第3話 優等生は、平凡な彼に違和感を抱く
翌朝。
水瀬悠真が教室へ入ると、すでに半分ほどの生徒が登校していた。
黒板の前で話していた男子たちが、一瞬だけ悠真へ視線を向ける。けれど、すぐに興味を失ったように会話へ戻っていった。
悠真が昨日休んだことを、特別気に留めている者はいないらしい。
それでいい。
むしろ、そうでなくては困る。
「おはよ、水瀬」
自分の席へ向かう途中、前の席に座っていた男子生徒――
佐伯孝太郎が軽く手を上げた。
悠真も小さく手を上げて応じる。
「おはよう」
「昨日休んでたけど、もう平気なのか?」
「何が?」
「体調だよ。風邪じゃなかったのか?」
「ああ。もう問題ない」
本当は最初から何の問題もなかった。
しかし、正直に「気が乗らなかったから休んだ」と説明すれば、余計な会話が増える。昨日、美咲に馬鹿正直に話したのは、あのまま嘘を重ねる必要性を感じなかったからだ。
学校では別だった。
ここでの悠真は、どこにでもいる普通の高校生でなければならない。
「そっか。ならよかった」
孝太郎は安心したように笑うと、手にしていたプリントへ目を戻した。
「それより水瀬、昨日の数学の課題やった?」
「たぶん」
「たぶんって何だよ」
「配られたプリントなら、一応目は通した」
「全部解けた?」
「それなりに」
「最後の問題、難しくなかったか? 俺、途中から全然分からなかったんだけど」
悠真は鞄を机の横へ掛けながら、昨日届けられたプリントの内容を思い出した。
最後の問題は、二次関数と図形を組み合わせた応用問題だった。授業で扱った公式をそのまま当てはめるだけでは解けず、いくつかの条件を整理する必要がある。
高校一年生向けとしては、確かに難しい部類だろう。
ただ、悠真にとっては考えるほどのものではなかった。
「俺もよく分からなかった」
悠真は自然な調子で答えた。
「だよな!」
孝太郎は仲間を見つけたように顔を明るくする。
「一ノ瀬に聞いたら、すぐ解けたって言うんだぜ。学年一位はやっぱり違うよな」
「そうだな」
「水瀬も一ノ瀬からプリント届けてもらったんだろ? 先生が頼んでたし」
「ああ」
「いいなあ。家まで来てくれたの?」
孝太郎は机へ身を乗り出し、声を潜めた。目だけは面白そうに輝いている。
「来たけど、それがどうした?」
「いや、一ノ瀬が家に来るって、普通に羨ましくない?」
「プリントを届けに来ただけだぞ」
「それでもだよ。で、何か話した?」
「特には」
「家に上がった?」
悠真の手が一瞬だけ止まった。
「……どうしてそんなことを聞く?」
「その反応、上がったのか?」
孝太郎が驚いて声を大きくする。
近くにいた生徒が、何事かとこちらを振り返った。
「上がってない」
悠真は表情を変えずに否定した。
「今、ちょっと間があっただろ」
「気のせいだ」
「怪しいな」
「プリントを受け取って、それで終わりだ」
実際には、夕食を持って再び訪ねてきた。
部屋へ上がったうえ、皿を洗い、衣類まで畳んで帰った。
そんなことが知られれば、面倒な噂になる可能性がある。
美咲も他人には話さないと言っていた。ならば、悠真も黙っているべきだろう。
「おはよう、佐伯くん。水瀬くん」
背後から聞こえた声に、悠真は振り返った。
一ノ瀬美咲が立っていた。
今日も制服には皺一つなく、赤いリボンは綺麗に結ばれている。艶のある黒髪も丁寧に整えられており、昨日の夜に見た私服姿とは印象が違った。
教室にいる美咲は、隙のない優等生だった。
「おはよう、一ノ瀬」
孝太郎は先ほどまでの詮索を忘れたように笑顔を向けた。
「昨日は水瀬にプリントを届けたんだって?」
「うん。先生に頼まれたから」
美咲はにこやかに答えた。
「こいつ、家ではどうだった?」
「どうって?」
「体調悪そうだった?」
「それは――」
美咲の瞳が悠真へ動く。
わずかに眉が上がり、口元には悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
体調が悪くなかったことを知っている顔だ。
悠真は目を細め、余計なことは言うなと視線だけで伝えた。
意図を理解したらしく、美咲は一度だけ瞬きをする。けれど、すぐに悠真から視線を外すと、考えるように人差し指を頬へ添えた。
「元気そうだったよ」
「元気だったのかよ」
孝太郎が悠真へ呆れた目を向けた。
「午後には回復していた」
「ふうん?」
孝太郎は疑わしそうに首を傾げたが、追及するほど興味はなかったらしい。
「まあ、元気ならいいけどさ」
そう言って、自分の席へ向き直った。
美咲は悠真の隣まで歩いてくると、小さく身体を屈めた。
「ちゃんと来たね」
周囲に聞こえないよう、声を潜めている。
その表情は、昨日隣の部屋で見たものに近かった。優等生としての微笑みではなく、安心した気持ちがそのまま表れたような柔らかい笑顔だ。
「休んだら、また部屋に来そうだったからな」
「うん。そのつもりだったよ」
「否定しないのか」
「だって、また食事を菓子パンで済ませるかもしれないでしょう?」
美咲は悠真の机へ片手をつき、少し心配そうに顔を覗き込んだ。
「今日は朝ご飯、食べた?」
「食べた」
「何を?」
「食パン」
「他には?」
「水」
「それは朝食に数えないよ」
「食パンを食べただろ」
「食パンだけじゃなくて、卵とか野菜も食べないと」
「昨日の卵を見ただろ。俺に調理させるほうが危険だ」
悠真がそう言うと、美咲は昨日の黒い物体を思い出したらしい。
眉間に小さく皺を寄せ、何とも言えない表情になった。
「……それは否定できないかも」
「だろ」
「でも、得意そうに言うことじゃないよ」
美咲は困ったように頬を緩めた。
「昨日のお皿は洗った?」
「洗った」
「本当に?」
「疑うなら、見に来るか?」
深く考えずに口にしてから、悠真は失言に気づいた。
美咲の瞳が、ぱっと明るくなる。
「見に行っていいの?」
「間違えただけだ」
「今日の放課後?」
「来なくていい」
「でも、水瀬くんが自分から見に来てもいいって」
「疑うなら、と言っただけだ。許可はしてない」
「私はちょっと疑ってるよ?」
美咲は楽しそうに笑い、悠真の机から手を離した。
「それなら、確認しないといけないね」
「必要ない」
「放課後に相談しようか」
「今、断ってるんだけど」
悠真が少し強い口調で言っても、美咲はまるで気にしていない。
彼女は自分の席へ向かいながら、一度だけ振り返った。
「それじゃあ、またあとでね」
目元を柔らかく細め、小さく手を振る。
悠真は返事をしなかった。
その代わり、机の横へ掛けた鞄から教科書を取り出し、深いため息をつく。
「……本当に面倒な隣人だな」
それでも、昨日より不快には感じなかった。
◇
一時間目の数学が終わり、二時間目の現代文が始まる。
現代文の授業が終わると英語。
昼休みを挟み、午後の授業も普段どおりに進んでいった。
悠真は教師の話を聞いているように見せながら、適度な間隔でノートへ文字を書き込んだ。
すべてを書き写す必要はない。
重要な部分だけを拾えば、板書の三分の一ほどで済む。
ただし、それでは周囲から不自然に思われる可能性がある。そのため、教師が黒板へ向いた瞬間に関係のない式を書き足したり、すでに理解している内容をあえて書き直したりして、真面目に授業を受けているように見せていた。
答えを求められれば、少し考えるふりをする。
運動するときは、息が乱れているように振る舞う。
小テストでは、正解が分かっている問題をいくつか間違える。
それは悠真にとって、すでに習慣だった。
目立たないこと。
特別だと思われないこと。
誰かに期待されないこと。
そのためなら、平均的な人間を演じるくらい難しくはない。
六時間目の終わり。
担任教師が教卓へ立つと、教室の空気がわずかに変わった。
「ホームルームを始める前に、来週の定期試験について話しておく」
教師はそう言いながら、人数分の冊子を机へ置いた。
「今回の試験は、高校へ入学して最初の本格的な定期試験だ。中学までとは難易度が違うから、油断しないように」
前の席から冊子が回ってくる。
試験範囲と、各教科の注意点をまとめたものだった。
「特に数学と英語は、例年より少し難しくなると聞いている。平均点も低くなるかもしれない。今日から計画的に勉強を始めること」
教室のあちこちから、小さな悲鳴やため息が聞こえた。
悠真の前に座る孝太郎も、試験範囲を見ながら頭を抱えている。
「うわ、最悪だ……。これ全部出るのかよ」
「静かにしろ、佐伯」
「先生、今から範囲を半分にする予定は?」
「ない。諦めて勉強しろ」
クラスに笑いが起きる。
悠真は試験範囲へ目を通した。
数学は、二次関数の応用まで。
英語は、教科書の第三章に加えて、初見の長文問題が出題される。化学も計算問題が多く、日本史には授業で軽く触れただけの資料問題が含まれるらしい。
確かに、高校へ入って最初の定期試験としては難しい。
真面目に授業を受けている生徒でも、今から準備しなければ高得点は取れないだろう。
もっとも、悠真には関係のないことだった。
問題を解くだけなら、勉強する必要はない。
だが、それでは困る。
これまでの小テストや実力試験で、悠真は意図的に平均点付近を取ってきた。今回だけ高得点を取れば、不自然に思われる。
平均点が低くなるのなら、自分の点数もそれに合わせて下げなければならない。
その調整だけは、少し面倒だった。
「水瀬」
前から孝太郎が振り返る。
絶望したような顔で、試験範囲の冊子を指さしていた。
「今日、一緒に勉強して帰らない?」
「嫌だ」
「即答するなよ」
「今日は用事がある」
もちろん、用事などない。
孝太郎と勉強すれば、問題をどの程度解けるのか見られてしまう。分からないふりを続けるのも面倒だ。
「明日は?」
「明日もたぶん用事がある」
「絶対嘘だろ」
孝太郎は恨めしそうに悠真を見た。
「お前、平均点くらいは取るもんな。家で結構勉強してるんじゃないの?」
「それなりに」
「一日何時間?」
「日による」
「昨日は?」
「してない」
「休んでたのに?」
「映画を観てた」
「余裕だなあ。赤点取っても知らないぞ」
「そのときはそのときだ」
悠真が肩をすくめると、孝太郎は呆れたように前を向いた。
その会話を聞いている者がいることには、気づいていた。
右斜め前の席。
美咲が冊子を持ったまま、こちらを見ている。
悠真と目が合うと、彼女はわずかに眉を寄せた。
唇は真っすぐに結ばれている。
朝の柔らかな表情とは違い、何かを不思議に思っているような顔だった。
悠真が首を傾げると、美咲はすぐに視線を冊子へ戻した。
◇
放課後。
悠真は教科書を数冊だけ鞄へ入れ、帰る準備をしていた。
教室内には、試験に向けて勉強会を開こうと相談する声が飛び交っている。
孝太郎も友人たちに誘われ、図書室へ向かった。
悠真が席を立とうとしたとき、机の横に人影が落ちる。
「水瀬くん」
顔を上げると、美咲が立っていた。
鞄を両手で身体の前に持ち、悠真をじっと見下ろしている。
「朝の話なら断る」
「まだ何も言ってないよ?」
「部屋を確認しに来る話だろ」
「それもあるけど」
「それも?」
美咲はすぐには答えなかった。
視線を悠真の机へ落とし、そこに置かれた試験範囲の冊子を見つめる。
「水瀬くん、試験勉強しないの?」
「まだ一週間ある」
「もう一週間しかないんだよ」
美咲の声には、責めるような響きはなかった。
ただ、純粋に不思議そうだった。
彼女は悠真の机へ指先を置き、試験範囲の冊子を自分のほうへ少し引き寄せる。
「先生も言ってたけど、今回の試験はかなり難しいと思う。数学は応用問題が多いし、英語も初見の長文が出るから」
「そうらしいな」
「それなのに、昨日も勉強してないんだよね?」
「してない」
「今日も?」
「帰ってまでやるつもりはない」
悠真が答えると、美咲はますます不思議そうに眉を寄せた。
「心配じゃないの?」
「何が?」
「点数」
「赤点を取らなければ問題ない」
「でも、水瀬くんの成績って、学年の真ん中くらいでしょう?」
「ああ」
「今回の試験は、今までの小テストとは全然違うよ。授業を受けているだけだと、平均点を取るのも難しいかもしれない」
「そのときは平均点以下になるだけだ」
「それでいいの?」
「困ることはない」
美咲は黙り込んだ。
伏せられた睫毛が、小さく揺れる。
悠真の言葉を理解しようとしているようにも、別の答えを探しているようにも見えた。
やがて彼女は、そっと顔を上げた。
「昨日の数学のプリント、解いた?」
「一応」
「最後の問題は?」
「よく分からなかった」
朝、孝太郎に話したものと同じ答えだった。
けれど、美咲は納得しなかったらしい。
何も言わずに悠真の目を見つめ続ける。
その視線は、教室で他の生徒へ向けているものより鋭かった。
「何だ?」
「ううん」
美咲は小さく首を横へ振った。
黒髪が肩の上でさらりと揺れる。
「少し、不思議だなって思っただけ」
「何が?」
「水瀬くん、焦ってないから」
「表に出してないだけかもしれない」
「そうかな」
「そう見えないか?」
悠真は、少しだけ困ったように眉尻を下げた。
試験への不安を隠すため、平静を装っている男子生徒。相手にそう映る角度、表情、声の調子を無意識に選んでいた。
この程度の演技なら、失敗するはずがない。
美咲は悠真の顔を見つめる。
その瞳がほんのわずかに揺れた。
一瞬だけ、納得しかけたのかもしれない。
しかし、すぐに彼女の視線は悠真の手元へ移った。
机の上に置かれた試験範囲の冊子。
悠真は不安を演じているはずなのに、冊子を持つ指には力が入っていない。試験範囲を何度も確認することもなければ、注意事項へ視線を戻すこともなかった。
美咲はそんな悠真をじっと見た。
けれど、問い詰めることはしなかった。
「もし分からないところがあったら、聞いてね」
彼女は先ほどまでの探るような表情を消し、柔らかく微笑んだ。
「私でよければ教えるから」
「学年一位に教えてもらうのは気が引けるな」
「どうして?」
「一ノ瀬さんも自分の勉強があるだろ」
「人に教えると復習にもなるよ。それに、一人で勉強するより楽しいかもしれないし」
美咲はそう言いながら、少し恥ずかしそうに鞄の持ち手を握り直した。
視線が一瞬だけ床へ落ちる。
「私、誰かと一緒に勉強するのに、少し憧れてたんだ」
「意外だな。いつもクラスの誰かと話してるだろ」
「話すのと、一緒に勉強するのは違うよ」
美咲は曖昧に笑った。
その表情の奥に、わずかな寂しさが見えた気がした。
「中学までは、そういう相手があまりいなかったから」
「友達がいなかったのか?」
悠真が率直に聞くと、美咲の肩が小さく跳ねた。
「そんなにはっきり聞く?」
「違うなら違うと言えばいい」
「……多くはなかった、かな」
美咲は頬にかかった髪を指先で整えた。
照れではなく、自分を落ち着かせるための仕草に見えた。
「昔は、人と話すのが苦手だったの。教室でも本を読んでいることが多くて、運動も全然できなかったし」
美咲は自嘲するように口元を緩める。
「今の一ノ瀬さんからは、想像できないな」
「頑張ったから」
その返事だけは、迷いがなかった。
美咲は顔を上げ、真っすぐに悠真を見る。
「変わりたい理由があったの。だから勉強も運動も、人と話すことも練習した」
「人と話すことまで?」
「うん。笑顔の作り方も、鏡を見て練習したんだよ」
美咲は恥ずかしそうに笑った。
悠真の胸の奥で、何かが小さく引っかかる。
笑顔を鏡の前で練習する。
その行為は、悠真にとっても身近なものだった。
口角をどこまで上げれば自然に見えるか。
目元をどう緩めれば、相手へ好意が伝わるか。
幼い頃、何度も鏡の前で繰り返した。
ただし、美咲が努力したのは、自分自身を変えるため。
悠真が練習したのは、別の誰かを演じるためだった。
「変な話をしちゃったね」
悠真が黙っていると、美咲は気まずそうに目を逸らした。
「忘れて」
「どうして?」
「水瀬くんには関係ない話だから」
「自分から話したんだろ」
「そうなんだけど……」
美咲は困ったように眉を下げる。
その表情を見て、悠真は何となく彼女の言葉をそのまま返したくなった。
「人の事情を勝手に話すのはよくないんだろ。誰にも言わない」
昨日、美咲が口にした言葉だった。
彼女は驚いたように目を丸くした。
それから、安心したように目元を柔らかくする。
「覚えてたんだ」
「昨日のことだからな」
「ありがとう、水瀬くん」
「礼を言われるほどじゃない」
「それでも、ありがとう」
美咲は胸の前で鞄を抱え、嬉しそうに微笑んだ。
鏡の前で練習したと言っていた笑顔。
けれど今の表情は、学校で見せている完璧な笑顔とは少し違う。
頬がほんのりと赤く、唇の端も左右でわずかにずれている。
作られたものではないと、悠真には分かった。
それに気づいた瞬間、なぜか悠真のほうが先に視線を逸らした。
「それで、今日は勉強するの?」
美咲が改めて尋ねる。
「しない」
「そこは変わらないんだね」
彼女は肩を落としたものの、もう問い詰めようとはしなかった。
「じゃあ、分からないところがあったら言ってね」
「ああ」
「本当に言ってくれる?」
「機会があれば」
「それ、言わない人の答えだよ」
美咲は不満そうに唇を尖らせた。
次の瞬間、何かを思いついたように顔を明るくする。
「それなら、今日、水瀬くんの部屋で一緒に勉強する?」
「しない」
「私は自分の勉強をするから、水瀬くんも隣で――」
「しない」
「二回も言わなくても聞こえてるよ」
美咲は頬を膨らませ、抗議するように悠真を見つめた。
「勉強しないなら、せめて家事の確認をするね」
「話がつながってないだろ」
「昨日のお皿を洗ったか、部屋を片づけたか、朝ご飯以外は何を食べたか」
美咲は指を一本ずつ立てながら確認事項を挙げていく。
「全部確認するから」
「全部断る」
「お皿を洗ったところを見せてくれるって、朝に言ったよね?」
「言ってない。見に来るかと聞いただけだ」
「同じことじゃない?」
「まったく違う」
悠真は鞄を肩へ掛け、席を立った。
「とにかく、部屋には来なくていい。昨日夕食をもらったことには感謝してるけど、これ以上世話を焼かれる理由はない」
少し冷たい言い方だったかもしれない。
美咲の笑顔が消えた。
鞄の持ち手を握る指に、わずかに力が込められる。
傷つけたかと思い、悠真の胸に小さな罪悪感が生まれた。
美咲は純粋に心配しているだけなのだろう。
それでも、他人を自分の生活へ深く入れるつもりはなかった。
誰かとの距離が近くなれば、自分について話さなければならない場面も増える。
過去を知られる可能性も高くなる。
それだけは避けたかった。
「分かった」
しばらくして、美咲が小さく答えた。
その声が思った以上に寂しそうで、悠真はわずかに眉を寄せる。
けれど、美咲はすぐに顔を上げた。
「それじゃあ、今日は部屋には入らないね」
「ああ」
「玄関で確認するだけにする」
「分かってないだろ」
美咲は口元へ手を当て、楽しそうに笑った。
先ほどまでの寂しげな様子は消えている。
どうやら悠真の反応を見るため、わざと落ち込んだふりをしていたらしい。
「一ノ瀬さん」
「何?」
「今のは演技か?」
その言葉を聞いた途端、美咲の笑顔が固まった。
ほんの一瞬だけ、驚きが瞳をよぎる。
「演技って……何のこと?」
「いや。何でもない」
悠真はそれ以上追及せず、教室の出口へ向かった。
美咲も慌てて後を追ってくる。
「待って、水瀬くん」
「ついてくるな」
「帰る方向が同じなの。隣に住んでるんだから」
「そうだったな」
「それに、家事の確認が終わってないよ」
「させるつもりはない」
「私は確認するつもりだよ」
「本人が断ってるんだけど」
「大丈夫。部屋には勝手に入らないから」
「そういう問題じゃない」
二人は並んで廊下を歩く。
前を歩いていた生徒たちが、学年一位の美咲と目立たない悠真が一緒にいることを不思議に思ったのか、何度か振り返っていた。
悠真はその視線に気づき、歩く速度を少し上げる。
美咲も遅れないように足を速めた。
「水瀬くん、歩くの速い」
「一緒に帰る必要はないだろ」
「同じマンションなんだから、途中まで一緒だよ」
「先に帰ればいい」
「水瀬くんが逃げるかもしれないから」
「自分の家からどうやって逃げるんだ」
「私が部屋に入れないように、どこかで時間を潰すかも」
図星だった。
しばらく本屋か喫茶店へ寄り、美咲が諦めるのを待つことも考えていた。
悠真が黙ると、美咲は横から顔を覗き込んできた。
「本当に逃げるつもりだったの?」
「違う」
「今、ちょっと目を逸らしたよ」
「気のせいだ」
「昨日は美味しいものを食べると眉が上がったし、今日は嘘をつくと目を逸らすんだね」
美咲は新しい発見を喜ぶように笑った。
「水瀬くんって、やっぱり分かりやすい」
悠真は反論しなかった。
正確には、反論できなかった。
美咲に見抜かれたのは、悠真が演技を失敗したからではない。隠そうと思えば、視線の動き一つまで完璧に制御できたはずだ。
それをしなかった。
美咲の前では、そこまで徹底して自分を作る必要を感じなかった。
その事実が、悠真自身にも理解できなかった。
隣を歩く美咲は、上機嫌そうに小さく笑っている。
試験勉強をしない悠真へ、彼女がどんな違和感を抱いたのか。
悠真はまだ知らない。
美咲もまた、その違和感の正体を言葉にはできていなかった。
ただ一つ決まっていることがある。
このまま二人がマンションへ帰れば、美咲は悠真の部屋を訪ねてくる。
悠真が何度断ったとしても、彼女には諦めるつもりなど少しもなかった。
読んでくださってありがとうございます。
面白いと思っていただけたら、
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