第57話 学年一位の隣で、本気を出す
数学の問題集を開いてから、一時間が経った。
リビングの時計は、午前十一時を少し過ぎている。
テーブルの上には教科書とノート、何本かのペンが広げられていた。美咲が持ってきた問題集は半分ほど進み、余白には二人の式が並んでいる。
丁寧で整った字が美咲。
必要な部分だけを書いた、簡潔な式が悠真。
同じ答えへたどり着いていても、その過程には性格の違いが表れていた。
「できた」
美咲は最後の式を書き終えると、ペンを置いた。
隣に座る悠真へノートを見せる。
「これで合ってる?」
「たぶん」
「たぶんじゃなくて、ちゃんと見て」
「答えは合ってるよ」
「途中式は?」
「ここ、二行くらい飛ばしてもいいと思う」
「試験では減点されるかもしれないでしょう?」
「採点する教師にもよるけど、この変形なら分かるだろ」
「私は全部書きたいの」
「時間が足りなくなるよ」
「見直しまで含めて間に合わせます」
美咲は自信を持って答え、ノートへ不足している式を書き加える。
学年一位は、偶然取れるものではない。
美咲は教科書に載っている内容を理解するだけでなく、どのような問題が出ても対応できるように準備している。
解けた問題でも、より確実な方法がないか考える。
計算ミスを防ぐために途中式を残し、見直しの時間まで計算する。
天宮レイへの憧れをきっかけに始めた努力。
今では、誰かに言われなくても続けることのできる彼女自身の強さになっていた。
「美咲は、本当に手を抜かないんだな」
悠真が呟く。
「どうしたの、急に?」
「問題を解けるだけなら、ここまで書かなくてもいいだろ」
「本番で失敗したくないから」
「一問間違えても、一位は取れるんじゃない?」
「取れるかもしれない。でも、自分ができるところまでやらずに間違えたら、後悔するでしょう?」
「……そういうものか」
「悠真くんには分からない?」
美咲は書いていた手を止める。
責めるような言い方ではなかった。
純粋に、悠真の考えを知りたがっているようだった。
「昔は分かってたと思う」
悠真は問題集へ視線を落とした。
「台詞も動きも、完璧になるまで練習した。自分の役だけじゃなくて、共演者の台詞まで覚えてた」
「すごいね」
「必要だったからだよ」
「誰かに言われて?」
「最初は自分からだった」
幼い頃の悠真は、演技をすることが嫌いではなかった。
知らない人物の人生を想像すること。
自分とは違う言葉や表情を使うこと。
撮影が終わり、作品として完成した映像を見ること。
努力した分だけ上手くなり、褒められることも嬉しかった。
「一回上手くできたら、次はもっと上を求められた。それに応えたら、またその次」
「うん」
「どこまでやっても終わりがなかった」
美咲は何も言わず、静かに聞いている。
「最後の方は、失敗しないために練習してた。好きだったからじゃなくて、誰かを失望させたくなかったから」
「だから今は、最初から期待されないようにしてるの?」
「たぶん」
悠真は曖昧に答える。
期待されることが怖い。
その理由のすべてを、まだ美咲へ話せたわけではない。
「じゃあ、私との勝負も嫌だった?」
「嫌なら受けてないよ」
「私に期待されるのは?」
「嫌じゃない」
「本当に?」
「うん」
悠真は美咲のノートを指先で軽く叩く。
「美咲は、俺が負けても失望しないだろ」
「もちろん」
「勝つ気でいるけどな」
「私も負けないよ」
美咲の瞳に、再び闘志が浮かぶ。
「期末試験の数学、絶対に満点を取るから」
「俺も満点なら引き分けだな」
「時間で勝負する?」
「答案を提出する時間は同じだろ」
「どっちが先に解き終わったか、自己申告」
「証明できない」
「嘘はつかないでしょう?」
「美咲も?」
「当然です」
美咲は胸を張る。
「それなら、点数が同じときは解き終わった時間が早い方の勝ち」
「分かった」
「負けた方はお願いを一つ聞く」
「決めたお願いは?」
「まだ秘密」
「また?」
「悠真くんは決めた?」
「大体」
悠真が答えると、美咲の眉が僅かに動く。
「何をお願いするつもり?」
「秘密」
「私には聞いたのに?」
「美咲も答えなかっただろ」
「そうだけど……変なお願いじゃないよね?」
「美咲が嫌がることは頼まない」
「だったら、少しくらい教えて」
「勝ってから」
「気になる」
美咲は頬を膨らませる。
「気になって勉強に集中できないかも」
「それで負けたら困るのは美咲だろ」
「悠真くんが教えてくれないせいです」
「人のせいにするなよ」
「恋人なんだから、少しくらいいいでしょう?」
「便利な言葉になってない?」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
少し前まで、誰かと競うことを避けていた。
勝てば注目される。
負ければ失望される。
そのどちらも嫌だった。
だが今は、美咲と同じ問題を解き、どちらが早いかを競う時間が楽しい。
勝っても負けても、この関係が失われることはない。
そう信じられるからだった。
◇
「ところで」
美咲が時計を見る。
「一時間経ったけど、そろそろ手を離さない?」
「先につないだのは美咲だろ」
二人の左手は、勉強を始めてからずっとつながっていた。
問題集を開くのも、ノートへ式を書くのも右手だけ。
効率が悪いと言いながら、悠真も途中で離そうとはしなかった。
「少し汗ばんできたから、恥ずかしいの」
「俺も同じだから気にしなくていい」
「余計に気になるよ」
「じゃあ離す?」
「……もう少しだけ」
「どっちなんだよ」
「あと一問解くまで」
美咲はつないだ手を握り直し、問題集の次のページを開く。
「次は別々に解こう」
「時間を測る?」
「うん。負けた方が、お昼ご飯を作る」
「俺が不利すぎない?」
「料理の勝負じゃないよ」
「負けたあとが不利なんだよ」
「大丈夫。私も手伝うから」
「それなら罰になってないだろ」
「罰じゃありません。練習です」
美咲はスマートフォンのタイマーを準備する。
問題は、図形と二次関数を組み合わせた応用問題だった。
「準備はいい?」
「いつでも」
「始め」
タイマーが動き始める。
悠真は問題文へ視線を落とした。
必要な条件を拾い、頭の中で図形を動かす。
正攻法で解くこともできる。
だが、別の性質を使えば計算を大幅に短縮できることへ気づいた。
ペンを動かす。
隣では、美咲も無言で式を書いている。
先ほどまで触れていた手が離れ、互いのペンの音だけが部屋へ響いていた。
二分ほど経ったところで、悠真は答えへたどり着く。
ペンを置こうとして、美咲の横顔を見た。
真剣な表情。
問題だけを見つめ、手を止めずに計算を続けている。
ここで終わったと言えば、自分の勝ちだ。
だが、今までずっと実力を隠してきた癖が働く。
もう少し待つ。
美咲が解き終わる頃に合わせれば、目立った差にはならない。
そう考え、ペンを握ったまま手を止めた。
「できた」
数十秒後、美咲がペンを置く。
ほぼ同時に、悠真も口を開く。
「俺も」
美咲はタイマーを止める。
「二分四十八秒」
「早かったな」
「悠真くんも同じくらい?」
「うん」
美咲は二人のノートを並べる。
答えは同じ。
ただし、途中式の長さが違う。
「この解き方……」
「何?」
「私より短い」
「別の性質を使ったから」
「だったら、私より早く解き終わってたでしょう?」
美咲が悠真を見る。
疑うというより、答えを確信している顔だった。
「ほぼ同じだよ」
「何秒待ったの?」
「待ってない」
「目を見て言って」
悠真は美咲と視線を合わせる。
すぐには答えられなかった。
「……二十秒くらい」
「どうして待ったの?」
「癖で」
「私にも手を抜くの?」
「手を抜いたつもりはないよ。答えは出してた」
「でも、終わったって言わなかった」
「それは」
「私と本気で勝負するって約束したよね?」
美咲の声は穏やかだった。
しかし表情には、隠しきれない寂しさが浮かんでいる。
「ごめん」
悠真は言い訳をやめた。
「無意識に合わせようとした」
「私が負けたら、落ち込むと思った?」
「少しは」
「落ち込むよ」
美咲は正直に答えた。
「悔しいって思う。でも、それは本気で勝負したからでしょう?」
「うん」
「悠真くんが手加減したと分かる方が、もっと悔しい」
「……そうだな」
「私、そんなに頼りなく見える?」
「違う」
「なら、本当に本気でやって」
美咲は二人のノートをテーブルへ置く。
「恋人だからって、何でも譲ってほしいわけじゃないの」
「分かった」
「次は待たない?」
「約束する」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ、もう一問」
美咲は問題集をめくり、先ほどより難しそうな問題を選ぶ。
「今度は先に解き終わった方が、すぐにタイマーを止める」
「分かった」
「負けても、言い訳なし」
「うん」
「お願いをするときも、遠慮なし」
「それは美咲もだろ」
「もちろん」
美咲は気持ちを切り替えるように、深く息を吸った。
「始めるよ」
「いつでも」
タイマーが動き出す。
二人は同時に問題へ視線を落とした。
今度の悠真は、美咲の手元を見なかった。
条件を読み、最短の解法を探す。
迷わずペンを動かし、式を書く。
答えが出た瞬間、スマートフォンへ手を伸ばした。
「終わり」
一分五十二秒。
美咲はまだ途中だった。
数秒遅れてペンを置き、悔しそうに唇を結ぶ。
「……速い」
「待ってないよ」
「分かってる」
美咲は悠真のノートを確認する。
間違いはない。
少ない式で、正しい答えへたどり着いている。
「負けた」
「一問だけだけどな」
「でも、ちゃんと負けた」
美咲は悔しそうにしながらも、少しだけ笑った。
「嬉しそうだな」
「うん」
「負けたのに?」
「悠真くんが、本気でやってくれたから」
美咲は悠真の左手を取る。
先ほど離した指を、もう一度絡めた。
「ありがとう」
「お礼を言うところ?」
「私に隠さなかったから」
「これからも、二人のときは隠さないようにする」
「うん」
美咲は満足そうに頷く。
「じゃあ、今度は私が勝つまで続ける」
「昼食は?」
「勝ってから作る」
「何問かかるんだろうな」
「すぐ勝つよ」
美咲は次の問題を探し始める。
その表情は真剣で、同時に楽しそうだった。
悠真はつないだ手へ視線を落とす。
実力を見せることが、怖くないわけではない。
美咲が相手でも、長く続けてきた演技を完全にやめるのは難しかった。
それでも、本気で向き合えば美咲は喜んでくれる。
勝っても、嫌われない。
期待へ応えられない日があっても、きっと隣にいてくれる。
その確信が、少しずつ悠真の中の恐怖を解いていた。
◇
月曜日。
一時間目の数学が始まると、担当教師は大量のプリントを抱えて教室へ入ってきた。
「期末試験の範囲が確定した」
教師の言葉に、教室のあちこちから落胆の声が上がる。
「範囲、広くないですか?」
「球技大会があったんだから、少しくらい減らしてくださいよ」
「行事と試験は別だ」
教師は冷静に答え、前の席からプリントを配らせる。
「今回の数学は、平均点がかなり低くなると思う」
「予告するんですか……」
孝太郎が嫌そうに呟く。
「教科書の例題を覚えるだけでは解けない問題も出す。普段から内容を理解していれば問題ない」
「それが難しいんですよ」
「佐伯は特に勉強しておくように」
「名指しされた……」
教室に笑い声が広がる。
悠真も前から回ってきた試験範囲のプリントを受け取った。
内容へ目を通す。
難しくなるとはいえ、出題範囲は予想どおりだった。昨日、美咲と解いた問題集に比べれば、特別難しいものではない。
「水瀬」
教師に名前を呼ばれる。
「はい」
「今回は期待しているぞ」
その言葉を聞いた瞬間。
悠真の指が、プリントの端を強く握った。
期待している。
それだけで、教室の空気が僅かに遠ざかった。
「球技大会では、随分活躍したそうじゃないか」
教師は悪意なく笑っている。
「運動で本気を出せたなら、勉強でも少しくらい上を目指してみろ」
周囲の生徒たちも、悠真を見る。
「水瀬なら、意外と点取るんじゃない?」
「運動も隠してたしな」
「一ノ瀬さんに教えてもらってるんだろ?」
視線。
声。
次の結果を求める空気。
悠真は返事ができなかった。
隣から、柔らかなものが手へ触れる。
美咲の小指だった。
机の間で、誰にも見えないように悠真の指へ重ねられる。
悠真は美咲を見る。
彼女は正面を向いたまま。
それでも、触れた指から言葉が伝わる。
大丈夫。
一人ではない。
「……できる範囲で頑張ります」
悠真は教師へ答えた。
以前と同じ、曖昧な返事。
それでも机の下では、美咲の小指をそっと握り返していた。
読んでくださってありがとうございます。
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