第56話 恋人だけが知る本当の実力
次に目を覚ましたときも、美咲はベッドの隣にいた。
悠真はまだ眠気の残る目を開き、視界に映った少女の姿をしばらく眺める。
美咲はベッドの背板へ身体を預けていた。
少し窮屈そうな姿勢のまま目を閉じ、規則正しい呼吸を繰り返している。悠真を待っている間に、自分まで眠ってしまったらしい。
薄い桃色の部屋着。
その上に羽織った白いカーディガン。
肩から流れた髪が頬へかかり、普段より幼く、無防備に見えた。
右手は、悠真の左手とつながったままだった。
「……十分だけじゃなかったのか」
声を抑えて呟く。
枕元の時計を見ると、時刻は午前九時四十分。
美咲が部屋へ入ってきてから、すでに三十分ほど経っている。
起こそうと思えば、簡単にできた。
しかし、眠っている美咲を眺めていると、もう少しだけこのままでいたくなる。
悠真は空いた右手を伸ばし、頬へかかっている髪をそっと払った。
指先が頬へ触れる。
美咲の睫毛が小さく動いた。
「ん……」
目を覚ましかけたのか、つないでいる手へ少し力がこもる。
美咲は薄く目を開き、何度か瞬きをした。
「悠真くん……?」
「おはよう」
「……おはよう」
眠そうな声で答えたあと、美咲は周囲を見る。
自分が悠真のベッドへ座り、手をつないだまま眠っていたことを思い出したらしい。
顔が少しずつ赤くなっていく。
「私、寝てた?」
「三十分くらい」
「十分で起こすつもりだったのに」
「一緒に寝てたな」
「一緒って言わないで」
「同じベッドにいたのは本当だろ」
「私は座ってただけです」
美咲は慌てて手を離し、ベッドから立ち上がろうとする。
しかし長い間同じ姿勢でいたせいか、足へ上手く力が入らなかった。
「きゃっ」
身体が傾く。
悠真は咄嗟に腕を伸ばし、美咲の腰を支えた。
そのまま美咲はベッドの上へ倒れ込む。
柔らかな布団が沈み、二人の顔が近づいた。
「大丈夫?」
「う、うん」
美咲は片手を悠真の胸元へつき、身体を支えている。
横になった悠真のすぐ上。
普段とは逆に、美咲が悠真を見下ろす形になっていた。
寝起きのせいか、髪は少し乱れている。
カーディガンの襟も片側へずれ、白い首元がいつもより見えていた。
悠真は無意識に視線を向け、すぐに顔へ戻す。
しかし、美咲はその動きに気づいたらしい。
「今、どこ見たの?」
「顔」
「その前」
「……襟がずれてたから」
美咲は自分の服装を確認し、慌ててカーディガンを整える。
「見た?」
「少しだけ」
「もう」
美咲は恥ずかしそうに頬を赤くする。
だが本気で怒ってはいなかった。
「ごめん」
「わざとじゃないんでしょう?」
「うん」
「ならいいよ」
美咲は起き上がろうとする。
しかし悠真の腕が、まだ腰へ回ったままだった。
「悠真くん?」
「何?」
「手」
「腰を支えただけ」
「もう倒れないよ」
「そっか」
悠真は返事をしたが、すぐには腕を離さなかった。
部屋着越しに伝わる美咲の体温。
近くにある顔。
朝の柔らかな光の中で、彼女だけが妙にはっきりと見える。
「離してくれないの?」
美咲が小声で尋ねる。
「嫌?」
「嫌じゃないけど……」
美咲の視線が、悠真の唇へ一瞬だけ落ちる。
「このままだと、朝ご飯を作れないよ」
「もう少しだけ」
「昨日も同じこと言ってたね」
「美咲も言ってた」
「私たち、毎日こればかりになってない?」
「恋人らしいことを毎日するって決めただろ」
「それを理由にすれば、何でも許されるわけじゃないよ」
「じゃあ、駄目?」
悠真が腕を緩めようとすると、美咲は胸元へついていた手で服を掴んだ。
「駄目とは言ってない」
「どっちなんだよ」
「朝ご飯の前だから、少しだけ」
美咲は周囲に誰もいないことを確認するように、視線を動かす。
ここは悠真の寝室だ。
二人以外にいるはずがない。
それでも恥ずかしいのか、最後には目を閉じた。
「悠真くんからして」
「何を?」
「分かってるでしょう?」
「言ってくれないと分からない」
「意地悪」
美咲は目を閉じたまま、唇を僅かに尖らせる。
「……キスして」
「うん」
悠真は美咲の腰へ回した腕を少し引き、その唇へ短く触れた。
柔らかな感触。
寝起きだからか、普段よりも互いの動きはぎこちなかった。
唇を離す。
美咲は薄く目を開き、まだ近くにある悠真の顔を見る。
「これで今日の分?」
「美咲が決めて」
「朝の分」
「朝と夜で数えるの?」
「今決めた」
「都合よくない?」
「夜は夜で、したくなるかもしれないから」
美咲は自分の言葉に気づき、顔を赤くする。
「今のは忘れて」
「無理」
「どうして?」
「嬉しかったから」
「最近、そればかり」
「本当のことだから」
美咲は恥ずかしそうに悠真の肩へ顔を伏せた。
「……あと一分だけね」
「うん」
二人は朝食が遅くなると分かりながら、もう少しだけベッドの上で抱き合っていた。
◇
朝食を食べ終えたあと、美咲はテーブルの上へ悠真の教科書を並べ始めた。
国語、数学、英語、化学。
休日の朝には似つかわしくない光景だった。
「何してるの?」
悠真が尋ねる。
「勉強の準備」
「誰の?」
「悠真くんの」
「今日は日曜日だけど」
「日曜日だから、勉強する時間があるでしょう?」
「せっかくの休日なのに?」
「期末試験まで二週間しかないよ」
美咲は腰へ手を当て、呆れたように悠真を見る。
先週、担任から試験範囲の一覧が配られていた。
球技大会が終わったばかりで、教室にはまだ行事の余韻が残っている。しかし授業はすでに期末試験を意識した内容へ移り始めていた。
「二週間もあるだろ」
「しか、です」
「直前に少し見れば大丈夫」
「また平均点に合わせるの?」
その一言で、悠真は黙った。
美咲は悠真の正体だけでなく、本当は勉強ができることも知っている。
前回の定期試験では、最も難しい数学の問題へ正しく答えるよう頼まれた。悠真は約束どおり、その一問だけを本気で解いた。
それ以外は、これまでと同じ。
わざと正解数を調整し、全教科で平均より少し上の点数を取った。
「今回も、今までどおりにするつもり?」
美咲は責めるのではなく、確かめるように尋ねた。
「その方が楽だから」
「勉強しなくていいから?」
「目立たないから」
悠真は椅子へ腰を下ろし、開かれていない教科書へ目を向ける。
「球技大会だけでも十分目立った。これでテストまで急に点数が上がったら、今まで手を抜いてたことまで知られる」
「それが怖い?」
「面倒なんだよ」
「本当に、それだけ?」
美咲が向かいへ座る。
悠真の目を、まっすぐ見つめる。
「怖くないって言えば嘘になる」
少し迷ったあと、正直に答えた。
「できるって知られたら、次も求められる。一回だけ点数を取っても、次に下がれば理由を聞かれる。ずっと維持しないといけなくなる」
「うん」
「だったら最初から、平均でいた方がいい」
「悠真くんがそうしたいなら、私は無理に変えさせないよ」
美咲は教科書の表紙を、指先でそっと撫でる。
「でも、一つだけお願いしてもいい?」
「何?」
「私にだけは、隠さないでほしい」
「美咲にはもう知られてるだろ」
「そういう意味じゃなくて」
美咲は少し考え、言葉を選ぶ。
「私と一緒に勉強するときまで、できないふりをしないでほしいの」
「でも、美咲に教えてもらう必要はないよ」
「それなら、悠真くんが私に教えて」
「学年一位に?」
「私にも、分からない問題はあるよ」
美咲は鞄から一冊の問題集を取り出した。
一般的な高校一年生向けではない。
大学入試を意識した、かなり難しい問題が並んでいる。
「これ、解ける?」
開かれたページには、複雑な条件が書かれた数学の問題があった。
美咲は昨夜から考えているらしく、余白にはいくつもの式が並んでいる。
悠真は問題文を一度読み、次に美咲の途中式を確認する。
「ここ」
数秒で一箇所を指差した。
「場合分けが一つ抜けてる」
「え?」
「この条件だと、正の場合だけじゃなくて、こっちも考えないと駄目だ」
近くにあったペンを取り、空いた場所へ式を書く。
「そうすると、ここが消えて――答えは二つ」
美咲は悠真の手元を見つめる。
問題集を開いてから、まだ一分も経っていない。
「……昨日、何時間も考えたんだけど」
「方向は合ってたよ」
「それでも、一分で解く?」
「前に似た問題を見たことがあるから」
「どこで?」
「子役の仕事をしてた頃、待ち時間が長かったから。家庭教師から、いろいろ教わってた」
「だから高校の内容も知ってたの?」
「全部ではないけど」
悠真はペンを置く。
「撮影の都合で学校を休むことが多かったから、遅れないように先まで勉強させられてた」
「大変だった?」
「当時は、それが普通だと思ってた」
悠真は何気ない口調で答えた。
しかし美咲は、その言葉の裏側にあるものを感じ取ったのか、少し悲しそうに眉尻を下げる。
「ごめん」
「どうして謝るの?」
「嫌なことを思い出させたかもしれないから」
「これくらいは平気」
「本当に?」
「うん」
美咲はすぐに信じず、悠真の表情を確かめる。
無理をして笑っていないか。
過去から逃げるために誤魔化していないか。
その視線は鋭い。
けれど、隠されたものを暴こうとする鋭さではなかった。
ただ悠真を傷つけないよう、慎重に見守っている。
「大丈夫だよ」
悠真はもう一度答えた。
「美咲になら、このくらい話せる」
「そっか」
美咲の表情が少しだけ和らぐ。
「じゃあ、もう一つお願い」
「まだあるの?」
「悠真くんと本気で勝負してみたい」
美咲の瞳に、静かな闘志が浮かんでいる。
「勉強で?」
「うん」
「美咲は学年一位だろ」
「だからこそ」
美咲は背筋を伸ばした。
「今まで、誰かに負けたくないと思って勉強してきた。でも、同じくらい本気で競ってみたいと思える人はいなかったの」
「俺なら?」
「負けたら悔しい。でも、悠真くんに負けるなら少し嬉しいかもしれない」
「変なの」
「自分でもそう思う」
美咲は照れくさそうに笑う。
「悠真くんが、本当はどのくらいできるのか知りたい」
「もう大体知ってるだろ」
「点数で見たいの」
「でも、急に上がったら目立つ」
「全部じゃないなら、たまたま勉強したって言えるよ」
「教師には疑われるかも」
「そのときは、私と勉強したって言えばいい」
「それだと、美咲が教えたことになるけど」
「表向きはそれでいいよ」
美咲はいたずらっぽく目を細める。
「二人きりのときは、どっちが教える側でもいいでしょう?」
「負けたときの言い訳にしない?」
「しません」
「本当に?」
「私が負けると決まってないよ」
美咲は自信に満ちた表情で答えた。
「何の教科がいい?」
「数学」
悠真は迷わず選んだ。
調整しやすく、一問ごとの答えがはっきりしている。国語の記述問題のように、教師の判断が入ることも少ない。
「分かった」
美咲が手を差し出す。
「期末試験の数学だけは、二人とも本気」
「負けた方は?」
「何かするの?」
「勝負なら、あった方が面白いだろ」
「じゃあ、負けた方が勝った方のお願いを一つ聞く」
「プールと同じだな」
「今度は私が勝つから」
「どうだろう」
悠真も手を差し出し、美咲の手を握る。
握手をするだけのつもりだった。
しかし美咲は離さず、そのまま指を絡めてきた。
「勉強するんじゃなかった?」
「今からするよ」
「手をつないだまま?」
「片手でできるでしょう?」
「効率悪くない?」
「たまにはいいの」
美咲はつないだ手をテーブルの上へ置き、空いた右手で問題集を自分たちの間へ移動させた。
「次の問題も教えて」
「自分で解かないの?」
「途中まで考えるから、間違えたら教えて」
「分かった」
「でも、試験では助けないでね」
「当然だろ」
「私も手加減しないから」
「望むところ」
二人は手をつないだまま、同じ問題集へ顔を寄せた。
読んでくださってありがとうございます。
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