第52話 初めてのプールデート
土曜日の朝。
悠真は、目覚まし時計が鳴るよりも少し早く目を覚ました。
枕元に置いたスマートフォンを手に取ると、時刻は午前六時五十分。休日なら、普段はあと二時間ほど眠っている。
美咲が朝食を作りに来る日でさえ、呼び鈴が鳴ってからようやく布団を出ることも珍しくない。
それなのに今日は、眠気がほとんど残っていなかった。
「まだ二時間もあるのか……」
待ち合わせは午前九時。
悠真と美咲は隣同士に住んでいるため、どちらかの部屋へ迎えに行けばいい。
しかし美咲が「デートらしくしたい」と言ったことで、それぞれの部屋から準備をして、九時に廊下へ出る約束になっていた。
恋人になって最初に二人で出かけたのは、駅前の商業施設だった。
互いの指輪を選び、帰り道では手をつないだ。
あれが交際後、最初のデート。
だから今日は、二回目のデートになる。
ただしプールへ行くのは初めてだった。
「水着、か」
悠真は仰向けになり、天井を見つめる。
美咲の水着姿。
考えないようにしても、意識するなという方が無理だった。
何しろ美咲自身が、悠真に見せるために選ぶと言ったのだ。
楽しみにしていてほしい。
けれど、見すぎないでほしい。
似合っていると褒めてほしい。
ただし、用意してきたような言葉ではなく、自然に言ってほしい。
彼女から与えられた条件を一つずつ思い返す。
「難易度が高すぎるだろ」
何も知らなかった頃なら、気にする必要はなかった。
似合っていると思えば、そう言えばいい。
しかし今の美咲は恋人だ。
抱き締めたときの温かさも、重ねた唇の柔らかさも知っている。
好きな相手が普段とはまったく違う姿で現れる。
平静でいられる自信はなかった。
悠真は布団から起き上がり、洗面所へ向かう。
鏡の中では、髪があちこちに跳ねていた。
手で適当に押さえようとして、今日だけは思い直す。
以前、美咲と一緒に買った整髪料を棚から取り出した。
普段はほとんど使わない。
目立たないため、身だしなみも最低限で済ませてきた。髪を整えれば、子役だった頃の面影が出やすくなるという理由もある。
だが今日は、美咲と出かける。
彼女が自分のために水着を選んでくれたのなら、自分も少しくらい努力したかった。
鏡へ向かい、前髪を整える。
上手くできず、何度かやり直した。
撮影現場では、座っているだけで専門のスタッフがすべてを整えてくれた。
自分の髪なのに、自分で扱うことには慣れていない。
「……こんなものか」
十五分ほどかけ、ようやく納得できる形になる。
以前の悠真なら、ここまでして誰かに会いたいなどとは思わなかった。
その変化が少し気恥ずかしく、それ以上に嬉しかった。
◇
九時になる少し前。
水着とタオルを入れたバッグを持ち、悠真は玄関の前へ立った。
扉へ手をかけたところで、隣室から鍵の開く音が聞こえる。
美咲も準備を終えたらしい。
悠真が外へ出るのと、隣の扉が開くのはほぼ同時だった。
「あ」
「おはよう」
「おはよう、悠真くん」
互いの顔を見たあと、二人は少し照れくさそうに笑った。
美咲は白い半袖のブラウスに、淡い水色のロングスカートを合わせていた。髪は片側だけを小さな飾りのついたピンで留めている。
肩には小さな鞄。
反対の手には、水着や着替えを入れたバッグを持っていた。
右手の薬指には、悠真とお揃いのリングがある。
「時間ぴったりだね」
「美咲も」
「本当は五分前から、玄関の中で待ってた」
「外へ出ればよかったのに」
「先に出たら、悠真くんの部屋を見ながら待つことになるでしょう?」
「駄目なの?」
「何だか落ち着かないから」
美咲は少し恥ずかしそうに笑う。
「それに、同時に出られたら嬉しいなと思って」
「上手くいったな」
「うん」
美咲は悠真の姿を頭から足元まで確かめる。
視線が髪の辺りで止まった。
「今日、髪を整えたの?」
「少しだけ」
「どうして?」
「デートだから」
美咲の表情が明るくなる。
「私のため?」
「他に誰がいるんだよ」
「そっか」
美咲は嬉しそうに目を細める。
「すごく格好いい」
「ありがとう」
「でも、本当に雰囲気が変わるね」
「変?」
「変じゃないよ。ただ……」
美咲は周囲を確認し、悠真の顔へ少し近づいた。
「天宮レイだった頃に、少し似てる」
耳元へ届くほどの小さな声だった。
廊下には二人しかいない。
それでも美咲は、悠真の秘密を守るために声を抑えている。
「嫌だった?」
美咲が不安そうに尋ねる。
「似てるって言われるの」
「美咲に言われるのは平気」
「どうして?」
「昔の俺だけを見て言ってるんじゃないって分かるから」
「うん」
美咲はゆっくり頷く。
「私が今日会いたかったのは、天宮レイくんじゃないよ」
美咲の指が、悠真の左手へ触れる。
「私の彼氏の、水瀬悠真くん」
「分かってる」
悠真はその手を握り、指を絡めた。
二人のリングが小さく触れ合う。
「美咲も可愛い」
「まだ水着じゃないよ?」
「今の服も」
「……ありがとう」
美咲は嬉しそうに笑い、悠真の手を引く。
「行こう」
「うん」
二人は手をつないだまま、並んでエレベーターへ向かった。
◇
屋内プールは、駅から歩いて十分ほどの場所にあった。
ガラス張りの大きな建物。
館内には流れるプールや競泳用レーンのほか、温水の休憩スペースや小さな滑り台もある。
休日ということもあり、入口には家族連れや同年代のグループが何組も並んでいた。
受付で利用券を購入し、更衣室の前まで来る。
男性用と女性用。
二つの入口を見比べ、美咲は水着バッグの持ち手を両手で握った。
「ここから別々だね」
「中で会えるだろ」
「分かってるけど、急に緊張してきた」
「水着を見られるから?」
「うん」
美咲は一度俯き、少し迷ってから悠真を見上げた。
「本当に、変だったら正直に言ってね」
「変だとは思わないよ」
「まだ見てないでしょう?」
「美咲が自分で選んだんだから、似合うと思う」
「菜月にも手伝ってもらったよ」
「なら余計に大丈夫だろ」
「菜月は、悠真くんが固まるかもって言ってた」
「どういう水着を選んだんだよ」
「派手なものじゃないよ」
美咲は頬を赤くしながら、バッグを自分の前へ持ってくる。
「普通の、可愛い水着」
「楽しみにしてる」
「あまり期待しすぎないで」
「今さら無理だろ」
「そこは我慢して」
「見るのを?」
「変なことを考えるのを」
美咲は言ったあと、自分の言葉が恥ずかしくなったように視線を逸らした。
「悠真くんも高校生だから、多少は仕方ないと思うけど……」
「美咲」
「何?」
「今の方が意識する」
「ご、ごめん」
「それに俺だけじゃないだろ」
「何が?」
「美咲も、俺の水着を気にしてた」
「それは……少しだけ」
「お互いさまだな」
「でも、見すぎないようにします」
「俺もそうする」
二人は何とも言えない表情で見つめ合う。
先に笑ったのは美咲だった。
「私たち、何の約束をしてるんだろうね」
「普通にしてればいいだけだったな」
「それが難しいんだけどね」
「十分後に、中央の時計の下で」
「うん」
美咲は女性用更衣室へ向かいかけ、一度振り返る。
「遅れても先に行かないでね」
「待ってるよ」
「絶対?」
「美咲を置いていくわけないだろ」
その返事に安心したように、美咲は笑顔で頷いた。
◇
着替えを終えた悠真は、約束した時計の下で美咲を待っていた。
選んだのは、黒を基調としたシンプルな水着。
鏡で髪を整えたが、プールに入ればすぐに濡れる。それでも美咲が最初に見るまでは、なるべく崩さないようにしていた。
館内には、水が流れる音と子どもたちの歓声が響いている。
室温は高く、立っているだけでも肌へ薄く汗が浮かびそうだった。
待っている間、悠真は何度も女性用更衣室の出口へ視線を向けた。
まだ来ない。
十分を過ぎたわけではない。
それでも普段より時間が長く感じられた。
周囲を眺めていると、同年代くらいの女子二人が近づいてきた。
「あの、一人ですか?」
片方の女子が尋ねる。
「いや。待ち合わせです」
「友達?」
「彼女」
悠真が答えると、二人は一瞬驚いたように顔を見合わせた。
「そうなんだ。ごめんなさい」
「いえ」
女子たちは少し気まずそうに離れていく。
以前なら、彼女がいると自然に答える自分など想像できなかった。
それが今は、不思議なほど抵抗なく口にできる。
「悠真くん」
聞き慣れた声が届く。
悠真が振り返る。
女性用更衣室の出口に、美咲が立っていた。
水色を基調とした水着。
胸元には小さなフリルがあり、腰には短いスカートのような布がついている。派手すぎず、美咲らしい清楚な印象を残しながらも、普段の制服や私服とは大きく違っていた。
髪は水へ入る邪魔にならないよう、後ろで一つに結んでいる。
いつもは髪に隠れている首元が見え、肩や腕も露わになっていた。
美咲は水着バッグを自分の前へ持ち、悠真の反応を待っている。
悠真は、すぐに言葉を出せなかった。
可愛い。
似合っている。
そのどちらも本心だ。
しかし実際に見ると、用意していた言葉だけでは足りない気がした。
美咲が不安そうに眉を下げる。
「……変?」
「違う」
「じゃあ、どうして黙ってるの?」
「思ってたより可愛かったから」
「思ってたより?」
「かなり似合ってる」
「本当に?」
「うん」
悠真は無意識に、もう一度美咲の姿を見る。
その視線に気づいた美咲は恥ずかしそうに両腕を身体の前へ寄せた。
「見すぎない約束」
「ごめん」
悠真は慌てて視線を逸らす。
「でも、全然見ないのも嫌」
「今、ちゃんと見たよ」
「どうだった?」
「だから可愛いって」
「それだけ?」
「……普段と違うから、どこを見ればいいか分からない」
悠真が正直に答えると、美咲は顔を赤くしながらも、どこか嬉しそうに目元を緩めた。
「菜月の言ったとおりになった」
「俺が固まるって?」
「うん」
「美咲も固まってるけど」
「私はどうして?」
「さっきから俺の顔より下を見てる」
指摘すると、美咲の視線が泳いだ。
「見てないよ」
「見てた」
「水着を確認しただけ」
「水着以外も見てなかった?」
「少しだけ」
美咲は観念したように認める。
「前に湿布を貼ったとき、背中は見たけど。正面から見るのは初めてだったから」
「どうだった?」
「悠真くんこそ聞くの?」
「俺だけ答えるのは不公平だろ」
美咲は言葉を探すように、何度か唇を動かした。
「思ってたより……格好いい」
「ありがとう」
「あと、細いのにちゃんと身体を鍛えてるんだなって」
「昔の習慣が少し残ってるだけだよ」
「それであんなに運動できるの?」
「学校では手を抜いてたからな」
「今度は手を抜かないでね」
「水泳勝負?」
「うん」
美咲は悠真の目をまっすぐ見て、少し挑戦的に笑った。
「私と競争して」
「わかった」
「でも無理はしないで」
「怪我はもう治ってると思うけど」
「痛くなったら、すぐにやめること」
「分かった」
「それと」
美咲は周囲を確認し、悠真へ少し近づく。
「さっきの女の子たち、誰?」
「見てたの?」
「出てきたら、悠真くんと話してたから」
「一人かって聞かれた」
「それで?」
「彼女を待ってるって答えた」
美咲の表情が一瞬で明るくなる。
「彼女って言ってくれたの?」
「違うの?」
「違わない」
美咲は嬉しそうに笑う。
「私が悠真くんの彼女です」
「知ってる」
「確認したかっただけ」
美咲はそっと右手を差し出す。
今日は指輪を外してきた。水の中で失くさないため、互いの部屋へ置いてある。
それでも指と指を絡めれば、お揃いのものがなくても恋人だと実感できた。
「行こう」
「うん」
二人は手をつないだまま、最初に流れるプールへ向かった。
◇
肩まで水へ入ると、水着を見られているという美咲の緊張も少しだけ和らいだ。
プールの流れは想像していたより強く、力を抜けば自然に身体が前へ運ばれていく。
「悠真くん、待って」
「何もしてないよ」
「悠真くんの方が流されるのが速い」
「身体の大きさが違うからかな」
美咲が水中で手を伸ばす。
悠真はその手を取り、自分の方へ引き寄せた。
二人の距離が縮まる。
「これなら離れない?」
「うん」
美咲は嬉しそうに頷く。
水中でつないだ手は、地上とは少し違う感触だった。
水の流れに押されるたびに指がずれ、そのたびに握り直す。周囲には大勢の利用者がいるのに、手のひらから伝わる美咲の存在だけが鮮明に感じられた。
「恋人と流れるプールに入ったら、これをやってみたかったの」
「手をつなぐだけ?」
「それがいいの」
「付き合う前にも手をつないだだろ」
「今は意味が違うよ」
「どう違う?」
「離れないようにじゃなくて、離れたくないからつないでるの」
美咲は少し照れくさそうに笑う。
その直後、流れの強い場所へ入った。
足元を取られた美咲の身体が、横へ流される。
「きゃっ」
悠真はつないだ手を引き、その身体を受け止めた。
美咲の両手が、反射的に悠真の肩へ回る。
水の中で身体が重なり、二人とも動きを止めた。
「大丈夫?」
「うん。ごめん」
「急に離れたら、また流されるぞ」
「分かってるけど……近い」
美咲は離れようとする。
しかし足元の流れはまだ強く、上手く立てない。
再び悠真の胸元へ手をついた。
「だから、今はこのままで」
「……うん」
悠真は美咲が安定するまで、その腰を支えた。
水着越しに伝わる体温と、細い身体の感触。
普段の服装で抱き締めるときよりも、距離が近く感じられる。
意識するなという方が無理だった。
けれど、美咲を困らせたくはない。
必要以上に力を込めず、倒れない程度に支える。
美咲も何かを感じ取ったのか、悠真の顔を見上げた。
「今、すごく真面目な顔してる」
「美咲が転ばないようにしてる」
「それだけ?」
「それ以外を考えないようにしてる」
「……正直だね」
「聞いたのは美咲だろ」
「そうだけど」
美咲の頬が赤くなる。
「少しくらいなら、意識してくれてもいいよ」
「もう十分してる」
「本当に?」
「だから困ってる」
美咲は数秒驚いたように悠真を見る。
それから嬉しさを隠すように、悠真の胸元へ顔を近づけた。
「ごめんね」
「何が?」
「少し嬉しい」
「俺は理性を保とうと頑張ってるんだけど」
「どうして?」
「美咲が嫌がることをしたくないから」
悠真が答えると、美咲の表情が柔らかくなった。
「ありがとう」
「うん」
「でも、手をつなぐのと、転びそうなときに支えてもらうのは嫌じゃないよ」
「分かった」
「あと、可愛いって言ってもらうのも」
「そうか」
「ねえ、もう一回言って」
「何回必要なんだよ」
「何回言われても嬉しいよ」
美咲は期待するように悠真を見る。
濡れた髪が頬へ張りついている。
悠真は指先で、その髪をそっと払った。
「可愛いよ、美咲」
「……うん」
美咲が嬉しそうに微笑む。
やがて流れが弱い場所へ移り、足元が安定した。
それでも美咲は、すぐには悠真の肩から手を離さなかった。
「もう一人で立てるだろ」
「あと少しだけ」
「誰かに見られるよ」
「知ってる人はいないから平気」
「意外と大胆だな」
「悠真くんにだけです」
その言葉に、胸が高鳴る。
悠真は結局、美咲が自分から離れるまで、その身体を支え続けた。
◇
流れるプールを二周したあと、二人は競泳用のレーンへ移動した。
「約束どおり、勝負しよう」
美咲は髪を結び直しながら言う。
先ほどまでの恥ずかしそうな様子は消え、表情には負けたくないという気持ちが表れていた。
「距離は?」
「二十五メートル」
「一本だけ?」
「負けた方が、勝った方のお願いを一つ聞く」
「一週間の命令権はまだ残ってなかった?」
「それは昨日で終わりです」
「意外と素直に終わらせるんだな」
「約束した期間は守ります」
美咲は少し考え、付け加える。
「でも、一日一回恋人らしいことをする約束は、これからも続けたい」
「それ、美咲の命令じゃなかった?」
「今度は二人の約束にして」
「いいよ」
「即答なんだ」
「俺も嫌じゃないから」
美咲の口元に笑みが浮かぶ。
「じゃあ、今日の分は?」
「まだ決めてない」
「勝負のお願いにする?」
「俺が勝ったらな」
「私が勝つよ」
美咲は隣のレーンへ入る。
二人でスタート位置につき、壁へ足を当てた。
「悠真くん」
「何?」
「手を抜かないでね」
「本気でいいの?」
「うん。負けても怒らない」
「分かった」
美咲が正面を見る。
「よーい――スタート!」
二人は同時に壁を蹴った。
水中へ身体が沈み、周囲の音が一瞬遠ざかる。
悠真は最初から、ある程度の速度を出した。
相手が美咲だからといって、露骨に手を抜くつもりはない。
隣を見る。
美咲の泳ぎは、予想していた以上に綺麗だった。
腕の動きに無駄がなく、一定のリズムを保っている。勉強でも運動でも、努力を積み重ねてきたことが一目で分かる泳ぎ方だった。
中盤までは、ほとんど同じ位置。
美咲が僅かに前へ出る。
手を抜いてはいない。
それでも、肩の怪我から戻ったばかりの悠真は、無意識に右腕の動きを抑えていた。
美咲がそのまま壁へ近づく。
残り五メートル。
悠真は右肩に痛みがないことを確かめ、最後だけ速度を上げた。
二人の位置が並ぶ。
ほぼ同時に腕を伸ばす。
先に壁へ触れたのは――悠真だった。
差は、手のひら一つ分にも満たない。
「負けた……」
美咲が水面から顔を上げ、息を整える。
「最後、急に速くなったよね?」
「手は抜いてないよ。肩を確かめてただけ」
「もう一回」
「勝負は一本じゃなかった?」
「今度は最初から本気で」
「お願いを聞く約束は?」
「覚えてるよ」
美咲は悔しそうにしながらも、楽しそうに笑っていた。
「何をしてほしい?」
悠真は少し考える。
飲み物を買ってもらう。
帰りに食べるものを選ばせてもらう。
もう一度勝負する。
だが、今一番頼みたいことは別にあった。
「帰ってから」
「うん」
「今日の恋人らしいこと、美咲からして」
「何を?」
「キス」
美咲の顔が、一瞬で赤くなる。
「私から?」
「嫌なら別のお願いにする」
「嫌じゃないけど……」
美咲は口元まで水へ沈める。
「悠真くんからしてくれると思ってた」
「俺からなら、いつもと同じだろ」
「違う恋人らしいことじゃなくてもよくなったでしょう?」
「美咲からしてほしい」
「どうして?」
「してもらうの、好きだから」
悠真が正直に答えると、美咲の顔がさらに赤くなった。
「そういう言い方、ずるい」
「駄目?」
「……駄目じゃない」
美咲は小さく首を横へ振る。
「帰ったら、私からする」
「約束」
「うん。でも、それまで何回も確認しないでね」
「どうして?」
「ずっと意識しちゃうから」
美咲は恥ずかしそうに視線を逸らす。
「もう今から、ちゃんとできるか気になってるの」
「俺も楽しみにしてる」
「だから言わないで!」
美咲は水面を両手で叩き、小さな水しぶきを悠真へ飛ばした。
悠真も避けずに受ける。
それから二人は顔を見合わせ、同時に笑った。
プールで過ごす時間は、まだ半分以上残っている。
けれど美咲の約束を聞いてしまった悠真は、すでに帰宅後のことを少しだけ考え始めていた。
読んでくださってありがとうございます。
面白いと思っていただけたら、
★評価やブックマークで応援していただけると更新の励みになります!




