの男子。その部屋の惨状を見たからといって、二日続けて夕食を用意する必要はないはずだ。
しかも今日は、自分の分まで持ってきている。
そこまで世話を焼く理由が、悠真には分からなかった。
「一ノ瀬さん」
「何?」
「俺と一緒に食べたいのか?」
美咲は目を丸くした。
頬が少しずつ赤くなっていく。
「そ、その聞き方は、何だか変な意味に聞こえるよ」
「他に聞き方が思いつかない」
「別に、特別な意味はないの」
美咲は早口で答え、落ち着かない様子で視線を左右へ動かした。
「せっかく二人分作ったし、隣に住んでるし、一人で食べるよりは二人のほうがいいかなって。それだけだから」
「そうか」
「そうだよ」
美咲は念を押すように頷いた。
その割に、頬の赤みは消えていない。
「嫌なら、持って帰るけど……」
美咲は僅かに俯いた。
悠真の答えを待つ間、唇を不安そうに引き結んでいる。
「分かった」
悠真は扉を大きく開け、玄関から退いた。
「入っていいぞ」
「……いいの?」
「ああ。ただし、冷蔵庫を勝手に漁るな」
美咲の顔が明るくなる。
「分かった。お邪魔します」
先ほどまでの不安が嘘のように、弾んだ声だった。
美咲は靴を脱ぎ、踵を揃えて玄関の端へ置く。
悠真の部屋へ一歩入ると、すぐに足を止めた。
その瞳が、床からソファ、ソファからローテーブルへと動いていく。
「すごい」
「何が?」
「綺麗になってる」
「大げさだろ」
床に落ちていた物を拾っただけだ。
掃除機をかけたわけでもなければ、床を拭いたわけでもない。
けれど美咲は、自分のことのように嬉しそうな顔をしている。
「短い時間で、ここまで片づけたんでしょう?」
「見えるところの物を移動させただけだ」
「それでも進歩だよ」
美咲は室内へ視線を巡らせる。
やがてクローゼットの扉に目を止めると、少しだけ笑みを深くした。
「部屋着は、あの中?」
「……どうして分かる?」
「ソファにあったのに、洗濯機へ入れた様子はないから」
「見えないところへ片づけただけでも、進歩なんだろ」
「うん。でも、あとで畳まないとね」
「あとでやる」
「いつ?」
「気が向いたら」
「それはやらない人の言葉だよ」
美咲は呆れたように眉を下げたものの、声には笑いが混じっていた。
二人でキッチンへ向かう。
美咲は鍋をコンロの上へ、フライパンをその隣へ置いた。
直後、綺麗になったシンクを見て、彼女の動きが止まる。
「水瀬くん、これ……」
「コップなら洗った」
「フライパンも?」
「焦げは少し残ってるけどな」
美咲はシンクの横に置かれたフライパンを手に取った。
裏返したり、表面を確認したりした後、ゆっくり悠真へ顔を向ける。
「ちゃんと洗えてる」
「洗い物くらいできると言っただろ」
「昨日のお皿も洗ったの?」
「食器棚に入ってる」
美咲は食器棚を開け、二枚の皿を確認する。
その口元に、柔らかな笑みが浮かんだ。
「偉いね」
「子供扱いするな」
「でも、昨日まで洗ってなかったんでしょう?」
「必要になったら洗うつもりだった」
「水瀬くんの『つもり』は信用できないなあ」
美咲はからかうように目を細める。
悠真が無言で見返すと、彼女は楽しそうに肩を揺らした。
「ごめんね。でも、本当に嬉しいの」
「一ノ瀬さんが喜ぶことじゃないだろ」
「私が言ったから、洗ってくれたんでしょう?」
「自分で使ったから洗っただけだ」
「ふうん」
美咲は悠真の顔を覗き込んだ。
嘘を見抜こうとするような視線だった。
悠真は目を逸らさなかった。
昨日までなら、おそらく皿を洗わずに放置していただろう。
美咲が確認すると言ったから洗った。
それは事実だったが、素直に認めるつもりはない。
「今日は目を逸らさないんだね」
「毎回逸らすわけじゃない」
「ちょっと残念」
「何を期待してたんだ」
「水瀬くんの分かりやすいところを、もう一つ見つけられるかなって」
美咲は悪戯っぽく笑う。
悠真は小さく息を吐き、食器棚から皿を二枚取り出した。
「食べるんだろ」
「うん。準備するね」
美咲は嬉しそうに頷いた。
◇
ローテーブルの上に、野菜炒めと味噌汁が並べられた。
フライパンの中には、キャベツ、ニンジン、ピーマン、豚肉が彩りよく盛られている。味噌汁の具は豆腐とワカメだった。
美咲が自分の部屋から持ってきたらしい炊飯器の内釜から、二人分のご飯もよそわれる。
「炊飯器ごと持ってこようかと思ったんだけど、さすがに大変だったから」
美咲はそう言って、少し照れたように笑った。
「内釜だけでも十分大変だろ」
「近いから大丈夫だよ」
二人はローテーブルを挟み、向かい合って座った。
美咲は胸の前で両手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
悠真も倣い、箸を手に取った。
野菜炒めを一口食べる。
シャキッとした歯応えが残っている。豚肉にも味が染みており、ご飯とよく合った。
「どう?」
美咲はまだ自分の箸を動かさず、期待するように悠真を見つめていた。
少し前のめりになり、返事を待っている。
「美味い」
「本当?」
「ああ」
「味、濃くない?」
「ちょうどいい」
「野菜は?」
「ちゃんと火が通ってる」
「それは当たり前だよ」
美咲は頬を膨らませたが、すぐに嬉しそうな笑顔へ戻った。
ようやく自分も箸を手に取り、野菜炒めを口へ運ぶ。
「うん。今日は上手くできたかも」
「昨日の肉じゃがも美味かった」
「ありがとう」
美咲は頬を緩め、少し俯いた。
正面から褒められることに、まだ慣れていないらしい。
学校で成績や運動について褒められても、彼女はいつも余裕のある笑顔で応じている。
それなのに料理を褒められると、目に見えて照れる。
「一ノ瀬さん」
「何?」
「料理は、いつから始めたんだ?」
「中学三年生の終わりくらいかな」
「それで、ここまで作れるのか」
「最初は全然できなかったよ」
美咲は味噌汁の椀を両手で持ち、湯気へ息を吹きかけた。
「卵焼きを作ろうとして、スクランブルエッグみたいになったこともあるし、お味噌汁に味噌を入れすぎたこともあるの」
「俺よりはましだな」
「水瀬くんの場合、卵が炭になってたからね」
「あれは火加減を間違えただけだ」
「殻も入ってたよ」
「細かいことを覚えてるな」
「忘れられないよ。卵料理には見えなかったもの」
美咲は思い出し笑いをするように口元へ手を添えた。
悠真は不満そうに眉を寄せたが、彼女の楽しそうな様子を見ると、本気で言い返す気にはなれなかった。
「料理を始めたのは、一人暮らしをするためか?」
「それもあるよ」
美咲は一度箸を置いた。
「高校生になったら、この辺りで一人暮らしをすることは決まってたから。お母さんが、最低限の料理くらいはできないと駄目だって」
「両親は遠くにいるのか?」
「うん。実家は電車で二時間くらい」
「それなら、ここから通うのは難しいな」
「水瀬くんは?」
「似たようなものだ」
悠真は短く答え、ご飯を口へ運ぶ。
美咲はすぐに続きを尋ねなかった。
悠真が家族の話をしたがらないと感じ取ったのかもしれない。
彼女は味噌汁を一口飲み、しばらく椀の中を見つめていた。
「一人暮らしって、自由で楽しいと思ってたんだ」
美咲がぽつりと言った。
「違ったのか?」
「楽しいよ。好きな時間に起きられるし、誰にも注意されないし」
「それならいいだろ」
「でも、ときどき静かすぎるの」
彼女は顔を上げ、少し困ったように微笑んだ。
「ご飯を作っても、食べるのは一人でしょう? 美味しくできても、誰かに話すわけじゃないし。失敗しても、笑ってくれる人はいないから」
学校ではいつも誰かに囲まれている美咲。
教室の中心で笑い、教師から頼られ、男子からも女子からも声をかけられる。
そんな彼女が、帰宅後は隣の部屋で一人きりなのだ。
悠真はこれまで、孤独を苦痛に思ったことがなかった。
誰にも邪魔されず、自分の好きなように過ごせる。
それが一人暮らしの一番の利点だと思っている。
けれど、美咲は違うらしい。
「だから、今日は楽しい」
美咲は箸を持ったまま、柔らかく笑った。
「水瀬くんが美味しいって言ってくれるから」
真っすぐに向けられた言葉に、悠真の胸がわずかに揺れた。
気恥ずかしさから視線を落とし、味噌汁の椀へ手を伸ばす。
「……そうか」
「今、目を逸らしたね」
「味噌汁を飲もうとしただけだ」
「耳も少し赤いよ?」
「味噌汁が熱いからだ」
悠真は椀へ口をつけた。
確かに味噌汁は温かいが、耳が赤くなるほど熱いわけではない。
美咲もそれに気づいているらしい。嬉しそうに目元を細めながら、悠真の顔を眺めている。
「じろじろ見るな」
「ごめんね」
謝りながらも、美咲の笑顔は消えなかった。
しばらく二人は黙って食事を続けた。
けれど、その沈黙は不快なものではない。
食器の触れ合う音。
美咲が味噌汁を飲む小さな音。
時折聞こえる、外を走る車の音。
昨日まで静かすぎると思ったことのなかった部屋が、今はいつもと違って感じられた。
「水瀬くん、ピーマンも食べられるんだね」
美咲が悠真の皿を見ながら言う。
「嫌いじゃない」
「好き嫌いはある?」
「特には」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ、何でも作れるね」
「どうして今後も作る前提なんだ」
「嫌だった?」
美咲は不安そうに箸を止めた。
悠真はすぐには答えられなかった。
嫌ではない。
むしろ、昨日も今日も美味しかった。
誰かと向かい合って夕食を食べる時間も、思ったほど悪くない。
しかし、それを認めれば、美咲は明日からも部屋へ来るだろう。
「毎日は困る」
「どうして?」
「一ノ瀬さんにも都合があるだろ。それに、試験前なんじゃないのか?」
「勉強なら、ちゃんとしてるよ」
「いつ?」
「朝は五時半に起きて一時間。学校から帰ったあとに二時間くらい」
「もう試験範囲は終わったのか?」
「一通りは。今日から二回目の復習を始めるつもり」
美咲は当然のように答えた。
来週の試験に向けて、すでに全範囲を一度終わらせているらしい。
学年一位という結果は、偶然ではない。
「それなら、俺の食事に時間を使う必要はないだろ」
「夕食は自分の分も作るから、そんなに変わらないよ」
「持ってくる手間が増える」
「隣だから、一分もかからない」
「洗い物も増える」
「それは水瀬くんがやるんでしょう?」
美咲は楽しそうに首を傾げた。
「それとも、洗えない?」
「洗える」
「じゃあ、問題ないね」
「問題はそこじゃない」
「他に何かある?」
「……今は思いつかない」
美咲は満足そうに微笑んだ。
「それじゃあ、明日も一緒に食べようか」
「決定するな」
「水瀬くんは、何時くらいに夕食を食べたい?」
「話を聞け」
「六時半? 七時?」
「どちらでもいい」
「じゃあ、七時にしよう」
気づけば、明日の夕食の時間まで決められていた。
悠真が断る言葉を探している間に、美咲は鞄からスマートフォンを取り出す。
「そうだ。連絡先、交換しようよ」
「どうして?」
「夕食の時間が変わるときに連絡できるでしょう?」
「学校の連絡用アプリがある」
「個別に話すのは使いにくいよ。それに、同じクラスで隣人なのに、連絡先を知らないほうが不便でしょう?」
美咲は画面に連絡先交換用のコードを表示し、悠真の前へ差し出した。
断られるとは思っていない顔だった。
悠真はしばらく画面を見つめる。
「一ノ瀬さん」
「何?」
「最初から、これが目的だったのか?」
「違うよ」
美咲は少し慌てた様子で首を横へ振った。
「でも、交換できたらいいなとは思ってた」
「学校で?」
「ううん。昨日から」
彼女は恥ずかしそうに視線を落とした。
「聞こうと思ったんだけど、タイミングが分からなくて」
連絡先を聞くだけで、なぜそこまで緊張するのか。
悠真にはよく分からない。
ただ、美咲の指がスマートフォンを強く握っていることには気づいた。
表面上は笑顔を作っていても、断られることを恐れている。
「分かった」
悠真は自分のスマートフォンを取り出した。
美咲のコードを読み取り、連絡先へ登録する。
画面に『一ノ瀬美咲』という名前が表示された。
「これでいいか?」
「うん」
美咲は自分の画面を確認した。
悠真の名前が追加されているのを見て、安心したように頬を緩める。
「あとで、何か送るね」
「夕食の連絡以外はいらないぞ」
「分かった」
美咲は素直に頷いた。
その返事を、悠真は信用しなかった。
◇
食事を終え、美咲は食器を重ねようとした。
悠真が先に皿を持ち上げる。
「俺が洗う」
「手伝うよ」
「作ったのは一ノ瀬さんだろ。洗うくらいは俺がやる」
美咲は驚いたように瞬きをした。
そのあと、嬉しそうに目を細める。
「やっぱり、水瀬くんって優しいね」
「普通だ」
「自分では、そう思ってるんだ?」
「作ってもらった人間が洗うのは当然だろ」
「それを当然だと思わない人もいるよ」
美咲は頬杖をつき、食器を運ぶ悠真の背中を眺めていた。
「何だ?」
「ううん。ちゃんと洗えるか見てるだけ」
「監視するな」
「洗剤を出しすぎないでね」
「分かってる」
「油がついてるお皿は、先に拭いたほうが――」
「一ノ瀬さん」
悠真が振り返る。
美咲は注意しようと伸ばしていた人差し指を、気まずそうに引っ込めた。
「……黙って見てます」
「見なくていい」
「それは無理かな」
美咲は小さく笑った。
悠真は彼女の視線を背中に感じながら、二人分の食器を洗った。
自分一人の食器とは違い、皿も椀も二つずつある。
少し面倒なはずなのに、不思議と嫌ではなかった。
「終わったぞ」
洗った食器を置き、悠真は手を拭いた。
「うん。綺麗に洗えてる」
「最初からできると言ってる」
「それなら、今までどうしてやらなかったの?」
「面倒だったから」
「今日は面倒じゃなかった?」
美咲の問いに、悠真は口を閉じた。
面倒ではなかった。
美咲が自分のために料理を作ったのだから、せめて食器くらい洗おうと思った。
しかし、口にするのは気恥ずかしい。
「昨日よりは慣れた」
「そっか」
美咲はそれ以上追及せず、柔らかく微笑んだ。
「ありがとう、水瀬くん」
「礼を言うのは俺のほうだろ」
「じゃあ、お互いさまだね」
彼女は立ち上がり、フライパンと鍋を手に取った。
「冷蔵庫は確認しなくていいのか?」
悠真が尋ねると、美咲は足を止めた。
「見せてくれるの?」
「賞味期限の切れた牛乳は捨てた」
「やっぱり切れてたんだ……」
美咲は額へ手を当てた。
呆れたあと、何かに気づいたように悠真を見る。
「私が来る前に確認したの?」
「ああ」
「どうして?」
「見つかったら、うるさそうだったから」
美咲は一瞬だけ目を丸くした。
それから、堪えきれないように笑い始める。
「何がおかしい?」
「だって、水瀬くん、私が言わなくても確認してくれたんでしょう?」
「うるさく言われたくなかっただけだ」
「それでもいいよ」
美咲は嬉しそうに笑った。
「少しずつ、ちゃんと生活できるようになってるね」
「二日で判断するな」
「明日も確認するから大丈夫」
「明日は来なくていい」
「七時に夕食を食べる約束でしょう?」
「約束した覚えはない」
「でも、どちらでもいいって言ったよ」
「時間を聞かれたから答えただけだ」
「それなら、七時ね」
美咲は再び歩き出す。
玄関で靴を履き、鍋とフライパンを持ったまま器用に扉を開けた。
「ごちそうさまでした、水瀬くん」
「作ったのは一ノ瀬さんだろ」
「場所を貸してもらったから」
「食事もほとんど一ノ瀬さんが持ってきた」
「水瀬くんは、食器を洗ってくれたよ」
美咲は満足そうに笑う。
「だから、今日は二人で夕食を作ったことにしよう」
「無理があるだろ」
「いつか、本当に二人で作ろうね」
「料理の練習はしないぞ」
「今はそれでもいいよ」
美咲は悠真の返事を気にする様子もなく、隣室へ向かった。
「おやすみ、水瀬くん」
「ああ。おやすみ」
美咲は自分の部屋へ入る前に、一度だけ振り返った。
嬉しそうに目を細め、小さく手を振る。
悠真も無意識に片手を上げた。
美咲が隣室へ入り、扉が閉まる。
自分の部屋へ戻った悠真は、急に静かになったリビングを見渡した。
ローテーブルには何も残っていない。
洗った食器が水切り籠に二人分並んでいるだけだ。
それまでは一人で食事をすることに、何も感じなかった。
けれど、誰かと食べたあとの静けさは、以前より少しだけ広く感じられた。
悠真がソファへ座ると、スマートフォンが震えた。
画面には、先ほど登録したばかりの名前が表示されている。
一ノ瀬美咲からの最初のメッセージだった。
『今日はありがとう。明日も七時に行くね』
その下には、笑顔の小さな絵文字が一つ添えられている。
「来ることは決定なのか……」
悠真は呆れながら、返信欄へ指を置いた。
『来なくていい』
そう入力する。
けれど送信する直前で、指が止まった。
代わりに文字をすべて消し、短い返事を打ち直す。
『分かった』
送信すると、数秒もしないうちに既読がついた。
『うん。また明日』
続いて、嬉しそうな動物の絵文字が送られてくる。
画面を見つめる悠真の口元が、ほんの僅かに緩んだ。
それに気づく者は、今の部屋には誰もいない。
ただし、もし美咲が目の前にいたなら、きっと言っただろう。
――今、少し笑ったね、と。
読んでくださってありがとうございます。
面白いと思っていただけたら、
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