第4話 隣人は、玄関先では止まらない
学校からマンションまでの帰り道、美咲はずっと悠真の隣を歩いていた。
駅までの道でも、電車の中でも、最寄り駅を出てからも一緒だった。
悠真が歩く速度を上げれば、美咲も小走りで追いついてくる。逆にわざとゆっくり歩けば、彼女も速度を落とした。
「一ノ瀬さん」
「何?」
「先に帰っていいぞ」
「水瀬くんこそ、先に帰っていいよ?」
「それだと、あとから来るだろ」
「うん」
美咲は悪びれる様子もなく頷いた。
夕方の日差しを受け、長い黒髪が柔らかく光っている。その表情は穏やかだが、悠真の部屋を確認するという意思だけは、まったく揺らいでいなかった。
「俺の部屋に来ても、何も面白くないぞ」
「面白いものを探しに行くんじゃないよ」
「じゃあ、何をしに来るんだ」
「ちゃんと生活できているか確認するの」
「昨日まで俺の部屋を知らなかった人間に、確認される理由がない」
悠真が呆れた声で言うと、美咲は少し考えるように顎へ人差し指を添えた。
「昨日知ったから、今日から確認するんだよ」
「理屈になってない」
「そうかな?」
「そうだ」
「でも、知ってしまったのに放っておくのは、気持ちが悪いから」
美咲は前を向いたまま、静かに答えた。
冗談めいた口調ではない。
その横顔には、わずかに真剣な色が浮かんでいた。
「水瀬くんが毎日菓子パンやカップ麺ばかり食べて、あの部屋で暮らしてるって知ってるのに、何もしないのは嫌なの」
「どうして?」
「どうしてって……」
美咲は困ったように眉尻を下げた。
「同じクラスで、隣に住んでるから?」
「疑問形じゃないか」
「上手く説明できないけど、気になるから仕方ないでしょう?」
そう言って、美咲はわずかに頬を膨らませた。
「水瀬くんは、私に放っておいてほしいんだろうけど」
「ああ」
「でも、私は放っておきたくないの」
「自分勝手だな」
「それは……ごめんなさい」
悠真が率直に言うと、美咲は歩く速度を緩めた。
スカートの前で鞄を両手で持ち、少し俯く。先ほどまで自信に満ちていた表情が消え、睫毛の奥に不安が滲んだ。
「やっぱり、迷惑だよね」
「迷惑かどうかで言えば、迷惑だな」
「そこは少しくらい言い方を選んでよ……」
美咲はさらに肩を落とした。
からかうための演技かとも思ったが、今度は違うらしい。
握られた鞄の持ち手が、わずかに歪んでいる。
隣を歩く悠真の胸に、居心地の悪さが広がった。
美咲が勝手に世話を焼いてきているのは事実だ。
部屋へ来る必要も、悠真の食事を気にする義務もない。
だから断るのは当然だと思っていた。
それでも、彼女の沈んだ表情を見ると、自分が何か悪いことをしたような気分になる。
「ただ」
悠真が言葉を続けると、美咲が恐る恐る顔を上げた。
「昨日の夕食は助かった。美味かったし、感謝もしてる」
「……本当?」
「ああ」
「無理に言ってない?」
「無理に言う理由がない」
美咲は悠真の顔をじっと見つめた。
嘘をついていないか確かめているのだろう。
やがて、彼女の口元に小さな笑みが戻った。
「それなら、今日も夕食を持っていこうか?」
「どうしてそうなる」
「だって、美味しかったんでしょう?」
「美味かったけど、毎日作ってもらうつもりはない」
「私の分を作るついでだよ」
「昨日は作りすぎただけだと言ってなかったか?」
「あれは……」
美咲は言葉を詰まらせた。
視線を泳がせ、耳にかかった髪を意味もなく触る。
「今日から少し多めに作れば、ついでになるから」
「それは、ついでとは言わない」
「細かいことは気にしなくていいの」
美咲は誤魔化すように微笑み、再び歩き始めた。
悠真も小さく息を吐いて、その隣を歩く。
結局、マンションへ着くまで美咲が離れることはなかった。
◇
三階でエレベーターを降りる。
悠真の部屋と美咲の部屋は、廊下の一番奥に並んでいる。
悠真が自分の部屋の前で足を止めると、美咲も当然のように立ち止まった。
「一ノ瀬さんの部屋は隣だぞ」
「知ってるよ」
「なら、また明日」
悠真は鞄から鍵を取り出した。
「うん。また明日」
美咲が素直に答えたので、悠真は少し意外に思いながら鍵を差し込む。
扉を開け、室内へ入る。
そのまま閉めようとすると、扉の縁に美咲の指が添えられた。
「危ないぞ」
「まだ確認してないよ」
「明日と言っただろ」
「学校では、また明日ね」
美咲は扉の隙間から顔を覗かせた。
少し申し訳なさそうに眉を下げているが、帰る気はないらしい。
「部屋には入らないって約束したよな?」
「今日は入らないって言ったよ」
「同じことだろ」
「だから、玄関から見るだけ」
「見てどうする?」
「昨日より綺麗になってるか確認するの」
「なってなかったら?」
「片づけたほうがいいって言う」
「言うだけか?」
悠真が警戒するように目を細める。
美咲は笑顔のまま、わずかに視線を逸らした。
「……できれば手伝いたいかな」
「帰れ」
「あ、待って」
悠真が扉を閉めようとすると、美咲は慌てて手を離した。
その代わり、扉が閉まる直前に、するりと片足を玄関の内側へ入れる。
「一ノ瀬さん」
「部屋には入ってないよ。片足だけだから」
「その理屈なら、次は身体の半分まで入ってきそうだな」
「そんなことしないよ」
「本当か?」
「……たぶん」
「信用できない」
悠真は扉を閉めるのを諦め、玄関の照明をつけた。
昨日より片づいているとはいえ、褒められる状態ではない。
床のペットボトルは捨てた。
菓子パンの袋もゴミ箱へ入れた。
美咲が畳んだ衣類も、そのままでは悪い気がして、寝る前にクローゼットへ押し込んである。
ただし、片づけたのは目についた範囲だけだ。
部屋の隅には雑誌が積まれ、ローテーブルには飲み終えたコップが残っている。ソファの上にも、今朝脱いだ部屋着が無造作に置かれていた。
美咲は玄関から室内を覗き込んだ。
その瞳が左右へゆっくり動く。
何かを採点する教師のような真剣な表情だった。
「昨日よりは、少し綺麗になってるね」
「そうだろ」
悠真はわずかに胸を張った。
美咲はその様子を見ると、目を丸くした。
次いで、堪えきれないように口元へ手を当てる。
「何がおかしい?」
「ごめん。水瀬くんが、ちょっと得意そうだったから」
「別に得意になってない」
「なってたよ。少しだけ顎が上がってた」
「気のせいだ」
「そういうことにしておくね」
美咲は楽しそうに目元を緩めた。
悠真は何となく落ち着かず、顎を引く。
「確認は終わっただろ。帰っていいぞ」
「待って。お皿は?」
「洗った」
「見せて」
「玄関からは見えない」
「それじゃあ、少しだけ中に入って――」
「駄目だ」
「でも、確認できないよ」
「俺が洗ったと言ってる。それで十分だろ」
美咲は唇を尖らせた。
「水瀬くん、昨日のフライパンは?」
「洗った」
「焦げ、落ちた?」
「完全には無理だった」
「見てもいい?」
「話を聞け」
二人が玄関で押し問答を続けていると、廊下の奥から扉の開く音が聞こえた。
向かいの部屋に住む中年の女性が、ゴミ袋を手に出てくる。
女性は悠真と美咲を見ると、状況を理解しようとするように何度か瞬きをした。
「あら。悠真くん、お友達?」
「同じクラスの人です」
「そうなの。可愛らしいお友達ね」
女性が微笑む。
美咲は急に背筋を伸ばし、両手を身体の前で揃えた。
教室で見せる優等生の表情へ瞬時に切り替わる。
「こんばんは。一ノ瀬美咲と申します。水瀬くんとは、学校で同じクラスなんです」
「あらあら、ご丁寧に。もしかして、隣に引っ越してきた女の子?」
「はい。先月から住んでいます」
「それなら安心ね。悠真くん、一人だとろくなものを食べてなさそうだから」
「どうして知ってるんですか」
悠真が眉を寄せると、女性は声を上げて笑った。
「だって、会うたびにコンビニの袋を持ってるじゃない。この前なんて、カップ麺を五つも買ってたでしょう?」
「あれは保存用です」
「翌週にはまた買ってたじゃない」
悠真は返す言葉を失った。
隣を見ると、美咲が口元に笑みを浮かべている。
けれど、その目は笑っていなかった。
「水瀬くん」
「何だ」
「毎日カップ麺を食べてたの?」
「毎日ではない」
「一週間に何回?」
「覚えてない」
「三回以上?」
「……質問が多いな」
悠真が視線を逸らすと、美咲の頬がわずかに膨らんだ。
向かいの女性は、二人のやり取りを楽しそうに眺めている。
「一ノ瀬さんだったかしら。よかったら悠真くんのこと、見てあげてね」
「はい。そうしたいと思っています」
美咲は深々と頭を下げた。
「勝手に話を進めないでください」
「それじゃあ、私はゴミを出してくるから」
女性は笑顔のままエレベーターへ向かっていった。
足音が聞こえなくなると、美咲はゆっくり悠真へ顔を向けた。
「カップ麺、五個」
「保存用だ」
「一週間後に、また買った」
「非常食はいくらあっても困らない」
「賞味期限が切れる前に、全部食べたんだよね?」
「細かいことは覚えてない」
美咲は黙って悠真を見つめた。
先ほどまでの楽しそうな表情は消えている。
怒っているというより、本気で心配しているようだった。
「水瀬くん」
「今度は何だ」
「私、料理を教えようか?」
「必要ない」
「必要だよ。毎日作れなくても、簡単なものだけ覚えれば、今よりずっとましになるから」
「料理は才能だ。一度やって無理だったんだから、諦めたほうがいい」
「たった一度で才能のせいにしないで」
美咲は少し強い口調で言った。
その声に驚き、悠真は彼女を見る。
美咲は唇を引き結び、真剣な目をしていた。
「できないなら、できるまで練習すればいいの」
「誰にでも向き不向きはある」
「それは、ちゃんと努力してから言う言葉だよ」
「一ノ瀬さんは、何でも努力で解決できると思ってるのか?」
「全部とは思ってない。でも、水瀬くんは何も始めてないでしょう?」
美咲の言葉には、妙な重みがあった。
昔は人と話すことが苦手で、運動もできなかった。
それを変えるために、彼女は努力したと言っていた。
今の成績も運動能力も、他人と自然に話せる明るさも、生まれつき与えられたものではないのだろう。
だからこそ、美咲は何もせずに諦めようとする人間を放っておけないのかもしれない。
「……料理くらいできなくても、生きていける」
悠真が呟くと、美咲の表情が少しだけ和らいだ。
「生きてはいけると思う」
「なら問題ないだろ」
「でも、誰かが作ってくれた温かいご飯のほうが美味しいよ」
「それは否定しない」
「昨日の肉じゃが、美味しかった?」
「ああ」
「嬉しかった?」
思いがけない質問に、悠真は答えを止めた。
美味しかったかと聞かれれば、迷わず頷ける。
だが、嬉しかったかと聞かれると、すぐには答えられなかった。
誰かが自分のために夕食を持ってくる。
食べている姿を見ながら、嬉しそうに笑う。
そんな時間を、悠真は長い間経験していなかった。
「別に」
悠真は美咲から視線を外した。
いつもなら、もっと自然に答えられたはずだ。
相手が信じやすい表情を選び、迷いなく否定できた。
しかし、今の返事には不自然な間があった。
自分でも分かるほど、声がわずかに硬くなっている。
「今、目を逸らした」
美咲が小さな声で言った。
悠真が顔を戻すと、彼女は少し嬉しそうに微笑んでいた。
「本当は、ちょっと嬉しかったんだね」
「違う」
「嘘をつくと目を逸らすんでしょう?」
「一度そうだったからといって、全部がそうとは限らない」
「それなら、私の目を見て言って」
美咲は一歩近づき、玄関の内側へ入った。
今度は片足だけではない。
両足が完全に悠真の部屋へ入っている。
彼女は悠真の顔を覗き込むように少し背伸びをした。
二人の距離が急に近くなる。
美咲の黒い瞳に、悠真の姿が映っている。
「昨日の夕食、嬉しくなかった?」
柔らかな声で尋ねられる。
悠真は答えようとして、言葉を失った。
美咲が近い。
手を伸ばさなくても、互いの体温を感じられそうな距離だった。
整った顔立ちも、長い睫毛も、わずかに赤くなった頬も、普段よりはっきり見える。
美咲自身も、思った以上に距離を詰めてしまったことへ気づいたらしい。
彼女の瞳がわずかに揺れる。
それでも、すぐには離れなかった。
「……近い」
悠真が呟く。
「あ、ご、ごめん」
美咲は弾かれたように一歩下がった。
背中が開いたままの扉へ当たり、小さな音が鳴る。
彼女は頬を赤くし、落ち着かない様子で髪を耳へかけた。
「べ、別に変な意味はなくて。水瀬くんが嘘をついてるように見えたから、それで……」
「分かったから、落ち着け」
「落ち着いてるよ」
「顔が赤いぞ」
「これは、廊下が暑いから」
「まだ五月だ」
「今日は少し暑かったの」
美咲は片手で顔を扇いだ。
けれど、耳まで赤くなっているので、まったく誤魔化せていない。
悠真はその姿を見ているうちに、先ほどまで感じていた警戒心が少し薄れていくのを感じた。
「夕食は嬉しかった」
気づけば、そう口にしていた。
美咲の手が止まる。
「……本当?」
「ああ」
悠真は今度こそ美咲の目を見た。
「誰かに飯を作ってもらうことは、ほとんどないからな。美味かったし、嬉しかった。これで満足か?」
言い終えると、妙に気恥ずかしくなった。
悠真は先に視線を逸らし、玄関に置かれた自分の靴へ目を落とす。
美咲はしばらく何も言わなかった。
返事がないことを不思議に思い、悠真が顔を上げる。
美咲は胸元で両手を握り、柔らかく微笑んでいた。
先ほどまでの焦りも、強引な態度も消えている。
その笑顔は、これまで見たどの表情よりも嬉しそうだった。
「そっか」
美咲が小さく呟く。
「それなら、よかった」
「でも、毎日作ってもらうつもりはないからな」
「どうして?」
「そこまでしてもらう理由がない」
「私が作りたいから、じゃ駄目?」
「駄目だ」
「即答なんだ」
美咲の肩が少し下がる。
けれど、今度は完全に落ち込んだわけではなさそうだった。
「それなら、条件を決めようよ」
「条件?」
「水瀬くんも何かをするの」
美咲は考えるように顎へ指を当てた。
「例えば、食材のお金を半分出すとか」
「それだけなら出せる」
「食べたあとのお皿は、自分で洗う」
「それもできる」
「週末は、一緒に料理の練習をする」
「それは断る」
「三つ目だけ?」
「必要ない」
「必要だよ」
美咲は頬を膨らませたが、すぐに別の案を考え始めた。
「それじゃあ、試験勉強を一緒にする」
「料理より嫌だ」
「どうして?」
「一人でやるほうが楽だから」
「勉強しないって言ってたでしょう?」
「一人でやるとは言ってない。やらないと言った」
「もっと駄目だよ」
美咲は腰へ両手を当て、悠真を見上げた。
「今回の試験、本当に難しいんだからね?」
「分かってる」
「分かってる人の態度には見えないよ」
「赤点を取らなければいい」
「その自信はどこから来るの?」
美咲の問いに、悠真は答えなかった。
適当に勉強しているから。
小テストでは平均点を取っているから。
そう答えることもできた。
しかし、美咲は簡単には納得しない気がした。
数学の応用問題を分からなかったと言いながら、難しい試験を前にしても焦らない。
普通なら、矛盾して見えるのだろう。
「根拠なんてない」
悠真は無関心を装うように肩をすくめた。
「赤点を取ったら、そのとき考える」
「……そう」
美咲は短く答えた。
その瞳から、心配の色は消えていない。
むしろ、先ほどよりも強くなっている。
ただし、今回はそれ以上尋ねなかった。
「分かった。勉強については、今日は何も言わない」
「今日は?」
「明日は言うかもしれない」
「毎日言うつもりか」
「水瀬くんが勉強を始めるまで」
美咲は穏やかに微笑んだ。
その笑顔を見て、悠真は何を言っても無駄だと悟る。
「それで、今夜は何を食べる予定だったの?」
「まだ決めてない」
「冷蔵庫には何がある?」
「卵とキャベツと牛乳」
「昨日と同じだね」
「ああ」
「牛乳の賞味期限は?」
「見てない」
「キャベツはいつ買ったの?」
「覚えてない」
美咲の表情が、質問を重ねるたびに曇っていく。
「やっぱり、冷蔵庫を確認させて」
「部屋には入らない約束だろ」
「もう入ってるよ?」
美咲は自分の足元を指さした。
先ほど後ろへ下がったものの、両足はまだ玄関の内側にある。
「これは事故みたいなものだ」
「入ってしまったものは仕方ないね」
「出ればいいだけだろ」
「冷蔵庫を確認したら出るよ」
「断る」
「賞味期限の切れた牛乳を飲んだら、お腹を壊すよ」
「そのくらい見れば分かる」
「昨日、賞味期限が怪しいって思いながら、そのままにしてたんでしょう?」
悠真は黙った。
「どうして知ってる?」
「水瀬くんなら、そうしそうだから」
「失礼だな」
「違うの?」
「……違わない」
美咲は勝ち誇るでもなく、深刻そうに眉を下げた。
「心配になってきた」
「今さらか?」
「昨日から心配だったけど、もっと心配になったの」
美咲は一度、玄関の外へ出た。
ようやく諦めたかと思ったが、自分の部屋へ向かう前に振り返る。
「ちょっと待ってて」
「何をするつもりだ」
「着替えて、夕食の準備をする」
「持ってこなくていい」
「今日は野菜炒めとお味噌汁にするね」
「話を聞け」
「それから、水瀬くんの冷蔵庫も確認する」
「来なくていい」
「十分くらいで戻るから」
「昨日と同じ流れじゃないか」
美咲は自分の部屋の前まで歩く。
鍵を取り出しながら、肩越しに悠真を見た。
「昨日よりは綺麗になってたから、今日は褒めてあげる」
「いらない」
「ペットボトルを捨てられて偉いね、水瀬くん」
「子供扱いするな」
悠真が眉を寄せると、美咲は楽しそうに笑った。
「それじゃあ、またあとで」
「来るなよ」
「冷蔵庫、開けても恥ずかしくないようにしておいてね」
「何をどうしろっていうんだ」
美咲は返事をせず、隣室へ入った。
扉が閉まり、廊下に静けさが戻る。
悠真も自分の部屋へ入り、玄関の扉を閉めた。
「……鍵をかけておくか」
そう呟きながらも、すぐには鍵を回さなかった。
美咲が来ても、今度こそ部屋に入れなければいい。
夕食だけ受け取り、冷蔵庫の確認も断る。
それで終わるはずだ。
だが、悠真には分かっていた。
昨日も、最初は部屋へ入れるつもりなどなかった。
それなのに美咲は夕食を持って室内へ入り、皿を洗い、服まで畳んで帰った。
今日も同じことになる可能性は高い。
悠真はローテーブルのコップを手に取り、キッチンへ運ぶ。
ソファに置かれた部屋着もクローゼットへ押し込んだ。
なぜ片づけているのか、自分でもよく分からない。
別に、美咲に褒められたいわけではない。
だらしないと思われるのが嫌なわけでもない。
「……玄関から見えると、うるさそうだからな」
自分へ言い聞かせるように呟く。
次に悠真は冷蔵庫を開けた。
卵が三つ。
半分残ったキャベツ。
賞味期限が二日前に切れている牛乳。
「これは、捨てたほうがいいか」
牛乳を取り出し、流しへ向かう。
その途中で、悠真はふと足を止めた。
昨日までなら、賞味期限が切れた牛乳を見つけても、飲めるかどうか匂いを確かめる程度だっただろう。
部屋のゴミも、床を歩ける間は気にしなかった。
なのに今は、美咲が来る前に片づけようとしている。
学校を一日休んだことをきっかけに、これまで誰も入ってこなかった生活へ、隣の少女が遠慮なく踏み込み始めていた。
その変化を面倒だとは思う。
ただ、不思議と本気で拒絶する気にもなれなかった。
悠真が牛乳を捨て、空になった容器を洗っていると、壁の向こうから微かな音が聞こえた。
隣室で、美咲が夕食の準備を始めたらしい。
包丁がまな板へ当たる、規則正しい音。
しばらくして、食材を炒める音も聞こえてくる。
悠真は無意識に手を止め、その音へ耳を澄ませた。
「……早すぎるだろ」
一人暮らしを始めてから、隣の生活音を意識したのは初めてだった。
誰かが自分のためにも食事を作っている。
そう考えると、胸の奥に奇妙な温かさが生まれる。
その感覚へ名前をつける前に、悠真は蛇口を閉めた。
そして美咲が戻ってくるまでに、せめてシンクだけは綺麗にしておこうと、洗い残していたコップへ手を伸ばした。
読んでくださってありがとうございます。
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