第55話 合鍵で開く朝
窓の外には、住宅街の明かりが広がっている。
壁に掛けられた時計の針は、午後九時へ近づいていた。
夕食を食べ、食器を片づけ、プールで交わした約束も果たした。
普段なら、そろそろ悠真が自分の部屋へ戻る時間だった。
帰るといっても、目的地はすぐ隣だ。
玄関を出て数歩進めば、そこに悠真の部屋がある。
それでも腕を解いてしまえば、今日のデートが本当に終わってしまう。美咲が名残惜しく思う気持ちは、悠真にも分かった。
美咲の背中へ回していた腕へ、少しだけ力を込める。
柔らかな部屋着越しに、体温が伝わってくる。
美咲もそれに応えるように、悠真の服を掴んだ。
「悠真くん」
「何?」
「苦しくない?」
「平気」
「肩は?」
「もう治ってる」
「本当に?」
「この体勢で痛かったら、とっくに言ってるよ」
「言わずに我慢するかもしれないでしょう?」
「もうしない」
「前にも聞いた気がする」
美咲は疑うように顔を上げた。
二人の距離が急に近くなる。
先ほど唇を重ねたときより、互いの表情がはっきり見える距離だった。
「今度は信じて」
「じゃあ、約束」
「何を?」
「体調が悪いときも、怪我をしたときも、必ず私に言うこと」
「軽くても?」
「それでも心配するよ」
迷わず答えた。
「私は悠真くんの恋人なんだから」
美咲は恥ずかしさを誤魔化すように、ほんの少し頬を膨らませる。
「悠真くんが苦しいのに、何も知らずに隣の部屋で過ごすのは嫌なの」
「でも、心配させる」
「何も言ってくれない方が心配するよ」
「分かった」
「本当に?」
「うん」
「また無理をしたら?」
「今度は何日、美咲の言うことを聞く?」
「罰を受ければ無理をしてもいいみたいになるから、もう使いません」
「意外と厳しいな」
「大事なことだから」
美咲は表情を引き締める。
叱られているはずなのに、その言葉の一つ一つから自分を大切に思う気持ちが伝わってくる。
悠真は怒られることが嫌いだった。
子役だった頃、大人から叱られるのは、求められた結果を出せなかったときだった。
台詞を間違えた。
表情が違った。
撮影の進行を遅らせた。
そこに悠真自身への心配はなかった。
だが美咲は違う。
成績や結果のためではなく、悠真が傷つくことを嫌がっている。
「約束する」
悠真は改めて答えた。
「何かあったら、最初に美咲に言う」
「うん」
美咲の表情が柔らかくなる。
「私も、何かあったら悠真くんに話すから」
「美咲は一人でも何でもできそうだけど」
「できないこともあるよ」
「例えば?」
「今まで、好きな人に自分からキスしたことはなかった」
「それは俺にしかできない方がいい」
「そうじゃなくて……」
美咲は頬を赤くする。
「私も怖かったり、恥ずかしかったりすることがあるって言いたかったの」
「知ってる」
「本当?」
「今日、ずっと顔に出てた」
「そんなに?」
「水着で来たときも、帰ってからも」
美咲は悠真の胸元へ顔を隠す。
「見ないでほしかった」
「俺に見せるために選んだんだろ?」
「水着は見てほしかったけど、緊張してる顔まで見られるのは恥ずかしいの」
「全部可愛かったよ」
「またそういうこと言う」
「本当だから」
美咲は何も答えず、悠真の胸元へ額を押しつけた。
ただ、抱き締める腕が少し強くなっている。
「……悠真くん」
「今度は何?」
「今日の私、本当に可愛かった?」
「何回聞くんだよ」
「もう水着じゃないから、聞けるの」
「可愛かった」
「水着も?」
「うん」
「恥ずかしくなかった?」
「恥ずかしいのは、美咲の方じゃない?」
「悠真くんは?」
「かなり意識した」
美咲がゆっくり顔を上げる。
「どのくらい?」
「言わない方がいいと思う」
「どうして?」
「美咲が怒りそうだから」
「変なこと考えた?」
「高校生なんだから、少しくらいは仕方ないだろ」
悠真が視線を逸らす。
美咲はしばらく、その横顔を見つめていた。
「嫌じゃないよ」
予想していなかった言葉に、悠真は顔を戻す。
美咲は頬を赤くしながらも、逃げずにこちらを見ていた。
「悠真くんが、私のことを好きだから意識したんでしょう?」
「そうだけど」
「それなら、嫌じゃない」
「でも、困らせるようなことはしない」
「うん」
美咲は悠真の頬へ、そっと手を添える。
「我慢してくれてたのも分かってる」
「そんなに顔に出てた?」
「真面目な顔で、何度も目を逸らしてたから」
「……気づいてたのか」
「少しだけ、嬉しかった」
美咲は照れくさそうに目を細める。
「私のことを可愛いって思ってくれてるんだって分かったから」
「今も思ってるよ」
「今は水着じゃないよ」
「水着じゃなくても」
悠真が答えると、美咲は数秒黙った。
それから顔を近づけ、悠真の頬へ短く唇を触れさせる。
一瞬の出来事だった。
美咲はすぐに離れ、自分の口元を手で隠した。
「今のは?」
悠真が尋ねる。
「可愛いって言ってくれた、お礼」
「唇じゃないんだ」
「さっき、もうしたでしょう?」
「回数制限あるの?」
「ないけど……」
美咲は悠真の唇を一度見て、すぐに目を逸らした。
「これ以上したら、本当に帰ってほしくなくなるから」
「帰らなくてもいいけど」
「部屋は隣です」
「知ってる」
「それに、今日は泳いで疲れてるでしょう?」
「美咲も」
「だから、ちゃんと休まないと」
自分へ言い聞かせるような声だった。
悠真は名残惜しく思いながらも、背中へ回していた腕を解いた。
美咲の身体が離れる。
ソファの間に僅かな隙間が生まれ、そこへ冷たい空気が入り込んだように感じた。
「帰るよ」
「うん」
「寂しくなったら、また来てもいい?」
「さっきは私が行ったから、今度は悠真くんが来て」
「鍵が閉まってたら?」
「呼び鈴を押してください」
「開いてたら?」
「勝手に入ったら駄目」
「俺は駄目なんだ」
「当たり前でしょう?」
美咲は呆れたように笑う。
「でも、いつか悠真くんにも合鍵を渡すから」
「いつ?」
「私が心の準備をできたら」
「合鍵を渡すだけだろ」
「違うよ」
美咲は立ち上がり、自分の部屋を見回した。
「好きな人が、私のいないときでも部屋へ入れるようになるんだよ?」
「勝手には入らないけど」
「それでも、意識するの」
「俺の鍵は?」
「欲しい」
美咲は即答した。
「そこは迷わないんだ」
「悠真くんは、一人で具合が悪くなっても隠すかもしれないから」
「もうしないって約束しただろ」
「念のためです」
「俺の合鍵は安全対策で、美咲の合鍵は心の準備が必要なのか」
「そういうことです」
美咲は少し得意そうに頷いた。
「少し待ってて」
「何をするの?」
「合鍵を取ってくる」
「今から?」
「今日渡すって約束しただろ」
悠真はソファから立ち上がり、自分の部屋へ戻ろうとする。
しかし、美咲が服の裾を掴んだ。
「一人で行くの?」
「鍵を取るだけだから」
「でも、今行ったら、そのまま戻ってこないかもしれないでしょう?」
「戻ってくるよ」
「本当に?」
「美咲の部屋にスマホも置いたままだし」
「スマホがなかったら戻ってこないの?」
「そういう意味じゃない」
悠真が苦笑すると、美咲は恥ずかしそうに指を離した。
「早く戻ってきてね」
「数十秒だよ」
廊下へ出て自室へ戻り、玄関脇の収納棚を開ける。
小さなトレーの中に、未使用の予備鍵が一本入っていた。
以前は、誰かへ渡すことなど考えたこともなかった鍵だ。
この部屋は、外の世界から自分を切り離すための場所だった。
誰にも踏み込まれず、一人でいられる場所。
その入口を開ける鍵を、自分から誰かへ渡そうとしている。
悠真は鍵を手に取り、隣室へ戻った。
美咲はソファへ座らず、玄関近くで待っていた。
「おかえり」
「ただいま」
悠真は美咲の前へ立ち、右手を差し出した。
手のひらには、銀色の小さな鍵がある。
「これ」
美咲はすぐには受け取らなかった。
鍵と悠真の顔を交互に見つめる。
「本当に、私が持ってていいの?」
「美咲に持っていてほしい」
「でも、これを渡したら、私がいつでも悠真くんの部屋へ入れるようになるんだよ?」
「いつでも入っていいよ」
「悠真くんが起きなかったときだけだよ」
「分かってる」
「勝手に冷蔵庫を確認したり、お部屋を掃除したりするかもしれないよ?」
「それは今まで鍵がなくてもやってただろ」
「必要だったからです」
美咲は少しだけ頬を膨らませた。
それから両手を差し出し、悠真の手のひらから鍵を受け取る。
美咲は鍵を胸元へ近づけ、大切なものを受け取ったように両手で包む。
「ありがとう」
「そんなに大げさなものじゃないだろ」
「私にとっては大切なものだよ」
美咲は鍵を見つめ、柔らかく微笑む。
「悠真くんが、私なら入ってもいいって思ってくれた証拠だから」
「うん」
「なくさないね」
「何かにつけておいた方がいいかもな」
「あとでキーホルダーを選ぶ」
「美咲の好きなものでいいよ」
「お揃いにしてもいい?」
「またお揃いが増えるな」
「嫌?」
「嫌じゃない」
悠真が答えると、美咲は嬉しそうに鍵を握り直した。
「大事にするね」
「鍵は使うものだろ」
「大事に使います」
美咲はそう訂正すると、一度自分の部屋へ戻り、普段使っている鍵束へ悠真の合鍵を取りつけた。
自室の鍵と、隣室の鍵。
二本が並び、小さな音を立てる。
「これで、何かあったらすぐに行けるね」
「何もなくても来てよ」
悠真が言うと、美咲は目を丸くした。
やがて、安心したように目元を緩める。
「うん。でも、入る前にはちゃんと連絡する」
「分かった」
「悠真くんが起きないときだけ、鍵を使うね」
「それでいいよ」
美咲は鍵束を胸元へ抱き、もう一度嬉しそうに微笑んだ。
◇
悠真が自分の部屋へ戻る前に、二人は指輪をつけ直した。
料理の時に外していたリングは、テーブルへ並べて置いてあった。
美咲が青い石のリングを手に取り、悠真の右手を持ち上げる。
「つけるね」
「うん」
薬指へ、ゆっくりとリングが通される。
次は悠真が薄桃色のものを取り、美咲の右手を取った。
細い薬指へリングを通す。
根元まで収まったところで、美咲は嬉しそうに手を持ち上げた。
「やっぱり、これがあると落ち着く」
「部屋の中でしかつけないのに?」
「二人だけのものみたいでしょう?」
美咲は悠真の手と自分の手を並べる。
二つの小さな石が、部屋の照明を受けて淡く光った。
「明日も会える?」
「朝食を作りに来るだろ?」
「今日疲れたから、少し遅くてもいい?」
「別に昼でもいいよ」
「悠真くん、一人で朝ご飯を食べられる?」
「食パンくらいなら」
「焦がさない?」
「焼き時間を確認する」
「牛乳も飲んでね」
「子ども扱いするな」
「心配だから」
美咲はそう言うと、玄関まで悠真を見送った。
「おやすみ」
「おやすみ、美咲」
悠真が扉を開ける。
廊下へ出ようとしたところで、後ろから服の裾を掴まれた。
「待って」
振り返る。
美咲は何か言いたそうにしながら、悠真を見上げていた。
「どうした?」
「最後に、もう一回だけ」
「何を?」
「……言わせないで」
美咲の視線が、悠真の唇へ落ちる。
悠真は部屋の中へ一歩戻り、扉を閉じた。
「美咲から?」
「今度は悠真くんから」
「さっき、帰れなくなるって言っただろ」
「一回だけなら大丈夫」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「早くしないと、やっぱりやめるよ」
美咲は恥ずかしそうにしながら、ゆっくり目を閉じた。
悠真はその頬へ手を添え、短く唇を重ねる。
離れようとした瞬間、美咲の両腕が背中へ回った。
ほんの少しだけ引き寄せられ、二人の距離がもう一度近づく。
「一回だけじゃなかった?」
唇が離れたあと、悠真が小声で尋ねる。
「今ので一回」
「長さは関係ないんだ」
「細かいことは気にしないで」
美咲は顔を赤くしながらも、まだ悠真の背中へ腕を回している。
「これ以上は、本当に帰れなくなるよ」
「分かってる」
そう答えても、美咲はすぐには離れなかった。
しばらくしてから名残惜しそうに腕を解き、今度こそ悠真を廊下へ送り出す。
「また明日ね」
「うん。また明日」
扉が閉まる。
数歩進み、自分の部屋へ戻る。
距離にすれば、わずかなものだった。
それでも悠真は、部屋へ入った瞬間から美咲の声が聞きたくなった。
◇
日曜日の朝。
悠真は、自分の部屋の鍵が開く小さな音で目を覚ました。
まだ完全には意識が戻っていない。
誰かが玄関へ入ってくる。
足音は小さく、迷いがちだった。
「悠真くん?」
美咲の声。
昨日の夜、約束どおり合鍵を渡した。
眠る前のメッセージでは、午前九時に朝食を作りに来ると書かれていた。
悠真は枕元の時計を見る。
九時十分。
呼び鈴にも、スマートフォンの着信にも気づかなかったらしい。
「まだ寝てるの?」
寝室の扉が、ゆっくり開く。
美咲が顔を覗かせた。
薄い桃色の部屋着に、白いカーディガンを羽織っている。片手には、悠真から渡された鍵が握られていた。
「おはよう」
悠真は布団の中から声をかける。
「起きてたの?」
「今起きた」
「何度も呼び鈴を押したんだよ」
「聞こえなかった」
「メッセージも送った」
「見てない」
「電話もした」
「ごめん」
美咲は安心したように息を吐く。
「何かあったのかと思った」
「寝てただけ」
「本当に?」
「熱はないよ」
疑うような視線を向けられ、悠真は布団から右手を出した。
「確かめる?」
「うん」
美咲は寝室へ入り、ベッドの横へ腰を下ろす。
右手を悠真の額へ当てた。
「熱はなさそう」
「だから言っただろ」
「でも、昨日泳いだから疲れてるのかも」
「少し眠いだけ」
「朝ご飯、あとにする?」
「今食べる」
「起きられる?」
「たぶん」
悠真は身体を起こそうとする。
しかし眠気が残り、上手く力が入らなかった。
「ほら、まだ眠そう」
美咲が困ったように笑う。
「もう少し寝てていいよ」
「美咲は?」
「リビングで待ってる」
「ここにいて」
半分眠った頭で、そう答えていた。
美咲の動きが止まる。
「ここに?」
「うん」
「でも、ベッドだよ」
「見れば分かる」
「そうじゃなくて……」
美咲は落ち着かなそうに視線を動かす。
寝室。
ベッド。
眠っている恋人。
その組み合わせを意識しているのだろう。
「嫌ならいい」
「嫌じゃないけど」
「じゃあ、もう少しだけ」
悠真は布団の中から左手を伸ばし、美咲の手首を掴む。
強く引いたつもりはなかった。
だが美咲が体勢を崩し、ベッドの上へ片手をついた。
「悠真くん」
「ごめん」
「急に引っ張らないで」
「眠くて力加減を間違えた」
「本当に?」
「うん」
美咲は顔を赤くしながらも、すぐには立ち上がらなかった。
ベッドの端へ座り直し、悠真の手を握る。
「これでいい?」
「もう少し近く」
「注文が多いね」
「甘えていいって言っただろ」
「いつの話?」
「球技大会のあと」
「あれは、その日だけだったんだけど」
「恋人になったから延長」
「勝手に延長しないで」
美咲は呆れたように言う。
それでも悠真の手を離さず、ベッドの上で少しだけ位置を移動した。
悠真のすぐ隣。
布団越しに、美咲の脚が触れる。
「これ以上は近づかないからね」
「うん」
「十分だけ」
「分かった」
「眠ったら起こすよ」
「美咲」
「何?」
「おはよう」
「さっきも言ったよ」
「ちゃんと見てなかったから」
悠真は眠そうに目を細めながら、美咲を見る。
「今日も可愛い」
美咲の頬が赤くなる。
「寝ぼけてる?」
「少し」
「起きたら忘れてる?」
「たぶん覚えてる」
「じゃあ、私も言う」
美咲は悠真の手を握ったまま、柔らかく微笑んだ。
「おはよう、悠真くん。今日も好きだよ」
「うん。俺も」
悠真は安心したように目を閉じる。
美咲が隣にいる。
それだけで、もう一度眠りへ落ちるのは簡単だった。
数分もしないうちに、悠真の呼吸は規則正しくなる。
「本当に寝ちゃった」
美咲は小さく呟く。
握られた手を見る。
悠真が眠っているのなら、そっと外してリビングへ戻ることもできる。
しかし、美咲は動かなかった。
自分の部屋とは違うベッド。
すぐ隣では、好きな人が無防備な表情で眠っている。
少し緊張する。
それでも怖くはなかった。
「十分だけだからね」
聞こえていないと分かりながら、美咲は言う。
そしてベッドの背板へ身体を預け、悠真が目を覚ますまで、その手を握り続けた。
読んでくださってありがとうございます。
面白いと思っていただけたら、
★評価やブックマークで応援していただけると更新の励みになります!




